不幸の前触れ

天邪鬼

不幸の前触れ


 友達とカラオケで遊んだ後、駅前の路地で見た男はあまりにも不気味でした。


 そこを通らないと駐輪場には行けなかったものですから、私は男の前をどうしたって通りすぎなくてはなりませんでした。


 ホームレスというのでしょうか。髭は胸のあたりまで伸び、頬は痩せこけ、ぼろ布を纏ったその男は、街灯の影に隠れるように道の端でうずくまり、通り行く人々の顔をただじっと見つめているのでした。

 臭いは気にならなかったのですが、何か禍々しいオーラを放っていて、見るだけでゾッとするような男でした。


 私がそこを通るときも、男はやはりじっと私の顔を見つめていたのですが、突然ニヤッと笑った…ような気がしたのです。気がしたというのは、あまりに気味が悪くて直接男の顔を見ることはできなかったので、ちゃんと見たわけではないのです。ただ男の口の端がクッと吊り上がったような気がしたのです。それはまるで、悪魔が笑っているかのようでした。

 私はついに怖くなって、足早にそこを通りすぎました。ただ駐輪場の出口は一つしかなく、家に帰るにはもう一度そこを通らなくてはなりませんでしたから、仕方がないので私は男を見なくて済むように全速力でそこを駆け抜けました。そのとき男がまだそこにいたのかどうかさえもよく覚えていません。

 家の近くまで来たところでふと、そういえば自転車など置いて歩いて帰ってくればこんな怖い思いをしなくても良かったと思いましたが、あぁ今そんなにお金が無いから余計に駐輪代など払えないか、今日はなんだか嫌な日だとため息をつきながら自転車を漕ぎました。


 私はそれまでずいぶん幸せに暮らしてきました。幼少のときから運動も勉強も得意で、特に苦労もせず地元で一番の私立高校に入学し、周囲からは常に称賛を浴びて育ちました。

 自画自賛をするつもりはありませんが、私は容姿もそこそこよく、佐倉さんのとこの子はべっぴんさんでええわねと、どこに行っても誉められました。

 両親は仲がよく、友達は多く、彼氏もいました。


 しかし不気味な男と出会ったその日を境に、私の生活は一変しました。


 家に変化が訪れました。

 つい先ほど仲が良いと言ったばかりの両親ですが、突然喧嘩を始めたのです。本当に些細なことがきっかけでした。

 そしてある日、父が浮気をしていたことが分かりました。次の日母は家を出ていきました。

 その日から毎日、父は浴びるように酒を飲みました。幸い私に暴力を振るうことはありませんでしたが、その代わり私に全く関心を示しませんでした。というより、私の存在に気付いてすらいないようでした。

 もうそのとき父は狂ってしまっていたのです。

 一年して、なんの前触れもなく父は死にました。原因はよく分かりませんでしたが、酒が身体にたたったのだろうと思います。

 不思議と涙は出ませんでした。悲しくなかったと言えば嘘になりますが、そのときはほっとしたという思いの方が強かったのです。


 学校にも変化が訪れました。

 成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗。そんな私を妬んだクラスの女子が、私に嫌がらせをするようになりました。私をハブにしたのです。小学校から仲の良かった他クラスにいる二人を除いて、誰も私と口を利かなくなりました。彼氏にも別れを告げられました。結局私は卒業するまで、クラスの人とは誰とも話をしませんでした。気付けば私は無口になっていました。


 助成金などを使ってなんとか高校は卒業できましたが、大学に行くお金はなかったのですぐに就職しました。仕事はよくできましたが、無口のために友人はできませんでした。


 その後も私の不幸は続きました。

 毎日会社に行って帰るだけの孤独な生活をしていた私のもとに、一本の電話が入ったのです。それはたった二人の友達のうちの一人、舞が車にはねられたという内容で、もう一人の友人である紗季からのものでした。

 私が病院に着いたとき、舞はすでに亡くなっていました。

 こうして私が頼れる人はただ一人、紗季だけになったのです。とはいえ紗季も多忙な人間でしたから、そう頻繁に会えるわけでもなく、舞がいなくなったことで私はさらなる孤独感に苛まれることになりました。



 ほんの一度、私に何年ぶりかの幸せが訪れたことがありました。

 会社の一つ上の先輩から告白されたのです。私は二つ返事で彼との交際を始めました。

 しかし私は会社であまりよく思われていなかったものですから、二人の交際は公にはしませんでした。

 彼は優しい人でした、私より一回り背が高く、頼れる人でした。無条件に私を受け入れてくれる彼に、私は身も心も委ねるようになりました。彼は、私が忘れかけていた「人に愛される幸福」を思い出させてくれたのです。


 しかし、それも本当に束の間の幸せでした。

 彼が、彼の友人と話をしているのを聞きました。あの女、すげぇチョロかったよと言って私を嘲笑う声は、他でもない彼のものでした。

 怒りとも悲しみとも呼べない何か忌々しい感情が、私の中からふつふつと沸き上がり、やがて身体中を支配しました。

 しかし私に復讐する勇気などはありませんでした。私は黙って会社を去りました。



 しかたなく、新しい就職先を探しながらバイトをして暮らしました。思うように就職先が見つからず、会社をやめて三ヶ月が経とうとしていたとき、紗季から電話がありました。久しぶりに会おうよという彼女の言葉は、荒んだ私の心をいくぶんか癒してくれました。


 高校卒業以来、始めて生まれ故郷に戻ってきました。紗季が呼ばなければ、もう二度と来ることはなかったでしょう。この町に来るのは正直嫌でした。もっと正確にいうと、子どものときの幸せを思い出し、今の自分がよけいに惨めになってしまうから嫌なのでした。それでも忙しい中時間を作ってくれた紗季のことを思うと、遠出はさせられないからと何とかここに来たのです。



 紗季は来ませんでした。急に仕事が入って、来れなくなったのでした。

 ふと、私はあの不気味な男のことを思い出しました。

 何かに誘われるように駐輪場へ続く路地へ入ると、あの男がいつかと同じように道の端に座っているのが見えました。

 彼は私の姿を見るなりニヤッと笑って、自分の横を指差しました。ここへ座れと言っているようでした。

 私は何かに取り憑かれたかのようにフラフラと歩みを進め、男の横に座りました。


 はっとしました。

 そこに座ると、不幸に取り憑かれた人が一目で分かるのでした。

 しばらく人の往来を眺めていると、一際強い不幸を纏った猫背の男が一人、こちらへ向かってくるのに気がつきました。

 そうか、この人にはもうすぐ不幸が訪れるのだと、直感的に分かりました。もうすぐこの人も私のように不幸になるのかと、なんだか久しぶりに友人ができたような気持ちになりました。


 いつの間にか、あの不気味な男はいなくなっていて、私は一人、道の端に座っていました。


 そして、目の前を通る猫背の男を見上げて、私はニヤッと笑うのでした。

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