第3話 会社に着いたら
路上ではそこまで彼の存在に恐怖を示さなかった人々が、なぜ彼が室内に入ってくると途端にパニックになるのか。この正確な原因はわからないけれども、屋外ではさほどゴキブリを恐れない人々が、なぜか室内に入ってこられると恐慌を起こすことを想起して、彼は状況を理解した。
「も、もしかして、田中くん?」
オフィスで社員たちが泣きわめく中、比較的落ち着いていたデスクが恐る恐る、としまさに問いかける。
「ええ、田中です。すみません、入る前に声をかければよかったんですが、ついいつもの癖で」
としまさの声を聞いて、オフィスの仲間たちは幾分か冷静さを取り戻したようだった。
「本当に虫になっちゃったんだねえ」
としまさの背中を触りながら、デスクが言う。
「でも、これムカデじゃないね。ヤスデだよ」
「えっ?」
としまさは一瞬、何を言われたのかわからず、間の抜けた声で聞き返してしまった。
「いや、電話ではムカデになったって言ってたけどさ、これはムカデじゃなくてヤスデだよ。体の節ひとつにつき、二対の脚がついてるだろう? これはヤスデの特徴だ。ムカデは体節ひとつに一対の脚がついてるものだから」
としまさは自分の腹を見つめて言った。
「なるほど、ぼくはヤスデなんですね」
そう口に出してみると「もう自分は人間ではなくヤスデなのだ。虫になってしまったのだ」という気持ちが湧いてきて、いたたまれなくなった。
としまさの目から、一筋の涙が流れて落ちた。
「い、いやあ、あくまでヤスデに似てるってだけでね、もちろんそんなに大きなヤスデはいないし、現にきみは言葉をしゃべっているじゃないか。きみはヤスデではないよ」
「しかし、人間でもない」
デスクの擁護にも、としまさの落涙を止めることはできなかった。としまさの涙が、ぽたぽたと床を濡らす。
「田中くんは人間だよ! だってこうして会社に来てるじゃん!」
そう叫んだのは、同僚の30代男性、上山だった。上山はかなりの肥満体であり、オフィスの気温を2度ほど上げている類の人間で、また常にその服からは汗のにおいか生乾きのにおいが発せられていたため、職場では嫌われているとは言わないまでも疎んじられていた存在だった。
しかしそんな上山の言葉であっても、今のとしまさには福音として響いた。
「そう……そうだよな。自力で出勤できる限りは、まだ人間だよな……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます