始まり

 ――途端。

 ごうっ!!

「うわっ!」

「!」

 突如少年から風が噴き上げ、若者は必死で獣の背にしがみつき、獣は枝に爪をたてた。

 少年が目を開く。その瞳はこれまでにない、光を宿していた。

 そして――、ゆっくりと口を開く。


一色ひとしき


 獣と若者は、初めて少年の声を聞いた。

 鈴を転がすような、清く静謐せいひつな声だった。


 かっ!!

 直後、眩い光が若者を、獣を、周囲を全て飲み込み、広がる。

 その眩しさに、若者は思わず目をつむる。

 どこまでも鮮やかな光が、広く、広く、拡散していき、そして――。


 どれほど経っただろうか、ふと、光が止む。

 かくり、と少年の体から力が抜け、若者はそれを抱きとめた。

 そして、見る。

 周囲を侵食していた風化は全て――、消失していた。削り取られつつあった周囲の木々もその動きを止めている。


 それだけではなかった。

「すっげー……」

 若者は感嘆の声をあげる。

 輪っか状に木々を削り取られ、荒れた地肌がむき出しになっていた地面から、次々と、柔らかく草が萌え、木々が生え始めていた。

 またたく間にそれらは広がり、伸び、成長し、豊かな林を再生し始める。

 それは幻想的な光景であった。

「……」

 若者と、獣は、少年を抱き、その光景に見入る。


 やがて、荒れ果てた場所であったはずの雑木林は、風化に侵食される前――いやそれ以上に、豊饒ほうじょうで、生命力に溢れた原生林へと再生を遂げていた。

 一部どころではない。あれ程の大規模な風化を、ことごとく、全てしてしまったのだ、この少年は。

「……ははっ。賭けは、俺の勝ちみたいだな」

「……返す言葉を持たぬよ。

 まだ分からぬ――と言いたいところだがな。ひとまずは、礼を言わねばなるまい」

「あー。まじ、どうなることかと思った」

 ばふっ、と獣の背に顔を埋める。そのまま、首を傾け、しばし原生林が再生していく様子を眺めた。

 時刻は酉の刻、暖の候の高い日も次第に傾き、日が暮れようとしていた。

 

 そこで――、次の奇跡が起こる。


「あ――? あ……っ!?」

 沈みかけた太陽から、次第に西の空が

 煌々と。

 あかく、あかく。

 灰色の空を塗り替え、鮮やかな色へと。

 が、本来の姿を取り戻そうとしていた。


「――茜色あかねいろ

 陶然と空に見入りながら、獣が呟いた。

いにしえより……蔓草つるくさのアカい根を染料に用いたことから、その名で呼ばれるようになった。日の光を表す色だ」

「母さん……」

 思わずこぼれた若者の声に、獣が背を見やる。

 そして、すぐに目をそらした。

 獣の背にぱたぱたと熱い雫が落ちる。

「アカネ……。母さんの名前だ」

 若者は滂沱ぼうだとして、夕焼けを見つめていた。

(――『――』、母さんの名前はね、色の名前からとったんですって……。空を染める、お日様の色なの――)

 母の記憶。その顔は、その声は、もう遠くはない。自らの記憶として、はっきりと思い出せる。

 自分の名は変わらず聞こえない。だが、今は、それでも良かった。もう一度、記憶の中で母に会えたのだから。


「――なかだちとは、人との縁を色にして紡ぐ者。

 お前の母との思い出、絆がナユタの力となり、茜色を蘇らせた。それが、お前の母親の記憶を、風化から修復する事にも繋がったのだろう」

「色師って……すげー」

 若者は涙をぬぐい、空を見る。

「夕焼けって、綺麗だな。世界には、もっと、数え切れないくらい、たくさんの色があるんだよな……」

 そして、言う。

「俺、もっと色んな色を見たい。色んな絆を知りたい。

 その中には、もしかしたら、俺の名前もあるかもしれないんだ。

 いや、それもだけど、何より――この世界を、風化させたくない。

 そのためなら、どこにだって行くし、誰にだって会うよ。取り戻したい。俺と、あんたらで。最後の一色まで」

「……壮大な話だな。

 ならば、世界中を回らねばな。今ここでない場所、今ここにない縁が必要だ」

「おう――望むところだ。これから、よろしくな――シキ、ナユタ」

 若者は初めて二人に名前で呼びかけ、少年を覗き込む。

 そして、息を呑んだ。最初に出会った時と同じように。

 

 少年は、優しく微笑していた。これまで一度たりとも動かしたことの無かった表情をほころばせ、温かく、幸せそうに。

 夕日に照らされたその顔は、美しかった。

「お前からもらった茜色が、ナユタにも変化をもたらしたのだろう」

「……どういう、ことだ?」

「――さてな」

「何だよっ」

 その後何度問いかけても、獣はそれ以上説明しようとはしなかった。

 二人と一匹を、次第に夜のとばりが包んでいく。


 その日、夜と昼の狭間は色を取り戻した。

 後に数多あまたの色を蘇らせ、人々から「万華ばんか」と称されることになる一対の色師の、これが最初の足跡であった。

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灰色の世界に色彩を 神田未亜 @k-mia

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