『初恋』ほか短編集(予定)

@kkkaeinaen

初恋 1

 彼女とはじめて出会ったのは、うだるような暑さの八月だった。谷底に吹くような涼しい風が二人を通り抜けて、黒い髪がなびく。まさか、と思った時、すでに彼女の口が開かれて、

 「―――」


                  *


 その日はいつものように終電に乗り、一時間を揺られて降りた。駅は閑散としていて、寝静まった町の街道を一人歩いて帰った。なんの変哲もない、いつもの帰宅風景だ。けれど、そのなんでもないことが、心の片隅に、何かに祈りすがるような気持ちにさせた。


 当時の僕は、会社に入りたての新米社員だった。毎日を大量の仕事に費やし、寝て起きては仕事に向かう。毎日同じ仕事をするために、自宅と家を往復する。―――生きるってこういうことだったかな。岸のほとりによせる波は行きつ戻りつ。自分はそれに揺られるようで、僕は一体どこにるのか。ばかばかしいけれど、そういう考えが、杭に引っかかるように脳裏に残り続けた。


 気付けば橋のたもとまで来ていた。腕に汗が少し浮き出ている。家に帰りたくなかった。自然と足は河川敷へとむかう。夜の河川敷には誰もいなかった。

 川の縁に立つと、川は上で見るよりもいっそう大きく見えた。小波さざなみもなく、均一に深く黒い川面が目前に迫っていた。

 もう帰ろうと思って堤防を登ろうとしたとき、橋の影に立っている人影をみた。若い女性だ。こんな遅い時間に、と首を傾げる。ひと声かけた方がいい・・・。

 堤防沿いに橋のたもとへ歩いていくと、女性の輪郭がしだいに明るくなった。それは、まだあどけない少女だった。あっと思わず声がもれて、少女は素早く身をかえした。そして、あらわになった表情に言葉を失い、僕はその場に凍りついた。谷底に吹くような涼しい風が二人を通り抜けて、黒い髪がなびく。まさか、と思った時、すでに彼女の口が開かれて、

 「あなたは、見えるのね。」

 白月が雲間を差して、淡く光る川面に照らされた。僕は気を失いそうになる。彼女は僕の初恋の人に似ていた。

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