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  • お疲れ様でした。

    私は逆のアプローチで、生の意味についてとりあえずの解を得ました。
    死ぬまでにまた変わるかも知れないけど、参考までに。
    なお、その解の一端は、拙エッセイ「あの世って何なのよ」にもあります。

    死を考えることは生を考えること。
    なぜなら、自己の死は意識することができず、他者の死を通して初めて死を理解し、すなわち最低限の解として、生とは死んでない状態と悟るから。
    また、現実を考えることは、物語を考えること。
    なぜなら、人は自己のあるいは他者の物語を通してしか、現実を見ることができず、その物語の終わりあるいは破綻を通してしか、現実を悟ることはできないから。

    そして、人は死ぬと、物語になる。

  • ゲーム開発に関わったことがある経験者としての意見ですが(拙作「あの世って何なのよ」に少々言及あり)、ゲーム依存がありうるのは、それが肯定、あるいは否定されうるのは、ゲームが商業主義的にそのように作られているから、です。従って、開発者にとって「依存性」はネガティブな要素とはなりえません。
    「現実」とゲームの違いは、楽しいとか楽しくないとかではなくて、「現実」には依存させようとする要素(人権や就職などの概念もそのひとつ)が無数にあり、ゲームはその要素のひとつにしか過ぎない、という点です。そして、その特定の要素に対して否定的なイデオロギー派閥が、現実のひとつの要素にしか過ぎないゲームを現実を比較して非難するのは、渦巻きだからといってナルトと銀河を比較するようなナンセンスである、と私は思います。

    作者からの返信

     ゲーム会社的に依存してくれた方が良いのだろうとは漠然と思ってましたが、やはりそういった方針自体あるのですね!
     スマホゲームのガチャは然り、MMOの課金もそうでしょう、はまってくれた方が売り上げ的に正しいこととなると。
     そういった他人の、組織的に意図されたものに生活を狂わせてしまうのはよくないことだと思われます。そうした意味で、仕事やら創作やらの現実と、ゲームをすることとは同じ次元で語れないことと思います。

     一方で、僕が今回の記事で表現したかったことは、楽しい、ということ自体にも価値があるといった点であり、その楽しさを提供してくれる媒介がゲームであるならば、それは否定されるべきものではないだろう、という点でした。
     スポーツで汗を流すのと、アウトドアでバーベキューするのと、ゲームで楽しいとととは、別にそこに優劣はないと思うのです。いろんな楽しさがあって良い。それぞれ認められて良い。
     ただ、ゲーム依存は、元記事にも書いてましたが、やってる本人も段々楽しくなくなってきてしまうらしいですね。それは逆にゲームに失礼とすら思いますね(笑)
     それはともかく、ゲーム会社的にも依存を肯定する、というのが、必ずしも当てはまるかな、とも、思いました。上に挙げたジャンルは、基本無料、的なのはその傾向がありそうですが、昔のロープレとか、そうだったのかなぁと。スーファミのドラクエとか、夢中になって遊んでもらおう! という動機はあったのかもしれませんが、依存させよう、としてたかというと、別に買ってもらえば商業的にも成功なので、小説、映画その他エンタメと同じ動機だったのではないかなぁ。
     昨今問題になるゲームは、やはり、終わりがない、という点と、競争心を煽る点(他人と一緒にプレイできるようになったこと)なのかもしれませんね。

  • その結論はそのまま、他人をなぜ殺してはいけないか、という理由にもなりますよね。殺したいと思うアイツは、いつか自分を救うかも知れないのですから。
    なお、私は「自殺とは、自分の価値観に自分が殺されること」だと考えています。だから、本当は死にたくないのに自殺する人がいるのだ、と。

    作者からの返信

     この結論は、決して、救いではないと思って確か書いていたと思いまして自分でも改めて読み返しましたが、「呪いのごとく」といったあたりに、やはりそういう主旨がありそうだなと思いました。仰る通り、憎い相手でもいつか自分を救うかもしれない「可能性」がある以上、全否定することも「論理的に」できない。
     もう一つの、「自分の価値観に殺される」という表現が気に入りました。確かに自殺はそういった面がありそうですね。一方、レアケースでありそうですが、「お前なんていらない」「消えろ」と言われ続けて死んでしまう人もいるかもしれません。でもそれはむしろ「殺された」ようなものですね。

  • 「成長」と、ひとことで言っても……
    他人が定義する、または自分が定義する、他人の成長、または自分の成長、そのうち、肉体的成長、人間的成長、社会的成長、相対的成長、絶対的成長、は、思考の迷宮を脱出するためには、厳密に区分されるべきだと思います。
    特に、チカラある他人は、「他人が定義する、社会的な、絶対的な、自分の成長」を、貴方が持つ「自分が定義する、人間的な、相対的な、自分の成長」とすり替えようとするものだから、その他人に振り回されないように考えるべき、と私は思います。

    作者からの返信

    ありがとうございますありがとうございます。
    この「成長」という概念の理解は、自分は30代になって変わってきているなと最近気づいてこの記事を書きました。
    人間的、社会的、肉体的、精神的、相対的、絶対的と、尻鳥さんに挙げてもらわなければそこまで深く考えてませんでしたが、このように成長にも多くの種類がある、ということに、もっと早く気づけたら良かったなぁとは思っています。まだ二十代、十代で気づいていない人がもし、もしいたら、気づいてもらいたいなぁと思ったりします。まぁ、みんなもう気づいているんだろうなぁ。

    ただ、同時に、気づいただけではいけなくて、成長を実践しなければいけない、と思います。そして、成長が感じられなくなったとき、人は人生に希望を失っていく原因になるのだと思います。若いうちは、きっと意識しなくても成長できる面が多くある。肉体的にも、精神的にも。
    一方、年をとるごとに、一般には、記憶も衰え、身体も衰えると。

    そこで、そうした不可逆の「変化」が避けられないとしたら、やはり、何らかの対処、それは普遍的に活用できる何か……僕はそれを、この随筆のタイトルに託しているというか、きっかけにしようと思っていますが、まだまだ五里霧中かもしれません。

    追記!
    いただいたコメントに対しての返信にぜんぜんなってませんが、他人に振り回されてはならない、という点も非常に共感しておるところです。少しでもコメントの感謝が伝わるといいのですが、どうも書いていると長くなってしまう傾向が……

    編集済
  • 「反転」という言葉で思い出しました。それは18年ほど前のこと。貴方と同じようなグルグルした思いに囚われた私は、「養老天命反転地」なる不思議なテーマパークを知り、そこで何かの人生のヒントが掴めるのではないか、と思って、東京から単身出かけたのです。
    そして……得たものはとても大きかった。それは「そんな魔法っぽいものはない。少なくとも私にとっては」という極めて強固な認識でした。たぶん、ひとりで決め、ひとりで考え、無駄なお金と時間と労力をかけたからこそ、その認識に至ったのだろう、と思います。

    作者からの返信

    いつもありがとうございます。尻鳥さんのコメントを励みに投稿を続けられております。
    養老天命反転地……、何やら怪しげな場所と思いましたが、岐阜県にあるミュージアムなのですね!
    こんな場所があるとは日本も広い。

    思考でぐるぐるは頻繁にありますが、経験や体験の重要性は強く思います。とりあえずやってみて、それから考えるということもある気がします。

    尻鳥さんの体験も、結論を得るという意味では無駄だったかもしれませんが、魔法のように何かが勝手に解決することはないということを実感できたという点では、とても貴重だったのだと思います。

    それにしても養老天命反転地……強烈なネーミングで印象付けられました。近くに行くことがあれば是非立ち寄ってみたいですね。

  • 絶望することは犯罪なのかへの応援コメント

    >「生きる意味って何だろう?」と発する人が、誰しも他者を害そうとしているなど、ありはしないのだ。
    「(お前の)生きる意味って何だろう?」と、受け取ってしまうのがパンピーの悲しいサガ。これは怖い。だから糾弾してしまうのかな。

    そして。
    「実存」という言葉は、そもそも「みずから存在する理由・意味を決定する存在」という意味であるので、みずから選ぶのなら、「何もしないことを良し」も、「絶望」も、「自殺」すらも、死ぬまでには「実存」には間違いない。だからこそ、貴方は書くことにこだわるのだと思う。書く、ことは本質的に「この選択は果たしてみずから選んだものだろうか」という問いかけを含むからだ。
    貴方の「生きる意味」とは、「実存的に疑う」ことなのではないか、と思う。

  • これは並列的かつ相対的思考のできたうえで、自身の考えを誠実に疑う習慣のある人にしか勧められないのだけど、「パーセント結論」(私の造語)を導入してみてはいかがでしょうか。人の思考は常に相反する考えの集合であることを認め、それがどのくらいの割合なのか、を自覚するために行う方法のひとつです。
    たとえば100パーセントのインプット型の人間はほとんどいませんが、80パーセントぐらいの人は貴方に限らず多く存在するでしょう。アウトプット型としてふるまう精神リソースや、他人の評価に対する評価の精神リソースの、必要量と必然性が明確になるはずです。他人に頑固だと言われたら、言われるだけの根拠は3パーセントぐらいはあるけど、それは自分にとってコーヒーをブラックで飲む程度のことであり、無視してよいレベルであろう、などと考えることが、より容易くなると思います。
    そして、「書くことから逃れられない」のは、貴方の中では何パーセントなのでしょうか?

    作者からの返信

    尻鳥さんこんにちは。コメント、興味深く拝読しました。
    パーセント結論、面白いですね。
    科学や社会、仕事もそうでしょうが、一般的には「明確なもの」が求められるのだと思っています。上司への報告も、まずは結論から……などというのはよく聞きます。
    一方で、尻鳥さんの仰る通り、人の感情、心は、二律背反(アンビバレンス)な部分がきっとあると思います。それは私自身も例外ではなく。

    そうした記憶というか感覚は持っていましたが、どうにも、この「書く」という行為や、思考をする際には、何か結論めいたものを見いださなければならないという、強迫観念や焦燥感的なのが付きまとっていました。
    今回の投稿内容を整理しているときもそうでした。

    そうしたときに、パーセント結論の考え方について、思いだし、実践してみようと思いました。ありがとうございます。

    早速実践として、書くということが逃れられないというのは、どの程度のパーセントなのか考えてみました。
    ……90%ぐらいに思いました。

  • 部屋を綺麗にしておくのは大切ですよね^^昔、「部屋が乱れていると心も乱れる」と言った友人がいて、はっ!その通りだ・・・と納得しました^^掃除するだけで運気が上がると信じているそうじ信者なので、人生において片付けや掃除は非常に重要だと信じています。ある程度元気じゃないとできないことですが・・・^^

    作者からの返信

    神原さんこんにちは! 投稿早々コメントありがとうございました。掃除、大事ですよね! 人間の心……理性は強いものなのだと思っていましたが、意外にあっさり「気分」によって流されてしまうこともあるのだなぁと思っています。
    そして、コメント頂きました、
    >ある程度元気じゃないとできない
    というのが、本当にその通りと思います!
    「掃除しなきゃ!」→「でも具合がよくない」→「部屋が汚い」→「もっと元気がなくなる……」
    この悪循環スパイラルにできるだけ嵌らないようにしたいものです。

  • 逆に、「ライフワークが存在しない」状態というのは、どういう状態であると思えるのか、といったアプローチも期待したい。

  • 50代にもなって恥ずかしいとは思うけれども、自己についてさらに考えなければならない、のですよ。

    作者からの返信

    応援コメントありがとうございます!この投稿から約一年があっという間に過ぎようとしていますが、まだまだ悩み途上におります。今年中にいくつか、また更新したいと考えていますので、どうぞ今後とも気長にお付き合い頂ければ幸せです。