大航海時代➂~裏切りと憎しみの海~(世界史・スペイン)

 では、大航海時代のスペインの動きを見てみましょう。


・クリストファー・コロンブス(1451頃 ~ 1506)(イタリア人)

 当然この方は有名ですね。

 一般的には「アメリカを発見した人」みたいな扱いになっていますが、実際にはちょっと違います。

 アメリカ大陸自体には既に人も済んでいましたし、古代の時期にバイキングなどが到達した可能性もあります。

 正しくは「キリスト教世界の白人で最初にアメリカ海域に到達した人物」と言った所でしょうか。


 さて、そんなコロンブスですが地球球体説を主張していたトスカネリと親交があり、手紙の交換をしております。

 トスカネリはマルコ・ポーロの考えを取り入れており、大西洋を挟んで欧州とアジアの距離は、かつてプトレマイオスが試算した距離よりもずっと短いと考えていました。

 コロンブスも『東方見聞録』によって黄金の国ジパングに興味を持っていたので西廻りによるアジア到達の可能性に現実味を持っていたと考えられます。


 当時の地球はアジア、アフリカ、ヨーロッパで構成されていると考えられていたため地球の大きさは実際よりもかなり小さめに見積もっていた点も、西廻り航路に確信を持った理由とも言えるでしょう。


 さて、いよいよ西廻り航路の実現性を根拠にスポンサーを募ることになります。

 まずは当時航海で実績を上げていたポルトガルへお願いに行きます。

 とは言え、資金援助に加え、成功報酬もかなりの額を要求したため、難色を示します。

 さらに言えば、この当時ポルトガルは喜望峰に到達目前であったこともあり、結局コロンブスの支援は断られます。


 そこで次はスペイン王室へ援助を求めます。

 こちらはレコンキスタ真っ最中でしたが女王のイサベルが興味を示しました。

 問題は資金面でしたが、1492年の1月に遂にイスラム勢力最後の拠点グラナダが陥落し、レコンキスタが完了。

 経済的余裕ができたことを理由にコロンブスの援助が決定しました。

 ちなみにこの決定がされた時、コロンブスはスペインを去っていたため、王の使者が全力で追いかけてようやく追いついたなんて話も残っています。

 これで見つからなかったらどうなっていたのでしょうね(汗)


 1492年、西へ向かったコロンブス一行はサン・サルバドル島に到着します。

 現地の人は来訪したコロンブス達に食料などを贈り、もてなします。

 しかし、コロンブスの興味は黄金のみであり、この人々に対しても「良い奴隷になるだろう」と書き残しています。

 宗教も存在していないため、キリスト教も容易く布教できるだろうと考えていたようです。


 翌年帰国したコロンブス達は大歓迎を受け、予め交わした条約(サン・タフェ条約)により強奪した金銀宝石や真珠などの10分の1などの報酬を得ます。

 そして、次の航海の支援も難なく得ることに成功します。


 その後の航海においては度重なる虐殺や強奪により、原住民や入植民の反乱が多発。

 コロンブスに同行した宣教師ラス・カサス(1484~1566)にの残した日記などにはその苛烈さが記されています。

(あまり細かく書くとセルフレイティングの必要が出てくるレベルなのでここでは割愛します)


 最終的に反乱が原因でスペイン本国に拘束され、コロンブスは総ての権限を剥奪されてしまいます。

 最後まで発見した地域をアジアだと誤解していたと言います。

 そのため、発見した原住民の事は『インディアン』と命名し、現在でもこの地域は「西インド諸島」と呼ばれていますね。



・アメリゴ・ヴェスプッチ(イタリア人)(1454~1512)

 さて、当時のアジアは「インディアス」と呼ばれていたため、コロンブスが勘違いした地域は「インディアス」と、人々は「インディアン」と呼ばれることになりました。

 では、何故「アメリカ」と呼ばれるようになったのか。それがこの方によるものです。

 ちなみにこの方は航海士や冒険家ではなく、地理学者です。


 ポルトガルの章でもお話ししたカブラルによってブラジルが発見されました。

 この土地をポルトガルはトルデシリャス条約で領有を主張。王としては、この地が大陸なのか島なのかはっきりさせたかったと言う気持ちがあります。

 (結果的にブラジルはポルトガル領、それ以外の部分はスペイン領になります)

 アメリゴはブラジル北岸までの航海歴があったので、探検隊に指名されることになります。


 この南米航海で南緯50度(南米南端付近)まで到達します。

 そこは、当時ヨーロッパ人が知っていた世界の南端(アジアのマレー半島(北緯1度)とアフリカ南端(南緯34度))とも違うため、ヨーロッパ人がこれまで知らなかった新たな大陸であることが証明されたのです。


 帰国後、この事実をアメリゴは著書『新世界』で紹介します。

 古代からの世界観においては、世界はアジア、アフリカ、ヨーロッパの三つのみと考えられていたため、かなりの衝撃があったようです。

 とはいえ、「インディアス」と言う呼称はかなり定着していたようで、根強く残ったようです。


 その後、1507年にドイツの地理学者マルティン・ヴァルトゼーミューラーが『世界誌入門』を出版した際に、付録の世界地図にアメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名「アメリクス・ウェスプキウス」の女性形から「アメリカ」と新大陸を命名します。

 これが、最初に「アメリカ」を用いた例となっています。




・フェルディナンド・マゼラン(英語圏)(ポルトガル人)(1480~1521)

 フェルナン・デ・マガリャンイス(ポルトガル圏)


 さあ、世界周航の旅へと出かけましょう。 

 ……と言っても、実はこのマゼラン。

 1519年までの経歴が詳しくわかっていません。

 

 下級貴族の出身で、1492年に王妃の小姓としてポルトガル王宮に入っていることは判明しています。

 その後、コロンブスが西インド諸島に到達、ヴァスコ・ダ・ガマがインド東廻り航路を開拓。新世界への関心はこの頃に培われたのではないでしょうか。


 ヴァスコの航路開拓により、ポルトガルではインド洋への進出が積極的に行われていました。この遠征にマゼランは参加します。

 その中で、胡椒以外の香料の産地がインドではなく、モルッカ諸島(香料諸島)と言う事が判明、中継拠点のマラッカを抑える必要があったのですが、この時の戦いで敗戦。

 しかし指揮官の一人に認められたマゼランは、下級貴族出身にしては珍しく見習士官から船長への大出世を成し遂げています。実力でのし上がったと言う事ですね。


 この頃のスペインはポルトガルが東廻りで成果を上げているのに対し、西廻りでの航路開拓に燃えていました。

 とは言え、まだ新大陸がアメリカではなく、アジアの東端の大半島だと勘違いしていたので、何度航海しても香料諸島に到達できないと言う状態でした。


 西廻り航路を開拓したいのですが、そのためには当時もっとも航海術が優れていたポルトガルの人材が必要でした。

 そこで1515年に王との関係が悪化してポルトガル王宮を去り、失意の中にあったマゼランが古い友人の伝手で白羽の矢を立てられたのです。


 インド洋まで行ったことがあり、航海技術もあり、東洋への航海を希望していた彼はうってつけだったと言えます。


 艦隊の司令官に任命されたマゼランですが、出港準備段階から不穏な空気が漂います。

 マゼランはポルトガル人。スペインからすればライバル国の人間です。

 推薦した人物も、推薦の見返りとして自分の意のままになる人材を幹部に加え、マゼランの航海技術のみを利用しようと画策します。

 マゼランも王に掛け合い、幹部にポルトガル人を入れることにはなりますが、互いの確執はかなり強かったようです。


 世界周航に成功した一員のアントニオ・ピガフェッタの記録でも「マゼラン指揮下の船長たちは何故か最初から彼を憎んでいた」とされています。

 また、ポルトガルからも自国の人間が自国の利権を脅かすとして、説得・脅し・暗殺計画まで行っていたと言います。出向に際しても妨害工作が行われたようです。


 出港したマゼラン一行ですが、その旅路も波乱に満ちていました。

 パタゴニア(南米南端部)では船員たちが反乱を起こします。しかも5隻中3隻が参加すると言う事態です。

 ですが、スペイン王の信認の元に総司令を務めているマゼランに対する反抗と言う事で、躊躇している時にマゼランが攻勢に出ます。

 船長らを殺害し、反乱に加担した船員たちは捕らえられて、マゼランは主導権を取り戻します。

 何とか反乱を鎮圧したマゼランですが、スペイン人のマゼランに対する反感は根強く残ることになり、後述する事件に発展します。

 ちなみにこの反乱で捕らえられたメンバーの中に、後に許されて最後には艦隊の提督を引き継いだフアン・セバスティアン・エルカーノがいます。

 1520年、8月に航海を再開。ですが、5隻のうち1隻がここで難破して失われます。


 12月、マゼラン海峡を発見します。これを抜ける途中で1隻が離脱。

 どうも2年分積み込むはずの食料が二重領収などのせいで残り3か月分しかなかったことがトラブルの引き金になったようです。

 偶然はぐれ、船長は艦隊を探すつもりでしたが、航海長は反対。船長を拘束して帰国してしまいます。

 未知の領域への準備不足からマゼランに進言したが断られたことも乗組員たちのマゼランへの反発を生んでいた模様です。

(ちなみにこの航海長。マゼランの前に艦隊司令官になる予定だったのですが、政治的理由から計画が頓挫したと言う過去があります。指揮権を奪われた恨みがあったのかもしれません)


 太平洋に出たマゼラン一行は3か月もの間、島に辿り着けず、この時に多くの乗組員が栄養失調などで死んでいます。

 1521年3月。グアム島に到着。ここでは島民に略奪の被害に遭っています。

 同月、フィリピンへ到達。

 自分がポルトガル艦隊に所属していた時に得た奴隷のエンリケが現地人とマレー語で会話できることがわかり、マレー人と交流のある地域まで到達したことを知ります。


 セブ島に滞在することになった一行ですが、ここでマゼランは島民の多くにキリスト教を布教し、改宗させます。

 とは言え、司祭によるものではなくマゼランの手によるものなのでどの程度現地の首長たちがキリスト教を理解していたか疑問が残る所です。


 王たちと仲良くなったマゼランですが、何故か香料諸島へ向かわずに現地での布教活動を続けます。

 その中で、徐々に強硬な姿勢になって行ったマゼランたちは武力を用いて改宗と服従を要求ようになり、島民たちからも反感を買うようになっていきます。


 その結果、マクタン島の王の一人ズラが「ラプ=ラプ王が服従を拒否するので救援に来てほしい」とマゼランたちをおびき寄せ、小艇で上陸した60人の兵を1500人で取り囲みます。

 船の警備に11人が残っていたので実際には49vs1500です。


 戦力差30倍の相手に対して何故かマゼランは戦闘に突入します。

 どうもピサロが寡兵で何十倍もの兵力のアステカを征服した話が前提にあったようです。

 しかし、鎧で竹槍が通らないことを知るなり、ラプ=ラプ王の兵たちはマゼランの脚に攻撃を集中。遂にマゼランが討ち取られます。


 この時、スペイン人の乗組員たちの多くはマゼランを見殺しにしています。

 前述の反乱の時の反感が根強く残っていたためと考えられています。


 マゼラン死後、奴隷のエンリケも相手側に寝返り、艦隊の幹部たちは罠にかけられて多くが殺されます。エンリケもその行方は不明となります。

 どうやらエンリケはマゼランの遺言では彼の死後に一定の財産を与えられて解放される予定だったにもかかわらず、艦隊の後継司令官がそれを反故にしたことを恨んだようです。

(実際、エンリケは彼のために忠実に働いていました。マゼランが討ち取られた時も共に戦い、負傷しています)


 ちなみに、もしこのエンリケがその後、西へ向かって故郷へ帰っていれば実はマゼラン艦隊より先に世界周航を達成した人物になるのですが、記録がない以上何とも言えません。


 大幅に人員の減った艦隊は残る3隻の船の内、1隻を破棄。香料諸島へ向かいます。

 香料諸島では多くの香辛料を得ますが、積み込みすぎて一隻が浸水(汗)


 結局、残るビクトリア号一隻で残る60人がスペインへ向かいます。

 しかし、ここから先はポルトガルの勢力圏内。

 寄港できないビクトリア号の中では栄養失調と壊血病が蔓延し、次々と残るメンバーも死んで行きます。

 結局、スペインへたどり着くことができたのは18名。

 出港時に265名いた乗組員がたった18人だけになっていました。


 ちなみにこの時、面白いことが起きています。

 航海の記録を残したピガフェッタは、毎日欠かさず日記をつけていたのですが、アフリカのヴェルデ岬で日付を確認したところ水曜日のはずが木曜日だと判明したのです。

 地球の自転と逆方向である西廻りで一周したため、日付が一日ずれたのです。


【その後】

 マゼラン艦隊が西廻りで世界周航を達成したことにより、地球球体説は実証されます。

 しかし、その後もスペインは西廻りでの香料諸島への到達を目論みますが失敗。

 第二回の航海ではマゼラン艦隊最後の船長のエルカーノも同行しましたが、太平洋上で壊血病と栄養失調により死亡。


 ピガフェッタは過去に航海前に聖ヨハネ騎士団(ロードス騎士団)の船に乗っていた縁故から騎士団に所属。故郷で1534年に亡くなっています。


 それ以降も被害が大きく。結局ポルトガルに航路が売却されますが、すでにインド航路を独占しているポルトガルも興味を示さず、西廻りルートは閉ざされることになります。


【最後に】

 新大陸アメリカの発見により、様々な食物がヨーロッパに伝来します。

 その中にはトマトの様に、イタリア料理では当たり前に使われているようなものもあります。

 ここに、その例を羅列しておきましょう。


 トマト

 唐辛子

 ピーマン

 ジャガイモ

 パイナップル

 アボカド

 カカオ

 イチゴ

 ピーナッツ

 インゲン豆

 カボチャ

 トウモロコシ

 ズッキーニ

 サツマイモ


 あと、タバコもアメリカから伝来していますね。

 大航海時代によって多くの食文化も大きく変わっていったのです。


 それでは、この辺で。

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歴史小話 結葉 天樹 @fujimiyaitsuki

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