契約

 先程まで居た場所、泉から半径十メートル程を残して、そのさらに外輪。林が、太さ数十メートル程度の輪っか状に、ごっそりと削り取られていた。

 さらに、その「輪っか」は、中心部の穴を押しつぶす形で――すなわち、二人と一匹が居る場所を侵食する形で、じわじわと広がっているようだった。


「何だ――あれ。風化? にしか見えねーけど、でも、こんな大規模な風化なんて聞いたことねぇぞ!?」

 若者は思わず叫び、獣は沈思する。

(確かに、規模が異常過ぎる。これ程の風化、通常ならば起こるはずがない。

 風化を促進する、何らかの強制力が働いた? だとすれば、それを引き起こした要因とは、いったい――)

 考えるが、答えは出ない。そんな事を考えている場合でもない。


「……おい、あんた。風化の向こうまで跳んで逃げられるか?」

「無理だ。二人も乗せた状態では。せいぜい半ば程で落下してしまうだろう」

「……聞くまでもないだろうけど、このあたり一帯の風化を消し飛ばすってのは?」

「それも、無理だ。これだけの規模になると、一部を修復するだけでも、全盛期の色師――それもかなりの能力者でなければ不可能だ」

「万事休す、って訳かよ……」


 会話している間にも、確実に風化は二人と一匹へ迫る。

 残り時間は少ない。


「……さっきの話。結論が出たみたいだな」

「……何?」

 若者は獣に顔を寄せ、囁く。

「俺をなかだちにしろ」

「……容易いことではないと言ったはずだぞ」

「言ってる場合かよ。こっちも覚悟は出来てると言ったはずだぞ。このままじゃいずれこの樹も風化に侵食される。そうなったら俺もあんたも、その子も。おしまいだ」

「先に話した問題だけではないのだ!」


「……何?」

 獣は声を荒らげ、答える。

「媒は、色師と媒は、と決まっている。一度媒の契約を結んでしまえば、次の媒を選ぶことは出来ぬ!

 ナユタは、現存する最後の色師だと言ったはずだ。媒は色師の能力を左右する重要な存在だ。そう簡単に決められるものではない! ナユタが契約に失敗してしまえば、もし才のない媒を選ぶようなことになれば、風化に対抗し得る色師がこの世から絶えてしまうのだぞ!!」

「じゃあ俺を殺せばいい!!」

 若者のあげた怒号に、その内容に、獣は口をつぐみ、若者を見つめた。


「殺せばいい。――もし、俺が媒としての才がないと、使えないと判断されるようなことがあれば、その時点で俺を殺せ。

 媒が死んでしまったならば、さすがに次の媒を探すしかないだろう。どのみちこのままじゃ全員死ぬんだ。俺一人の命なら、掛け金としては安いもんだ」


「……本気か」

「ああ」

「私は、容赦はしないぞ」

「いいと言ってる。時間、ないぜ?」

 獣は横目で若者を見据え、若者は獣を覗き込むようにしてその視線に答える。

 今や風化は目前に迫ってきていた。


「……いいだろう。どの道選択肢はないようだ。ナユタの前に、両手首を出せ」

 獣が言うと、若者は、抱えている少年の腰に腕を回し、少年の前に両腕を差し出した。


「お前の言うとおり、時間がないようだ。契約する。覚悟はよいな」

「とっくに」

 微笑して答えた若者を見て、獣は厳かに詠唱を始めた。

「――我、あるじの一の式、灰の色の名を持って、この者を主のなかだちに任命す。主、その筆を持って認証されんことを――」


 その声に応え、少年が顔を上げた。素早く左手に絵筆を取り出す。色づいていない、新雪のような筆だった。

 そして、目前に差し出された若者の両手首に錠をかけるように、横一文字に絵筆を引いた。

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