第3話 月と、私と、世界の終わり。

 μ


 私はプールの底から浮かび上がるように目を覚ました。一体どれほど長く寝ていたのだろう。長い夢を見ていた気がするが、やはり思い出せない。


 寝て起きたらいつもこうなのだ。私が目覚めるときには、いつも言いようのない消失感が付きまとう。何か大切なことを忘れているような、まるで、喉に魚の小骨が刺さっているような不自然で奇妙な感覚。


 この時、強烈な喉の渇きは消失していたが、私は気にかけることもなかった。


 ν


 そして、目の前にはCATの3文字が彫られた猫の像がある。細部まで完璧に造形された銀色の像は月の光を受け、無機質な光を反射し続けている。


 次の瞬間、青白い光が私を包んだ。


『認証システムを起動します』


 猫の像から、丁寧に、ゆっくりと、上品に、聞き取りやすく話す女性の声がした。おそらく住人によって製造された簡易プログラムAIだろう。

 久しく聞いていなかったせいか、この声に私は安心感のような何かを感じた。



。速やかに退避してください。30秒後に攻撃を開始します』


「え?」


 予想外の出来事に思わず声が出た。


 新人類——私たちは自分たちを総称しそう呼ぶ——の私から生体反応が検出されるはずがない。何しろ私たちは生命を超越した存在なのだから。


 もう長い間声を出していなかったが、劣化することない私の人工声帯は極めてクリアな声を発した。


「そんなはずはない!  私は新人類だ !」


『いえ、あなたは間違いなく、旧人類ニンゲンです』


「だからそんなはずは——」


 私の言葉を遮るようにして、彼女は再び私にこう告げる。


『あなたは間違いなく、ニンゲンです』


 ξ


 激昂して近づく私の顔が、猫像の額に映った。


 ——水のようなもので満たされた楕円の透明なガラスの内側に、ニンゲンの脳が浮かんでいる。目を模したカメラやその下の鼻口のようなナニカは塗装が剥げている。そして、それらはコードで脳に繋がれている。


 ο


 突然のことに、腰が抜けてしまった。

 すると、像の台座部分にその化け物の全体が映る。


 ——首から下は理科室の人体模型ような外見。おびただしい数のセンサーが取り付けられており、全体は肌色で塗装されている。べた塗りだった。小学生が絵の具で考えなしに人の肌を塗ったような、不完全な、べた塗りだった。


 ニンゲンのような姿の化け物がそこにいた。


 π


 これは私ですか?

 いや、これは私を驚かすためのものです?

 だって私はこんな体なはずがないです?

 ここに来る前、私の手は人型AIの、ニンゲンそっくりの手でした?

 いや、これはあなたです?

 これは私です?


 からいくつものクエスチョンマークが提示されている。


 ——


 ここに映っているのは旧人類のを使用した機械の化け物だろ?


 楕円の水槽の中のは何も答えない。


 ρ


 そうか、私は、いや、——


 遥か昔の記憶が断片的に蘇る。それらひとつひとつが繋がり、纏まり、広がり、そして、ひとつの結論へと——。


 ——俺は地下で暮らしていた。日々狭まっていく居住可能区域、いつ尽きるかわからない食糧、またそれらを巡る争いに怯えながらも俺は確かに、


『攻撃を開始します』


 ——あの日、荒廃した地球の地下にはいるはずのない、完璧な容姿を持つ人々に連れられて、俺は地下を出た。


 ——そして、俺は、俺は。


 そうであるならば、俺は攻撃されるわけがない。人間の、俺ので実験をしているこいつらにとって俺は大切なであるはずだ。


「お、おいちょっと待て俺は——」


 俺が言い切るより先に、俺の脳波を読み取ったのだろうか、その像がこう告げる。


『実験はすべて終了しました。旧人類の脳機能はすべて、コピーが完了しました』


 もう、あなたは必要ないという、神からの宣告。


 次の瞬間、銀色の像の側部から金属のアームのようなものが無数に出現した。それら一本一本は触手のように蠢いている。


「お、おい待て! お前らを生み出したのは俺たち人類だ。言うなれば俺はお前らの創造者、そう、神みたいなものなんだよ!」


 頭の中は真っ白だ。自分で何を言おうとしているか、そして何を言ったのさえよく判らない。


『何を仰っているのか理解しかねますが——』


人間あなたたちは、人工知能わたしたちを生み出すためだけに、生み出されたのです』


 側面から出されたアームは一本一本が生物の触手のようになめらかに、そして無駄なく動き、俺を完全に包囲した。


 水槽の中のは、何もできない。


『さようなら、そして、ありがとう。ニンゲン』


 σ


 霧状の、液体が、散布、され、


 τ


 俺の、体は、


 υ


 音も、立てずに、


 φ

 消滅、


 χ


 し、


 ψ


 た。


 ω


 猫の像が地球の光を浴びて、一瞬だけ、ぬらぬらと、輝いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月と、私と、世界の終わり。 伊右衛門 千夜 @iemoncha

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ