(4)甲高い子どもの泣き声が、サントは嫌いではない。
「……全く」
冬の花が控えめに咲く花壇の前に腰を落として、寒さに負けず元気に葉を伸ばしている雑草を申し訳なさげに引き抜きながら。
言葉と裏腹に対して困った様子もなく、サント・ピージュは呟いた。
「相変わらず、困った息子だ」
柔らかい苦笑が、口の端に浮かぶ。
優しげな、酷く整った顔立ちの男だった。年は三十か、もう少し上だろうか。
銀の短髪に、白い肌。花壇の土に向けられていた、月日を経た銅貨の瞳が、ついと空に視線を投げた。
サントが神父の職に就いているアレハンドロ教会は、街の中央部に位置している。聖堂の横に孤児院を兼ねた修道院が併設されており、十人あまりの子どもたちとサントを含む聖職者の生活の拠点になっていた。
今日は週に一度、修道院の子どもたち総出で掃除をする日だ。
見上げた空は蒼く、高く、雲一つなく澄んでいる。太陽は頭上にあって、風も夜よりはずっと暖かい。
それでももうしばらくすれば、少しずつ空気は冷たくなっていくだろう。それまでに掃除を終わらせてしまわなければと、サントは気を引き締めた。
まだ体が出来ていない子どもは、油断をすると簡単に風邪を引いてしまう。気温が下がる前に終わらせて全員建物の中に入れてしまおうと、頭の中で予定を組み立てる。
先週は修道院を綺麗にしたから、今週は聖堂が主な掃除場所だ。子どもたちの作業はどこまで終わっただろう。
花壇の隅に引き抜いた雑草を一纏めにして、サントは作業用の手袋を外した。
立ち上がって、見た目の若さに似合わぬ仕草で腰を伸ばす。隣で花壇に水をやりながらそれを見ていた男の子が、くすくすと笑った。
「神父様、おじさんみたい」
「君から見たら、僕なんて随分な年寄りですよ。さ、草取りは終わりましたから、残り半分の水やりをお願いできますか」
「はぁい」
右手で水やり途中のジョーロを持ったまま、左手で汚れた手袋を受け取ったサブレが、元気に左手を上げて返事をした。
「神父様、『困った子』って?」
独り言を聞いていたのだろう、首を傾げる子どもの頭をくしゃりと撫でる。まだ十歳に届かない彼の髪は、驚くほど柔らかいのだ。
見上げてくるサブレの純真な瞳を見下ろして、サントは悪戯っぽく片方の眼を瞑った。
「お使いに出たきり帰ってこない、青い双子のことですよ。全く、どこで道草を食っているのやら」
このままでは日が暮れてしまいます、と苦笑する。
「明日の大ミサのためにと、パンを頼んでいるのですけれどね」
「シーアお兄様と、オセアお姉様! パン!」
ぱっと顔を輝かせるサブレの頭を、サントはもう一度ぽんぽんと撫でた。
サブレが双子の弟をお姉様と呼ぶのは、オセアンの英才教育の賜物である。己の息子同然に育てた少年ながら、彼がどこを目指しているのかサントはいまいち判らない。
「水やりが終わって、お堂の掃除も終わったら、一緒にお夕飯を作りましょうね。のんびりしていたらすぐに時間が過ぎてしまう」
「ごはん!」
「今日は羊のスープですよ」
「ひつじさん……」
やや呆然と呟いたのは、先日森の羊飼いを一緒に訪れたときのことを思い出したからかも知れない。
羊に気を取られて手元がおろそかになったのか、ジョーロが傾く。零れた水が子どもの足を濡らす前に、サントはさっとジョーロと手袋を取り上げた。
サブレがおろおろと男の足下を動き回る。それがどうにも子犬のようで、サントはつい噴き出した。
「ひ、ひつじさん?」
「はい。一頭解体したお裾分けを頂いたのです。命に感謝して頂くのですよ。ひとも、羊も、他の生き物も、命は全て命を頂いて繋がるものですから」
しゃがみ込んで、目線を合わせて言い含めると、ややあって子どもはこくりと頷いた。
賢い子だ。サントはそっと銅貨の瞳を細めた。
「――さ、これをお願いしますね。お堂の様子を見てきます」
「はい。では後ほど、神父様」
「はい、後ほど」
日は頂点から過ぎて、ほんの僅か傾き始めている。先ほど昇ったばかりだと思ったのに、ひとの時間は本当に早い。
子どもは遊ぶことと食べることと寝ることが仕事だから、子どもたちの生活に合わせて修道院の夕食は早い時間に設定されている。食事を作って、皆で食べて、小さな子どもたちが寝たあとに年かさの子どもたちに勉強を教えていれば、あっという間に夜は更けていく。
「神父様!」
考えながら聖堂に近づくサントの姿に気づいたのか、入り口近くにいたエラーブルが声を上げた。一応小さな体に合わない箒を持ってはいるが、ほとんど遊んでいただけに見える。
ちらと地面を確認すれば、案の定落ち葉が散らかったままになっていた。あとで上の兄姉がどうとでもするだろう。
箒を引きずってこちらに駆け寄ってくる小さな女の子に、サントは声を上げた。
「転んではいけませんよ! 気を付けて」
彼女はまだ本当に小さくて、下手をすると歩いているだけでも簡単に転んでしまう。それを知りながら、サントは注意を促すだけでエラーブルを止めることはしなかった。
エラーブルが転べば、小さな子どもは容易に泣くだろう。そうしてそれを聞きつけて、聖堂の掃除をしていた年かさの子どもたちが慌てて飛び出してくるのだ。悪戯好きのフォルトや、お姉さんぶったナージュが。光景が眼に浮かぶようだった。
さわ、と風が吹いた。銀の髪をされるまま流しながら、歌を口ずさむ。神を讃える歌だ。
明日は週に一度の大ミサだから、多くの人が訪れる。そして聖堂では、神を讃える歌が唄われるのだ。
前方から子どもの泣き声が聞こえて、サントの思考が途切れた。泣き声の方に眼を向ければ、案の定、エラーブルが盛大に転んだままの体勢で大泣きしていた。近くに放り出された箒が転がっている。
遠慮のない、全身全霊の泣き声だ。甲高い子どもの泣き声が、サントは嫌いではない。
サントが近寄るよりも早く、聖堂の入り口から二人の子どもが飛び出してくる。十五歳の少年フォルトと、フォルトよりも一つ年上のナージュだ。
あまりに予想通りの展開に、サントは思わず微笑んだ。
わたわたとエラーブルの周りを行ったり来たりしているだけのフォルトを横目に、ナージュが小さな体をひょいと抱き起こした。
ナージュは修道院の中でヴェルト兄弟の次に大きな子で、ヴェルト兄弟よりもずっと頼りになる少女だった。もう年頃なのに、弟妹たちを放っておけないと孤児院に残って小さな子たちの母親代わりをしている。
「ほら、エル。怪我はない?」
ぱたぱたと膝を払って、泣いている子をぎゅっと抱きしめてやる。サントが歩み寄ると、ナージュはエラーブルを抱いたまま彼を見上げた。
「神父様、エルが怪我をしているみたい」
「おや、それはいけませんね。フォルト、井戸の水を汲んできて頂けますか」
「お、おう!」
慌てて聖堂の裏手に駆けていくフォルトを見送って、ナージュから小さな少女を受け取る。確かに、膝が赤くなってしまっている。
「ごめんなさい、神父様。お堂の掃除はもうちょっとかかりそう」
「構いませんよ。もうしばらく続けて、いいところで切り上げてください。エルの仕事の続きはシーアたちに任せましょう」
箒を拾い上げて、ナージュがこくりと顎を引く。
「そのシーアお兄様たちは?」
「はてさて、使いに行ったきりどこで遊んでいるやら。彼らのパンは半分にしてやりましょうね」
「あら、良い考えだわ」
秘密の約束でも聞いたように、ナージュが眼を煌めかせて笑った。
育ての親である神父の胸に顔を押しつけているエラーブルの髪を撫でつけてやりながら、少女が少しだけ唇を尖らせる。
「エルはすぐに転んでしまうんだから。もう、判っていて放っておいたでしょう、神父様」
「子どもはこれくらいがちょうど良いのです。貴女も小さな頃はそれはもうおてんばだったのですよ、ナージュ」
「わたくしの話はいいんです!」
つんと余所を向いたナージュが、ややあってちらとサントを見上げた。
どこか期待したように。
「――じゃあ、シーアお兄様や、オセアお姉様も?」
「もちろん。……あぁ、いえ――」
言いさして、少しだけ困ったように。
けれどこれ以上なく楽しげに、サントが少女の耳に囁く。
「彼らはもちろんとびきりのわんぱくでしたが、どうにも未だに暴れ足りないようで。あちこちで騒動を拾ってくるので、僕はいつも心配しているのです」
「あら、本当に?」
「ええ、もちろん。今日だって、パンを買ってくるのにどこで遊んでいるのやら」
少女の問いに、わざとらしく大真面目な顔でサントは頷いた。
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