「灰の、シキ……」


「最初にお前は、人間と獣、どちらが本体なのかと聞いたな。私は、どちらも是でどちらも否と答えた。答えはないのだよ。私にとって姿とは、全て仮の物にすぎぬ」

しき、って……皆あんたみたいな感じなのか?その、意思があるっていうか……」

 戸惑ったように若者が聞く。

「まさか。ナユタと私が例外だと考えてもらって構わんよ。少なくとも私が知る限りではな」

 言い終え、獣が口を閉じた。若者も俯いたまま、口を開かない。


 つかの間、しん、とした静寂が流れる。

 再び口を開いたのは、若者だった。

「……さっき、色師達は人々に愛想を尽かした、って言ってたな。

 俺にしたみたいに、風化についての説明を、皆にする訳にはいかなかったのか」

「説明して理解できるものなら、最初から風化など起こっておらぬだろうよ。

 百歩譲って、仮に理解できる者がいたとしても、極少数だろう。大勢たいせいは変わらぬ。それでは変化しない」


 若者は唇を噛む。

「媒足る者、ってのも……ほんとに全員、いなくなっちまったの?ただの一人も?」

「……何が、言いたいのだ?

 先程の問いと同じだな。居たとしても、絶望的なまでにその数は少ないと判断されたのだ。色師と媒の邂逅が、ほぼ皆無であろうと考えられる程には」

色師達あんたらがそんな風に諦めちまうから、色師は滅んじまったんじゃねぇのかよ……っ!」

 ふいに、若者からかつてない憤激を感じ、獣は少し目を瞠った。

 若者はきつく拳を握り締め、眼差しを怒気に染めていたが、自分を抑えるように一度、深くゆっくり息を吐いた。


 そしてぽつりと呟く。

「……俺、初めにその子と会った時、レイって名乗った。

 でもそれって、俺の本当の名前じゃねーの。本当の名前はさ……、わかんないんだ」


 目を閉じると、母の言葉を思い出す。

(ねぇ……。あなたの名前はね、母さんの大好きなものからとったの。今はもうなくなってしまったけれど、とても、大切で、愛しいもの……)

 何度も思い出す、自分の名を呼ぶ母の姿。だけどその顔と声は、どこか儚く、遠い。


。自分の名前だけじゃない、あんなに好きだった母さんの絵も。母さんの顔も、声も。なくなっちまった。

 獣はぴくりと身じろぎする。


「母さんはさ、前にも話したけど、絵が大好きで、それに、馬鹿正直で……不器用な人だった。この灰色の世界で、どんなに変人扱いされても、馬鹿にされても、絵を描くことをやめなくて、この世界に色彩が戻ることをいつだって夢見てた。……最期まで」

 若者は顔を上げ、強く獣を見据えた。その鋭さに、獣はわずかに気圧けおされる。


「極少数の人間には、まるで意味がないようにさっきあんたは言ったけど、だけど、確かに母さんみたいな人はいたんだ。きっと世界のどっかには、他にも同じような人だって居たはずだ。それでも、出会わなければ無意味だっていうのかよ……っ!

 母さんは最期まで俺以外には理解されないまま、死んでいった。あんたらなら、母さんを理解わかってやれたんじゃないのかよ! 必要としてやれたんじゃないのかよ!? 少数だの、確率だの、そんなこと言ってんなら、風化を引き起こした人間と一緒じゃねぇか!!」


 静寂の中を、一陣の風が吹き抜けた。

 いつしか、終始無言でいる少年は、獣の背から顔を上げ、視線を巡らせていた。

 獣は、答えない。答えられない。


「……媒ってのは、どうやってなるもんなんだ。生まれた時から決まってるのか」

 押し殺したような若者の疑問に、獣が今度は答える。

「否。色師との契約により、選出される」

 その言葉を聞き、若者は不敵に笑った。

「へぇ。そりゃ良かった。どんな条件だろうと諦めるつもりはなかったが、それなら話は早い」

 そして、獣と少年を見つめる。


「俺を、媒にしてくれ」

「なっ……」

 獣は、思わず声を上げる。

「お前、話を聞いていたのか?媒になるということは、色師と一蓮托生いちれんたくしょうとなり、風化にあらがうこと――、を意味するのだぞ!?」

「ああ、聞いてた。だから言ってんだ。俺の旅の目的は最初はなっから風化を止めることなんだよ。色師がそこに居て、能力の発動には媒ってのが必要だってんなら、話は簡単だ。俺が媒になりゃあいい。世界だろうがなんだろうが、いくらだって敵に回してやるよ」

「それだけではない。媒は――」


 ――と。

 突然、少年が勢いよく立ち上がり、若者だけではなく獣も驚き、気をとられた。それまで少年が機敏に動くところなど、見たことがなかったからだ。


 再び、風が吹き抜ける。

「……? そういえば、さっきからなんか静か過ぎねーか?

 風は止んでないのに、梢の音がしねぇ……?」


「――まさか。

 おいっ! 乗れ!!」

 獣の突然の声に、しかし若者は一瞬で反応した。獣に駆け寄り、少年を内側に抱きかかえるようにして飛び乗り、その背につかまった。

「跳ぶぞ!!」

 その声と同時、獣は手近な樹の頂点に一蹴りで跳躍する。


 そして、周囲の状況を確認し、

「……なっ」

獣と若者は異口同音に声を上げた。

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