ヤスデ人間――あるいは人の価値に関するいくつかの不安――
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第1話 朝、目覚めると
ある朝、田中としまさが気がかりな夢から目を覚ますと、彼は自分の体が一匹の大きな虫に変わっていることに気づいた。
甲殻のように固くなった背中を下にして体を動かすと、彼は枕元に置いたスマホを手に取った。
それはほとんど無意識であったけれど、たくさんの細い棒のようになった彼の腕はしかし意外にも器用に連動して、スマホを拾い上げ、上手に操作することができたのだ。これは彼に少しの安心を与えてくれた。
「朝起きたら虫になってた件」
スマホのカメラを起動して、変わり果てた自分の姿を写真に収めると、早速これをツイッターにアップした。しばらく待つと「グロ注意」「ザムザ乙」といったフォロワーからの反応が返って来る。
周囲からの反応を総合的に検討してみて、としまさは今自分が夢の続きを見ているわけでなく、恐らくこれは現実であろうという結論をひねり出した。
「困ったことになった」
そう言って顔をしかめながら、としまさはいつもの習慣通り、ノートPCを鞄に詰め、出勤の支度を始めた。
としまさはWebライターである。世界中のWebから拾ってきた多種多様なニュースを翻訳したり、数分の暇つぶしになりそうな与太話をでっちあげたりして、記事にしてPVを稼ぐという職業だ。
「ああ、なんという骨の折れる職業をおれは選んでしまったのだろう」
としまさは身支度をしながら、そうつぶやいた。腹の脚を折りたたむことで、シャツはなんとか着ることができたものの、ズボンを履くのはどう工夫しても無理なようだった。
「毎日、毎日、ホラを吹いているようなものだ。ちょっと役に立ちそうなニュースはどれも海外の新聞社のサイトから無断で翻訳したものだし、自分で書く記事なんて、世のためになるような記事はひとつもない。見出しで人を釣ることだけに頭をひねる毎日だ。いつの間にか、小説家になろうなんて夢どころか、書きたいことすらなくなってしまった」
これは特段、彼が虫になったから出てきた愚痴ではないけれど、何の因果でこれほど変わり果てた姿にされたのか、その原因をこの罪深い仕事に求めることで、心の平衡を保とうとしたものと思われる。
「としまさ、朝ごはんは?」
としまさが支度を始めたことに気づいた彼の母が、ドア越しに声をかけた。
「いらない」
いつも通りそう答えたはずが、声がおかしい。
ともかく始業時間が近いので、家人に見つからないよう、こっそりと外に出る。幸い、彼の脚はしっかりと機能して、むしろ以前よりも機敏に動くことができるようになっているような気さえした。
しかし外に出たところで彼は、こんな姿で会社に入れるだろうかと不安になった。スマホを取り出し、会社に電話をかける。
「もしもし、デスクですか? あの、ぼく、虫になっちゃいまして。そう、そうです。あ、えーと、ゴキブリじゃありません。ムカデっぽいやつです。はい。ええ。いや、冗談じゃないんですよ。ほら、声も変でしょう? いや、いつもと同じじゃないです、変なんですよ。それで、この姿で会社に行っても大丈夫かなーって。いや、汁とかは出てないです」
デスクの返事は、まず見てみないと判断できないから、いったん会社に来てくれというものだった。としまさはこんなときくらい休ませてくれてもいいのにと思いながらも、心の奥のほうには、拒絶されなくてよかったという気持ちがないでもなかった。
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