そして、

「暴力の縮減」のために存在する国家


“ディストピア小説”と題したときに欠かせないのは、「閉塞感、息苦しさ」「自由の限定」の具体的社会描写であると、個人的に思っている。


そしてその紛れもない「現実的感覚」を生み出しているものが、何という名前で呼ばれていようと(国家、他の権力装置、宗教、システム、生物学的根拠、新規の科学的発見、などなど)、あるべくして生まれているという事実に、主人公が衝撃を受ける、という展開。


これまで、こうした内容の作品は、「こういう世界にだけはしないでおこう」という未来予知的な、将来的視座をもって、読者を惹き付けるものだろうと、どこかで安住していた。だが、竹田氏の、非常に分かりやすい同著を読み進めていくにあたり、このディストピア的閉塞感は、まぎれもなく、目の前のモノなのだと理解できた。


行われた犯罪を憎むのとは別のことである。民事裁判で争う、所有や権利、保障をめぐる紛争の相手に向ける感情とも違う。正体不明の「敵」を創出し、それに”銃口”を向けることの安楽さ。このマヤカシに逃れたい心境を生み出しているのが、現代の閉塞感だとして、解決策は何であろう?


閉塞感の反対。それは「最大自由」だろうか。


なんでも望むまま、得られる社会のことを指すのだろうか。


超越権力である国家を、大きなカゴのようなものと捉えて、その中で「市民」が、互いの自由を尊重して…という理屈は、この閉塞感の打開につながるのか。


国家以下の規模の共同体同士の利害対立を嫌って、「個人対国家」という図式しか残さないとき、たしかに、戦争の廃棄を目指した社会契約が支配する"最大自由"の社会が、原理として誕生する。しかし、想うのだ。そんな自由は、いったい何色の自由なのだろうと。


日本の歴史を振り返って、不自由な身分制とその廃止が言われる。


身分によってあらかじめ、与えられる権利の違いがあってはならない、ということだ。そして、身分ではなく、その働きと能力に応じて賃金を得、生活ができる様にと。しかし、この一見、上限のない資本主義の競争原理が、あまねくすべての人間の機会均等を意味しないどころか、「自己責任」の名のもとに、容赦なく、最低限の生活さえ切り崩す可能性があることが知れると、国家は福祉という社会政策に打って出た。


最大自由とは、終局、こんな現実しか用意してくれない。では、求めるべき自由とは、どんなものであるのか。


中世、近世と、近代に劣らぬ「個人の自由」があったと見る研究が、たしかに存在する。それは、日本を対象とした研究にも在る。その自由とは、たとえムラのような小さな共同体の中でも、年齢によって、"青年団"のようなものや、幼い子供たちのつながり、また田畑にかかる仕事のために、季節によっても細かい小グループが形成され、そうしたごくごく小さな集団の間を、を有する、「自分」というものが意識されていた、という指摘だ。


すなわち、共同体の中での自由というよりも、異なる様々な共同体を行き来する、往来、移動の自由である。また関わる共同体の選択も、土地を移動する機会や自由を得た者たち、行商人や参勤交代の侍たちには、実際可能であった。


もしかしたら、「自分」という接点を除いては、自身が関わる共同体の間には、なんの関連性も、共通項もないかもしれない。ただし、関わる共同体をほぼ同じくする「他者」との間には、なにかしらの連帯意識も生まれよう。


そうした強い個人主義に基づいた、小共同体「間」にある個人の自由。この「間」に世俗権力や、「右ならえ」の空気、その他、監視の目が向かないことこそ、あって嬉しい自由なのではないかと思う。


もちろん、そうした自由においては、たった一個の共同体にしか関わらない、という自由も保障される。何の問題があるだろう。


近代は、国家という、ひどく捉えがたいほど大きな共同体を用意し、その内側になんの仕切りも、小部屋もないことを以て、自由と定義してくれる。だが、人間一人の大きさが変わったわけではないのだ。小部屋も秘密の組織も、小集団も、必要があれば作り、その間で、またその内で、「自由に」生活したい。


もちろん、そうした小さな集団、家族や会社、学校のクラスメイト、そうした区切りが、個人の自由を制限するものであることもある。いうまでもなく近代は、そうした反省から生まれているのである。だが、もし、そうした区切りを超越し、自由にそれらの間を移動することが、選択の自由だと個々人が意識し、それを確保するための小さな仕組みを創造、保持できるのなら、もう少し位は、息のし易い社会にならないだろうか。(SNSはそうした自由の体現物か?いや、違う)


私は色の付いた自由が欲しい。様々な色が、それらの色のままに、ときには混ざり、広がり、しかしどの色も、損なわないような形で保たれることを望む。


国家は、抱えきれないほど大きな純白のキャンバスを個人に与えて、自由に描けと言う。でも、そんなキャンバス、一人分には大抵、。そして、そこにしか描けないのなら、また、そこに描こうとする内容が、すべて監督されるのが当然だというのなら、受け取り自体、遠慮したいものだ。


国家によって与えられるべきは、キャンバス(=台座、下地)ではなく、色とりどりの絵具であるべきだ。


そこから何色を選び、どこにそれを塗るか、塗らないか。また、何を描くか。


もしかしたら自分で、鉛筆やクレヨンを用意してもいい。ノートの片隅、自前のスケッチブック、もしかしたら誰かの顔の上。そこまでの自由があったならば、もう、何も言うことは無いだろうに。やはりこんなことは、比喩のレベルでしか言えないことなのだろうか。思考錯誤は続く。


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カラフル自由論 ミーシャ @rus

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