悲劇と修辞。救いに満ちたサロメ

 オスカー・ワイルド。耽美主義の創始者にして劇/童話作家。アイルランドに生まれ、「芸術のための芸術」を標榜し、みずからも最大の芸術家として君臨した、英文学界の巨星である。
 まず今作を初読したとき、その構成の妙に驚いた。2話構成の短編であり各話は時間的にも、筆致的にも、その意味にも、大きな隔たりを持つ。端的に言えば1話は悲劇であって、2話はそれに対する願い、答え、救済だと感じたのである。
 悲劇作家として有名なワイルドであるが、実はイギリス伝来の風俗喜劇、社交界を舞台にした軽妙なコメディを復活させた喜劇作家としての功績も、非常に高い。しかして彼の著作はみな一貫して、童話であれ悲劇であれ喜劇であれ、おもしろおかしく世俗を皮肉りながらも、世界を嘆く悲しみに満ちているように思うのである。
 「午後王」は、そんなワイルドの悲愴を受け継ぐ作品であるのだ、とわたしはすぐに思い至った。これはあとで確認すると作者にワイルドへの意識はまるでなく、どうやらまったくの偶然だったようなのだが。それにしても、この一致は出来過ぎである。
 親しみの深いもので言えば「幸福な王子」と「ナイチンゲールと赤いばら」において、ワイルドは童話とは思えないひどく悲観的な持論を展開している。誰もが悪くない。誰もが自分を必死に生きているのに、誰もが傷つけて傷つけられてしまう。これがワイルドの世界観なのだろうが、今作にもその空気が共有されているように思う。そして「幸福な王子」にはあった、「ナイチンゲールと赤いばら」にはなかった、〝救済〟が、「午後王」には実に濃密に満たされているのだ。
 修辞の話をしたい。ワイルドの創始した「耽美主義」という文学派のもっとも顕著な特徴は、その鮮やかな修辞法にあるとわたしは思う。この世のすべての美しいものを筆に乗せて書き尽くしてしまう芸術。それこそが文芸であるべきだというワイルドの信念が、この作品にも宿っている。
 それがはっきり表れているのは1話の厳格な地の文であり、2話のきわめて美しいモノローグである。「午後王」のいとおしげな、愛する男への形容よ! これこそが秀逸な修辞に違いない、とわたしはツイッターに殴り書きするくらいの衝撃だった。しょうじきに言って、わたしは悔しかった。わたしもこの修辞を身に付けたいと、しばらく練習していたからである。
 長々と、自分語りにも似た的外れなことを書いたかもしれないが、わたしはこの作品に並外れた色気を感じた。それは狂気の美姫であったサロメの香気だった。
 幻想的な悲劇的世界観と、それを満たす濃厚な救いを求める読者諸君は、ぜひ一読されたい。

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