月と、私と、世界の終わり。

伊右衛門 千夜

第1話 月と、私と、瑠璃の花。

 α


 紺碧の空に銀色の大きな丸い月が懸かっている。その下は一面の花畑で、見渡す限り蒼い瑠璃唐草ネモフィラが植わっている。


 見渡す限りとは決して誇張した表現などではない。地平線の最後のひとかけらも残すことなく、その花は大地を包み込んでいる。


 私は瑠璃唐草が好きだ。


 瑠璃唐草は、絶えることのない銀色の月光を、ぬらぬらと反射している。

 月の光によって瑠璃色の、澄み渡る青空のような花弁でさえどこか妖艶で、官能的に感じられてしまう。


 しかし、ここには花に誘われて虫が来ることも、虫に誘われて鳥が来ることもなかった。

 否、


 ここにあるのは、月と、私と、瑠璃唐草だけ。


 ただそれだけ。

 ただそれだけ。

 ただそれだけ。


 β


 私はゆっくりと、ゆっくりと、息を吸い込む。


 大好きな花の香りが、鼻腔を、身体を、脳を満たしていく。

 身体が、大地と一体になっていくような気持ちよさを感じる。


 快楽に身を任せ、私は意識を手放した。


 γ


 病的なまでにウツクシイセカイがここには確かに存在した。無菌室のような、完全で完璧で全璧な、どこまでも潔癖な虚構の花園がここに存在した。


 δ


 そうしてどのくらい経ったか。私は目を覚ました。


 大きな大きな月は永遠に果てることのない銀色の輝きで、大地を照らし続けている。

 沈むことなくと全く同じ様子で私に微笑みかける。

 私が寝る前を昨日、起きた後、つまり現在を今日とすればだが。


 私は月が好きだ。


 私の住んでいた国には、自然の美しい景色を表す花鳥風月という言葉がある。

 ここには花も月もある。風はわずかだけれど確かにある。鳥が来てくれないのは、玉に瑕、というものだろうか。


 空を見上げる。

 見えるのはいつも同じ景色。

 見えるのはいつでも絵画のような、巨大な月と綺麗な花だけ。ただそれだけだった。

 もはや時間の感覚なんてものは、私にはなかった。時間を示すものさえ持っていないし、気にする必要も全くなかった。


 ε


 私は、強烈な喉の渇きを感じた。喉の奥が焼けるように痛い。

 それに加え、口の中がしょっぱく感じられる。上唇と下唇がくっついてしまいそうだ。

 今までこんなに喉が渇くことがあっただろうか。


 私は危機感を覚えた。水を飲まなくては。生命の根元である水を。


 立ち上がった私は辺りを見回した。

 やはり、瑠璃色の花が地平線の最後の一欠片まで完璧に敷き詰められている。


 もちろん私に行くあてなどありはしない。だが、このままここにいても死を待つだけだ。


 楽園にいつまでもいるわけにはいかないのだ。現実を直視し、重荷を背負い直し、歩み出さなければならないときがいつかは来るのである。


 降って湧いたような思考が脳裏をぎる。


 ゆっくりとへ、私は歩き始めた。帰りたくはなかったけれど、水がなければ生きられない。やはり、死ぬのは、怖い。


 敷き詰められた花々を散らしながら、侮辱しながら私は歩いた。


 ぬらぬらとしたどこか哀しげな月明かりが、依然として私を照らしていた。

 ぬらぬらとしたどこか哀しげな月明かりは、私の影を長く、どこまでも長く、伸ばし続けていた。


 ζ


 右足を出す。左足を出す。右足を出す。左足を出す。


 さて、歩き続けてどのくらい経っただろうか。時間を確かめるものは何もない。


 一体、時間が経つ、とはなんだろうか。そもそも、時間とはなんだろう。目に見えないけれどここにある。

 ——否、恐らくここにあったはずのものだ。


 変わらないものが多すぎて時間の流れる感覚が麻痺しているのだ。

 変化のない世界では、時間は確かに静止する。私の経験上では、だが。


 η


 喉の奥がじりじりと熱い。

 依然として強烈な喉の渇きを、脳は訴え続けていた。


 ふと、足元を見ると、花々には私の足跡がくっきりとつけられていた。私が踏んだ花々はその花弁を散らしている。


 花が散った。

 私が散らせた。


 あんなにも好きだった瑠璃唐草が散っても、私はなんとも思わなかった。


 θ


 私は、後ろを振り返る。地平線の彼方まで、私の足跡が続いている。


 気づかないうちになんという距離を歩いたのだと驚愕したが、私の目線における地平線までの距離を頭の中で計算したところ、およそ二キロと五百メートルと知れて、更に驚愕した。

 何度も何度も解き直したけれど、誤りはないようだった。


 ι


 ——突然、足元から蒼が消えた。

 見上げると、前方の景色が灰色になっている。

 のだった。


 しかし、私は何も気にかけることなく、ただただ、歩みを進めた。


 右足を出す。左足を出す。右足を出す。左足を出す。


 その花のことなど、忘れていた。


 κ


 私はついににたどり着いた。

 私は本能的にそこへと向かっていたのだろうか。動物としての生きる本能によって。もしくは◼︎◼︎◼︎◼︎によって。


 だが、そこには一体の像があるのみだった。

 猫の形に造形された銀の像。


 辺りとは明らかに異なる金属の輝きをそれははなっている。月の艶めかしい輝きさえも無に帰す人工物の輝きをそれは放っている。


 やっとここにきた。

 これで水、水が。

 安堵で私は膝から崩れ落ちた。


 間も無く、私の視界は闇に閉ざされた。

 閉じる瞼に無数の光が見えた気がした。


 これはつまり、高所から落下するような急激な眠気。もしくは失神。もしくは——。


 λ


 ——その男が、生を受けてから、地球時間西暦で実に、が経過していた。

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