第3話
――なんであんな話しちゃったんだろう。
その日の昼間。教室の自分の席で、もう何度目かわからない後悔に矢代悟は小さな胸を重くした。
あの土砂降りの日。怖い話をしようと言い出したのは一斗だった。そこまではいい。この地域では不思議な話や怖い話には事欠かないし、怪談話はクラスの中でも時々行われる遊びだったから。
では何がいけなかったか。思い返せばいくつも思い浮かぶ。まず、聞いたことのある怪談話じゃなく、誰も知らない新しい話をしたいと欲を出したこと。蔵で見た鏡を思い出して、作り話をしたこと。一斗がそれに食いついて鏡を見たいと言い出したこと。その時に嘘だとばらしてしまえばよかったのに、「本当かよ」と馬鹿にしてくる悠聖についむきになってしまったこと。どれか一つでも違っていたらこんなことにはならなかったのに。
ああ、だけど二人が「なんだよ、何も起こらないじゃん」で終わらせてくれてればまだよかったんだ。なのにこんなことになっちゃったのは……。
「おはよー、嘘つき」
目の前に、悠聖がにやにやしながら立っていた。
――悠聖。こいつがお化け鏡のことを言いふらしたせいで、僕はクラスのみんなから嘘つき扱いされることになったんだ。
無言で睨みつけると、悠聖はもっと馬鹿にしたような顔をした。
「なんだよ。鏡からお化けが出るんだろ。出してみろよ、悟」
悠聖は頭がいい。テストだっていつも一番に終わるし、ほとんど百点満点だ。難しい言葉を知っていたり、誰も思いつかないようなことを言ってみんなを驚かせたりする。
その一方でひねくれていてやりすぎるところがあって、体操着を忘れたとか、牛乳を倒したとかいう小さな失敗をいつまでもからかっては、相手を泣かせたりすることがよくあった。誰かがそうやってしつこくいじられるのを見て、「そこまでしなくても」と思ったことが悟も何度かある。
でも、自分がそれをされるとは思ってなかった。一斗と悠聖とは三人で仲が良くて、幼稚園の時からずっと一緒だった。だから、悠聖が自分をこんなふうに見下した目で見てくる日が来るなんて、思ってなかったんだ。
「黒いのってどんなの? 触手みたいなやつ?」
「鏡が勝手に動くんだろー」
「おい悟ぅ」
悪乗りしたクラスメイトがいつのまにか集まってきてはやし立てた。他のクラスメイトも遠巻きにこっちを見ているのがわかる。こんな状況が、三人で鏡を見に行った翌日からずっと続いていた。佇雨はああ言ったけれど、悠聖が毎日のように弄ってくるせいで風化する兆しはなかった。
――大将の嘘つき。みんな全然忘れないじゃないか。
悟は俯いて、膝の上で手をぎゅっと握る。
なんでお化け鏡の話なんかしちゃったんだ。なんで、こんなことになっちゃったんだ。
目の前に立った悠聖がこっちを見下ろして、勝ち誇ったように言う。
「嘘だったんだろ? 見栄張って作り話したんだろ? 嘘つきましたごめんなさいって言えばいいんだよ、悟」
「いい加減にしろよ、悠聖」
落ちついた声がする。
一斗だった。
悠聖が行き過ぎた時、いつもこうやって一斗が止めに入った。クラスのリーダーの一斗には一目置いている悠聖は、彼の言葉を比較的素直に聞く。今も不満そうに口を尖らせた。
「だって一斗も見たろ、こいつんちの鏡、なんにもなかったじゃん。嘘ついてたんだって」
「うん、なんもなかったよ。だからそれでいいじゃん。俺もう飽きたよ、お化け鏡の話は」
「はあ? 飽きたとかじゃねえって、こいつ嘘ついたんだぞ。謝んなくていいのかよ」
そうだよ、嘘つき! 嘘つきはドロボーの始まり! と他のクラスメイトも声を上げ始める。その声は悪意に満ちている。声はどんどん大きくなって、悟の頭の中でぐわんぐわん反響する。頭を掴んで揺さぶられているようだ。
一斗がやめろよ、と声を上げるけれど、もう誰の耳にも届かなかった。悟の元にさえ。
――うるさい。
みんな見てもいないくせに勝手なこと言うな。
――うるさいうるさい。
あの鏡が本物だったらいいんだろ。そうすればもう誰も馬鹿にしてこない。みんなを見返せる。
――うるさいうるさいうるさい!
あの鏡から、本当にお化けが出てくれば。嘘をつき通して、本当にしてしまえば――。
「……嘘じゃない」
「は?」
「嘘じゃない!!」
悟は思い切り立ち上がった。その勢いで椅子が派手な音を立てて倒れ、教室がしんと静まり返る。悠聖も一斗も、机を囲んでいた男子も、こっそり様子を窺っていた女子達も、みんなが悟の方を見ている。
どくどくと、今までに感じたことのないほど心臓が強く打っているのを感じながら、悟は大きく息を吸い込んだ。
「お化け鏡は嘘じゃないっ! 今夜見に来いよ! 今度こそ本物を見せてやる!」
* * *
「夜だからって、本当に出るのかよ」
「出るよ。暗い時の方が出やすいんだ」
時刻は22時を過ぎたあたり。とっぷりと日が暮れた闇のなか、矢代家の蔵の前で、3人の少年たちがこそこそと言葉を交わす。
みんな、親には内緒で家を抜け出してきている。勝手に蔵に入ってはいけないと言われている悟も、今夜のことは両親には秘密にしている。その手に握りしめられた鉄の鍵は、秘かに持ち出してきたものだ。
悟は震えそうになる手でそれを南京錠に差し込んだ。ガチャリ、と重く冷たい音とともに錠が開く。錆びかけた黒い扉を、音を立てないように2人がかりで押し開けた。
当然ながら、中は真っ暗だった。3人は思わずしんと黙り込む。
「お、お前が言いだしたんだろ。先に行けよ」
悠聖がその肩を押す。たたらを踏みながら、悟が用意していた懐中電灯をつけると、丸い光がぼんやりと蔵の中を照らす。雑然と物が置かれた蔵の中央に、色あせた紫色の布を掛けられた、大きな鏡が鎮座していた。
前回も全員で確認したが、その時はまだ浅い夕方で外も明るく、充分な光源があった。それが今、鏡は暗がりの中では余計に大きく、得体の知れないものに見えた。物ではなく、命を持った生き物のような――耳を澄ませば息遣いが聞こえるような、不気味な存在感。誰ともなく、唾を飲み込む音が響く。
一斗が意を決したように鏡に近づき、覆いに手をかけた。
「……いいか、いくぞ」
息をするのさえ憚られるような、長い長い一瞬。重たい布が、ずるりと引き落とされる。
底なしの水面のような、黒々とした鏡面。
そこに映る瞳と、確かに目が合って。
「ひっ……!?」
悲鳴を上げかけるけれど、すぐに気がついた。それは鏡を見ている自分自身の目だ。
「な……なんだよ。なんもねーじゃん」
「ただの鏡……だよな」
少年たちはほっとしたように、口々に言いながら鏡に近づく。余裕を取り戻した悠聖が、鏡に手をついてにやにや笑いながら悟を振り返った。
「ほら、お化けなんてやっぱ嘘だったんだろ? 認めろって、悟」
唇を噛みしめて黙り込んでいた悟が、顔を上げたとき。
彼らの背後にもう一対の瞳が光るのを、鏡の中に確かに見た。
「え?」
ごと、と懐中電灯が手から落ちる。
悟の様子に、二人も鏡を振り返る。
床に落ちた懐中電灯の光にまるく照らされて、鏡の中で三人の顔が揺らめき、彼らの意思とは無関係に、歪んだ笑みを浮かべた。そして、鏡の中の悠聖が手を伸ばし……鏡を越えて、硬直している「こちら側」の悠聖の腕を掴んだ。
「うわああっ!」
「悠聖!」
そのまま引きずり込もうとするのを、傍にいた一斗がとっさに反対の腕を掴んで思い切り引き寄せる。勢い余って一斗はよろめき、悠聖はそのまま尻もちをついた。だが、三人の目は鏡に釘付けだった。
誰も動けず、何の声を発することもできなかった。
巨大な鏡の中では、彼らの動きをそのまま映し出すはずの少年達の影が、薄気味悪い笑いを浮かべながらこちらに手を伸ばしてくる。鏡面を越えたその腕は青白く、三人を探すようにゆらゆらと蠢く。それを見て、全員が同じことを考えた。
あれに捕まって、鏡の中に引きずり込まれたら。
「っ逃げろ!」
一斗の声に、一斉に出口めがけて走り出す。
扉に一番近かった悟が隙間から外に出ようとしたとき、どさ、と何かが引き倒される音がした。
「待って!!」
蔵の中ほどで、床に倒れ込んだ悠聖が泣きそうな顔で二人を見上げている。
腕ではない、何か黒い蔓のようなものが、その足首にしっかりと絡みついていた。それ自体が生きているかのように蠢きながらずり、ずり、と悠聖の体を鏡の方へ近づけていく。
一斗が飛びついて、悠聖の腕を掴む。細い足を踏ん張らせながら、背後の悟に向かって叫んだ。
「大将だ! 大将を呼ぶんだ! 悟、走れ!」
硬直していた悟は、その言葉に弾かれたように蔵の外に飛び出して、夜の帳の中を一目散に走りだした。
白珠洲神社に向かって。
* * *
続く。
あや怪し 満島 @erio0129
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