12

 そこは閑散とする街の中に造られた病院で、かつては隔離施設として使われていた。院内は数十年廃墟として放置されているにも関わらず、綺麗なままだ。でも窓に填められた格子を見れば、本当に人のために設置されたものとは思えず、獣を飼う檻を思わせる。

 格子とは不釣り合いのあざやかな草花が風に揺れ、この空間から早く抜け出したいと心が急かされる。この独特の空間は、生きる者を別の場所へと誘っているように感じた。


「ここもハズレのようですね」

「もう早く帰りましょうよ。何だか気味が悪いわ」

「確かにそうだな。廃墟なのに綺麗すぎる」


ミシェイラは周囲を見渡しながら腕をさすった。寒いわけでもないのに肌寒く感じてしまうのは気にしすぎなのもあるかもしれないが、そのことを否定するものはいない。


「帰ろうか」


カオルが同意したことで、ミシェイラは急かすようにカオルの背を押した。


「僕の合図で降りきて。最後は府芭が確認してくるように」

「御意」


カオルが降りるのを確認しながらも、四人は周囲にも目を配った。勿論腐蝕蟲が突然襲ってきたときに備えてはいるが、今はそれ以外の存在に気を引かれていた。特にミシェイラと府芭はいつもの倍は別の意味で気が張っていた。


「隊長、行ってもいい?」


ミシェイラが下に向かって叫ぶのと同時に、カオルの声が飛んできた。


「降りて来るな!」


カオルの尋常でない声に、四人の間に緊張が走った。間違いなく敵が現れたのだろうが、戦闘の音などは一切聞こえてこない。

 ハウスと啉は瞬時に周囲に目を配るが、どこにも腐蝕蟲の気配はない。気配を消して潜んでいる様子もない。だが、カオルの声は確かに腐蝕蟲の存在を明確にしている。何かがいつもと違う。それは四人を必要以上に不安にさせた。


「隊長、何があったのですか!」


府芭が大声で叫ぶが、カオルからの返事ではなく獣の鳴き声が代わりに聞こえてきた。

 一方、地下のカオルは降りた瞬間に敵の気配を感じ、瞬時に下りてこないように叫んだ。暗闇に目が慣れると、カオル達が帰るはずの方向に、五匹の狼がいた。しかし、カオルはすぐに己の判断を否定した。

 なぜなら、そこには獣に混ざってわずかに己の存在を匂わせる腐蝕蟲の気配があったからだ。


「ここはお前達の基地ではないはずだが、一人で何をしにきた?」


相手が襲ってくる気配は一向にない。だからと言って、こちらの出方を覗っているようでもない。

 カオルは意思疎通の出来る腐蝕蟲だと判断し、できる限り情報を引き出そうと考えた。


「一目会いに来ただけだよ。カオル」


突然自分の名前を呼ばれたことに驚き、カオルは息を飲んだ。


「どうして、僕の名を知っている?」


カオルは見えない相手に向かって話しかけた。

 狼の後ろにいるのは分かっているが、姿が全く見えない。闇に目が慣れてもなお、敵の存在を認知することができない。ただ者ではない。脳が逃げろと訴えかけてくる。だけど心は逃がすなと訴えかけてくる。カオルは初めて全身で得体のしれない恐怖というものを感じていた。


「俺はずっとこの時を待っていたんだ。八年は長かったよ」


相手の言葉にカオルは目を瞠った。


「もしかして・・・ハル、なのか・・・・・・・・?」


何の確信も無かった。だが、八年と言われて、あの日からとしか考えられない。

カオルは自分の身体が震えているのがわかった。カオルがこんなにも動揺したのは初めてだろう。今のカオルの姿を隊員たちが見れば、同一人物なのかと間違いなく疑う。それ程に今のカオルは普通ではなかった。


「ずっと、ずっと、会いたかった。今はまだ無理だけど、必ず迎えに行くから待ってて」


気配が薄くなるのに気づき、カオルは慌てて追いかけた。


「待て!行くな、ハル」


だが、伸ばした手は届きはしなかった。

 気配が去った後も、カオルはずっと動けずにいた。たった今目の前で起こったことが信じられなかった。もしかしたら、弟のことを知っている人物が名乗っているだけかもしれない。そうすれば、カオルを油断させることができるだろうと言う相手の思惑の方が現実的だ。

 だがカオルはそんなことよりも、弟が生きていたと言う事実に頭の中が占領されていた。


「隊長!」


痺れを切らしたのだろう。四人が地上から下りて来た。


「隊長、何が遭ったのですか?」


カオルのもとに駆けつけた府芭が、カオルの様子を見て驚いた。カオルはただ真っ直ぐ前を見たまま、何も反応を返さない。その目は大きく見開かれたままで、身体が僅かに震えている。


「何が遭ったの?答えて、隊長」


ミシェイラも尋常でないカオルの様子に、激しく肩を揺さぶった。四人はカオルらしくない姿に、間違いなく何かが遭ったと分かった。

 漸く我に返ったカオルは、ミシェイラの手を掴んだ。


「戻ろう」


カオルは何も言わなかった。四人は納得出来なかったが、こんな所で追求しても仕方ないと思い、従った。

 近江支部に戻ってきて、カオルは何も言わずに、支部長室に向かってしまった。

 四人は食堂でカオルが来るのを待っていたが、待てども時間が流れていくだけで、結局カオルは来なかった。 

 部屋に戻ったカオルはベッドに倒れこんだ。


「ハル」


あれが本当に自分の半身である弟なのか確信はない。あの頃から時間が経ちすっぎている。自分が変わったように、カオルの知る弟とは声も話し方も違った。

 ―――目を閉じると、深い闇がカオルを覆い隠してしまった。

 翌日、烏鷺隊の任務は休みだった。


「今日の休みって昨日のあれが原因よね」


ミシェイラは届いた連絡を見ながらため息をついた。


「そうでしょう。本当でしたら、今日は次の潜伏候補地に行く予定でしたので」


ミシェイラ、府芭、啉はハウスの部屋に集まっていた。

 朝早くに石田支部長から直々に四人へ「本日の任務中止」との連絡が入った。ミシェイラは直ぐにカオルの部屋に向かったが、そこにカオルの姿はなかった。

 手持ち無沙汰になった四人は、昨日の事を話し合うためにこうしてハウスの部屋に集まっていた。


「あの時、地下に蟲がいたのは間違いないだろう。それと、あの鳴き声は間違いなく動物だ」

「オオカミ」


府芭の曖昧な表現に、啉が瞬時に訂正した。


「でも獣ごときに隊長があんな風になるとは思えないわ。他にも何かいたと考えるのが自然よ」

「その通りだな。だがそれが全く分からない。隊長が動揺するような相手・・・」


四人は黙り込んでしまった。


「裏切りとか・・・・・・?」


ミシェイラは自分で答えて、有り得ないと首を振った。


「いや、そうではないと言いきれない。創始者もしくは前期メンバーの中の誰かであれば、隊長が動揺する可能性もなくはない」

「ですが、創始者の方々の中で、腐蝕蟲の側についてメリットのある人物はいないと思いますよ」


ハウスの意見に頷きたかったが、創始者の全てを把握しているわけではないことから、簡単には肯定できなかった。


「創始者以外には考えられないの?」


四人はまた黙り込んでしまった。

 黒祇には腐蝕蟲に恨みのある者が多く、腐蝕蟲につくような者がいるとは考えにくかった。


「隊長の家族は?」

「隊長殿の家族については何も聞かされていないですね」


啉の質問にハウスが答えた。


「いや、少しなら知っている。隊長のご家族は、隊長がとても小さい頃に亡くなっていると仰っていた。だから、その可能性はない」


いつものミシェイラなら嫉妬に狩られていたが、今はそれどころではなかった。


「だめね、何も分からないわ。やっぱり直接聞くのがいいんじゃないかしら?」

「だが、隊長が答えてくださるとは思えない」

「じゃあ、どうするのよ?」


ミシェイラが苛立ちを隠せなくなっていた。

 誰もがもどかしい気持ちを抱いてる。自分達の隊長のために何かしたいのに、何も出来ない。話を聞くことすら出来ない。自分達には何もできないのか、と悔しい気持ちで胸が押しつぶされそうになっていた。


「石田支部長なら知ってるかもしれない」


啉の言葉に三人は下を向いていた顔を上げた。


「でも、私達だけで石田支部長に会いに行くことは出来ないわ」

「府芭とミシェイラなら会ってもらえるかもしれない。この中でも古株だから」


二人は顔を見合わせたが、その意見に「はい、そうですか」とは簡単に頷けなかった。


「無理でもやらないと、何も知ることはできない」

「そうね。何もしないなんて、私の性に合わないわ」


ミシェイラがいつもの調子を取り戻しつつあるのを見て、府芭も小さく息を吐くと気合を入れ直した。


「そうだな。隊長が近づいて来ないなら、俺達から歩み寄ればいい。いつも与えて貰ってばかりではだめだ」


府芭とミシェイラは立ち上がると、支部長室に向かった。勢いよく部屋を飛び出したのはいいが、顔が緊張に強張っている。

 二人は支部長室の前に着くと、深呼吸をした。

 府芭は一歩前に出ると、扉をノックした。


「烏鷺隊、府芭至とミシェイラ・アングラートです。石田支部長にお話が合って来ました」


数秒して扉が開いた。扉の傍には女性が一人、窓の前のデスクに直江が立っていた。


「入りたまえ」


二人は石田の許可が出た事で敬礼を止め、中に入った。


「それで、何が聞きたい?」


石田は椅子に座りると、早々に用件を問うた。


「烏鷺隊長のことでお聞きしたい事があります。昨日隊長に何が遭ったのか、石田支部長ならご存知ではないかと思いまして。もしご存知でしたら教えていただけないでしょうか」


石田が真っ直ぐ府芭の目を見た。

 府芭は直江の迫力に負けてしまいそうだったが、緊張に流れる汗を感じながら目を逸らさなかった。

 石田が小さく息を吐いた。


「拙者も詳しい事は聞かされていない。君達は勘違いをしているようだが、本来烏鷺隊長は拙者に報告する義務や、あのような態度をとる必要はない。拙者は烏鷺隊長の部下なのだからな」


石田の言葉に二人は確かにそうだと納得したが、だからと言って何も知らないということはないだろうと思った。


「だが、何も聞かされていないわけではない。今日君達の任務が休みなったは、烏鷺隊長が本部に戻ったからだ。彼は急ぎ総帥に会わねばならないと言った。拙者も烏鷺隊長の切羽詰った態度には驚いた。今まで彼のあのような姿は見たことがなかったからだ。君達も烏鷺隊長の様子から自分達に何か出来る事はないのかと思い、拙者のもとにきたのであろう?」

「はい、その通りです。あの時あの場所には動物の気配しかしませんでした。ですが、自分達が下りた時には何もおらず、今までに見たこと無いほど動揺した隊長がいました。ここからは自分達の憶測なのですが、あの時誰かがいたのではないかと考えられます。そして其の者は・・・黒祇の者ではないかと」


仲間を疑う発言は決して許されることではない。だが、府芭は隠して話したところで、得たい情報が得られるとは思っていなかった。何よりも石田に嘘は通じないと思った。


「黒祇に裏切り者がいると言いたいのか?」


石田の気迫ある声に足が震えそうになった。


「いえ、これは考えにくいと思いました。黒祇には腐蝕蟲への恨みを持つものが多いです。ですが、隊長があれほどの動揺を見せるような相手は、創始者か隊長と関係の深いものとしか考えられないです」

「成る程、君達の意見はよく分かった。確かに裏切りの可能性は否定できない。だが、創始者やそれに近いものばかりとは限らない。助かったかもしれない家族や友人の命を黒祇が見殺しにした、と黒祇を恨む者がいるかもしれな。あの場所には烏鷺隊長しか居なかったから、これもただの憶測でしかないが」


二人は次の言葉が出てこなかった。

 確かにこれまで自分達が救えなかった命は数多くあった。よく考えれば、黒祇に恨みを持つ者も巨万といるのではないかと二人は気づいた。


「石田支部長、可能性としてはどれが一番高いと思いますか?」


この部屋に来て、初めてミシェイラが口を開いた。


「拙者はどれも違うのではないかと思っている。もし君達の意見通りに、創始者の中から裏切り者が出ても、烏鷺隊長はあそこまで動揺しないだろう。私の意見も然りだ。烏鷺隊長をあそこまで動揺させることが出来る人物を知る者は彼自身しか知らないと思える。そして、それを話すことが出来るのは、彼の今の家族である総帥のみという事だ」


 二人は支部長室を出ると、それぞれの部屋に戻った。啉とハウスには夕食後に集合と伝えてある。

 支部長室での時間は、想像以上に疲労し、部屋で休みたかった。それを分かっていた、啉とハウスも急かす事はしなかった。




 カオルは夜も明けきらない時間に本部に向かっていた。


「ハル、お前はどうして僕の前に現れた」


カオルの疑問に答えてくれる者は、今ここにはいない。

 石田に用意してもらった黒祇専用車に乗り込み、運転手と共に本部に急いで戻っていた。運転手のおかげで、行きよりも一時間短縮して本部に戻ってくる事が出来た。カオルは運転手に礼を言い、真っ直ぐ元の部屋へと向かった。

 扉が勝手に開き中に入ると、居たのは総帥ではなくブラムだった。


「総帥はどうした・・・・?」

「総帥は昨日より体調を崩され、休まれています。最近は寝込まれる事が本当に多くなりました」

「危ないのか?」


カオルの声は掠れていた。


「いえ、まだ大丈夫です」

「わかった。起きられたら連絡して貰えないだろうか?」

「畏まりました」


カオルは自分の部屋に戻らずに、訓練室に向かった。

 部屋でじっとしている気にもなれず、一心に訓練を続ける。無心になろうとしても、今日のことが頭を支配し埋め尽くす。


「烏鷺」


カオルは呼ばれた方向に目を向けると、十禅が立っていた。戦闘ロボットを止め、汗を拭いながら十禅のもとに向かった。


「戻ってきてたんですね、十禅殿」

「わしだけが怠けているわけにもいかん。総帥に会いに戻ってきたのか」


十禅はカオルの目を見ると、聞いているにもかかわらず、疑問系でない質問をした。


「そうです。ですがまだお休みのようでしたので、ここで時間を潰していました。十禅殿はどうしてここに?」


今度はカオルが質問した。

 カオルが本部に戻ってきているのを知っているのは、本部ではブラムだけのはずだ。戻ってきた時も誰にも会わなかった。

 十禅の能力でも本人を目の前にしなければ、機能しない。


「なに、近江支部の車を見ただけじゃ。今近江支部に行っているのは烏鷺隊のみ。戻ってくるとすれば、お主ぐらいのものじゃ。それで、尾張ではどうじゃ?」

「その事で総帥にお話しがあったのです。十禅殿の予知通りだったと言うべきでしょうか。僕は今すごく混乱しています。自分に起きた事が信じられないんです」


カオルは膝に両肘を付くと、両手で顔を覆ってしまった。十禅からは、今のカオルがどんな表情をしているのか分からない。だけど、カオルが苦しんでいることなど、顔を見なくても簡単にわかる。


「お主はどうしたいのか、それを一番に考えねばならん。今まで黒祇の為だけに生きてきたお主が、自分のために動く時が来たのかもしれん。今のお主の未来は渦巻いておる。それはお主が迷い、道は一つではないということを意味している。わしにもどの道が正解かわからん。勿論お主自身が選んだ道でも後悔するかもしれん。じゃが、いつまでも迷っていては何も進まん」


カオルはゆっくりと顔を上げると、深く息を吐いた。十禅の目に映るカオルの顔は、迷い、不安、恐れ、それらが明確に表れていた。

 カオルが話そうとしたところに、カオルの黒腕が鳴った。相手はブラムだった。「総帥の目が覚めました」と簡潔な内容が記されていた。


「十禅殿、ありがとうございました」


カオルは立ち上がると、深々と頭を下げた。


「いや、わしは何もしておらん。早く行きなさい」


カオルは顔を上げると、元の部屋に向かった。

 部屋の前にはブラムが立っていた。


「総帥は私室におられますので、ご案内いたします」


カオルが私室に案内されるのは初めてだった。


「カオル様がお見えになりました」


ブラムは中に向かって声を掛けると、扉を開け自分は中には入らず、扉の前で一礼して下がった。

 カオルはブラムに礼を述べ、元の寝ている寝台の傍に膝を着いた。中は簡素な部屋で、大きくないデスクに元は座っていた。


「遅くなってすまなかったね」

「いえ、僕が急に来てしまったのですから、気にしないで下さい。お加減はどうですか?」


元の顔色は決して良くは無かった。覇気も無く、声にも元気が無い。


「昨日力を使いすぎてしまってね。大丈夫、二、三日休めば治る。それよりも、カオルは大事な話しがあって戻ってきたのだろう」

「はい、どうしても直ぐにお話ししたいことがありまして、勝手な行動を取らせて貰いました」


カオルは任務を放棄した事実に頭を下げた。


「気にしなくていい。話しなさい」

「ありがとうございます。総帥に教えていただきたい事があります。僕の家族が殺された日、弟も一緒に殺されたのでしょうか?」


カオルの質問に元は一度目を閉じて、また開いた。


「それは分からない。私が知っているのは君の家族は研究員の手によって殺されたと言うことだけだ。カオルの弟が、あの時殺されたのかは死んだ研究員にしか分からない。カオルの弟に関わる事で何か遭ったのか?」


カオルは一瞬視線を地面に落とした。


「任務中に、僕の弟と名乗るものが現れました。其の者に遭ったのは、僕が地下水路に下りた瞬間でしたので、話したのは僕だけです。姿は見えませんでした」

「そうか、カオルの弟が生きていたか」

「総帥は信じますか?」


カオルには到底信じられる事ではなかった。

 あの日、確かに家族は死んだと聞かされた。あの痛みは、間違いなく半身を失った痛みだった。


「もし其の者が本当にカオルの弟ならば、彼は実験材料として生かされていたのだろう。そして、彼が成功の第一例なのかもしれない。カオルの身体能力が以上に高いことから判断すると、弟は恩恵の適合率が以上に高かったのかもしれない。そう考えれば、カオルの弟が生きていても不思議ではない」

「では、腐蝕蟲達が言っていた『黒白』とは、僕の弟の事だったのでしょうか?」


カオルの顔は苦痛に歪んでいた。

 この世界を壊そうとしているのが、自分の半身かもしれない。この腐った世界を作り出したのが弟かもしれない。そんな可能性を簡単に受け入れることはできなかった。


「カオル、これは全て可能性としての話しだ。事実ではない。だがこの最悪な事実の中にも、一つだけ喜ばしいことがある。それは、カオルの弟が生きているかもしれないと言う事だ。この事が事実であれば、素直に喜べばいい。もし弟がこの世界を創り出した者だとしても、彼を憎むのは間違っている。彼も被害者だからだ。カオルの弟が進んでモルモットになったとは思えない。長い間、彼は一人で苦しんでいたことだろう。救いを求めても、誰も手を差し伸べてくれない。そんな人間が壊れてしまうのは一瞬だ。今の彼を救えるのは、カオルだけだ。覚悟を決めなさい。誰もお前を恨んだりはしない」


元が話し終えるころには、カオルの口からは嗚咽が漏れていた。元は立ち上がると、カオルを抱きしめた。


「カオル、弟が生きていて良かった。お前は全てを失っていたわけではなかった。カオルが弟を連れ戻す事が出来れば、必ず彼を戻す事ができる。今は自分のために闘いなさい」

「はい・・・はい・・・・」


カオルは何度も頷いた。

 近江支部に戻る車中、カオルは懐かしい夢を見ていた。弟が生きているかもしれないと分かったからかもしれない。

 夢の中の小さな自分と弟が交わした大事な約束。今度こそ果たすと決意し、カオルは夢から覚めた。

 カオルが戻ってきたのは、朝日が昇ってからだった。

 食堂に向かうと、烏鷺隊のメンバーが揃っており、カオルに気が付いた四人は一斉に立ち上がった。

 カオルは四人の表情に苦笑いをもらした。


「急に休みにしてしまってすまなかったね」


カオルが微笑むと、ミシェイラはカオルに飛びつき、府芭は目に涙を浮かべ、ハウスは嬉しそうに微笑み、啉も珍しく笑っていた。

 カオルは四人が座っていた席に着くと、頭を下げた。


「心配をかけてすまなかった」

「隊長殿、お顔をお上げ下さい。我々が隊長のことを心配するのは当たり前のことです。隊長殿が苦しんでいれば、我々も苦しい。隊長殿が笑っていれば、我々も嬉しい。ここにいる者は、隊長殿と心を共にするもの達だけです。だからあなたがそのように謝る必要はないのですよ」


カオルは頭を上げると、また微笑んだ。


「ありがとう。僕は本当にいい仲間を持った。果報者だな」

「そうよ!わたしみたいないい女が傍にいるんですから」

「そうだね。ありがとう、ミシェイラ」


カオルはミシェイラの長い髪を掬うと、口付けを落とした。予期せぬカオルの行動にミシェイラがもの凄い勢いで赤くなり、椅子から転げ落ちた。

 それを見ていた三人も驚きに固まっていた。


「何か色々と吹っ切れてしまっていますね」


ミシェイラを見て笑っていたカオルは、ハウスを見た。


「そうかな?以前に、ミシェイラがキスの意味を教えてくれてね。それを実行してみただけだよ」

「キスの意味、ですか?」

「なんか、キスのする場所によって意味が違うそうだよ。確か、髪は思慕だったはずだよ。そうだよね?ミシェイラ」


カオルが転げたままのミシェイラに話しかけたが、返事は無かった。


「そんなに驚かなくてもいいのにな」

「な、何を仰るんですか!」


漸く府芭が戻ってきた。


「何が?」

「隊長が隊員にキ、キスをするなど」

「キスと言っても髪じゃないか。そんなに怒らなくても」


府芭は顔を真っ赤にして抗議した。


「隊長殿、府芭殿は怒っているのではありませんよ」

「そうなのか?」


カオルは府芭を見るが、府芭は顔を真っ赤にしたまま下を向いてしまった。


「怒っているように見えるが・・・・・?」

「これ以上は私の口からは申し上げられません」


ハウスは嬉しそうにニコニコと笑っていた。カオルは首を傾げると、未だに倒れたままのミシェイラを見た。


「ミシェイラ、そろそろ起きなさい」


カオルの命令口調にサッと起き上がった。


「うん、戻ったね」

「不意打ちなんてずるいわ」


ミシェイラは顔を赤らめたまま、ご飯を口に放り込んだ。


「ああ、そうだ。近々正式に発表があるだろうけど、九々龍隊長と槻沢隊長が婚約することになったよ」

「えっ!?」


カオルの言葉に四人の箸が止まり、同じ反応を返した。


「ま、待って!あの二人って付き合ってたの?」

「いや、交際はしていないよ。日本の未来を考えた結婚で、二人も納得して婚約することにしたそうだ」

「それって政略結婚みたいな感じですか?」


府芭の言葉にカオルは少し考える素振りを見せた。


「政略結婚とは少し違うかな。現在日本のトップは総帥だろう。だが日本が平和を取り戻し、もう一度政府を組織したとき誰が日本の総理になるかを考えたら、一番近くで総理であった父親の仕事を見てきた彼女が適任という話になったんだ。そして、これまで日本を支えてきた黒祇との繋がりが強固であることを示すために、結婚の話が持ち上がったというわけだ」

「てことは、その結婚相手は隊長殿も候補に挙がったのではないですか?」


ハウスの質問にカオルは小さく頷いた。


「そうだけど、僕はまだ年齢的に若いからね。他にも理由はあるけど、言えるのはそれぐらいかな」


四人はカオルが話し終えると、深いため息を付いた。


「なんだか、ちゃんと平和に向かって動き出してるのね」

「そうだな。実感なかったけど、隊長や上の人は未来を見据えてるんだな」


ミシェイラと府芭の言葉にカオルは微苦笑した。


「二人も先の事はちゃんと考えとかないと、平和になったとき喪失感で何もできなくなるぞ」

「日本が平和を取り戻した後黒祇が残り続けるのでしたら、残るのも辞めるのも自由ということですか?」

「そうだよ。ハウスも自分の国に帰りたかったら辞めていいし、特になにもないなら残ってもいい。戦いが終われば自由だ」


「自由」その言葉に、四人は想像以上に悩まされた。

 この腐った国が平和のために動き出しているのは素直に嬉しい。だけど今の自分の居場所以上の場所が、平和になった日本にあるとはどうしても思えない。

 ――――それは、「国つ罪」の被害であり、その被害者は大勢いることに違いなかった。


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