カラフル自由論
ミーシャ
紹介
ホッブズの言うところの普遍闘争と
それを止揚する原理としての「国家」を考える著
人間が私財を有し、その貯蓄が可能となっていた文明史に絡めて、相互不信の増大から、原理としての「戦争」が永久に不可避であるということ。実際の戦争は、原理としての「国家」が起こすものではなく、相互不信を抱く人間が起こすものであること。
大きな問題を、個人の掌サイズに集約して見せる哲学の粋が、竹田氏の頭の中に確かに開花している。
それでも、「ねばならない」原理が、ホッブズ以来の(政治)哲学者たちによる「どうやら人は、そのような習性を持つらしい」から、一足飛びに引き出されてくるところは、モデル論に落ち着く「法哲学」の範疇にある気がする。
人間の相互不信も戦争も、実際に目の前で可視化すると、その唯一らしい「原理」で、当事者を宥めることも出来なければ、これという決まった解法の無い、普遍的課題である。哲学の限界は、当然ここにあって、何の不思議もない。むしろこの哲学を役立てようとするならば、その視点を正しいと信じ込んだうえで、原理的矛盾に満ちた対国家闘争に、身をゆだねるべきではない、という判断しか、終局得るものはない。
だが、ふと思う。
自由の相互承認だとか、無色透明にならない自由を、どうやって均等に保障するのかとか、自由を直接論じる前に、その主体である人間はどうなんだとか、そうした細かな”色彩”のことが気になってしまう。
そして、竹田氏の言う哲学的正解を望まない、敢えての”不正解”を嗜好する人々は、一体どうすればよいのだろうか、とも。だが、氏はきっと、そのような人々が圧倒的多数なのが現実社会であると理解されている。だからこそ、この書の価値があるのであるのだ。では?
「法哲学」の賢くも、小ズルいと言うべきところは、そうした様々な人間がいて、それこそ多様な自由の希求と解釈が溢れかえっているところに、「ねばならない」ルールを、ポンと設定してしまうところである。
“あとはどうとでも解釈して使いなさい”。
もちろん法の解釈者と裁定には、裁判所機関や、状況によっては権力も絡んでくるだろうが、”面倒な些事”に至らない浅い法のラインを、個人の自由の、境界線より幾分か前に、引いてしまう。「法律を喜ぶ人はいないだろうが、法に触れるような事態に至る前に、たいていの人はそれが"ダメなこと"だと理解しているはずである」これが、法学的立ち位置、といっても差し支えない。
これで、大抵のことが足りてしまうものだから、このモヤっと感を、真剣にどうにかしたいという人も、ぐっと少なくなってくる。しかし、不安になってはいけない。この残った少数に向けて発せられるのが、竹田氏の訴えるような「法哲学」であるのだから。
既にある秩序や機構の意義を捉え直し、安易な破壊や批判を正しいとしないことを、個人の頭で納得する。その最も自由主義的な手段が、こうした哲学の開示である。読むも、読まないも、納得するもしないも、読んでみてから、もう一度考えよう、という誘い。これは一読の価値があると思われた。
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