献身

天邪鬼

献身



 暑いと言ってもね、東京ほどじゃあないんですよ。

 いや、本当にこっちに越してきて良かった。夏なんかは、都会の蒸し暑さといったらたまらないですからね。

 そりゃ私も若いときゃあよーく外回りしてたもんですが、今はもう。


 ここだって日差しは強いんですよ、山ん中ですから。でも風が良くてね、家ん中はけっこう涼しいんです。


 ちょうど、1年くらい前んことですがね。

 いやぁその日も家ん中にいたんですけどね。毎朝机に置いてあるはずの新聞が無いんですよ。いつもはね、家内が必ず朝一番に新聞をとってきて、私の机に置いてから朝御飯を作ってくれよるんですけど、その日は無かったんです。

 それで私ね、おっかしいなあと思って、家内を呼ぶんですけどね。

「おい美代子、俺の新聞どこだ。」

 家内は来てすぐに…あれ、なんて言ってたんかな。忘れてしまったな。

 とにかく私を不思議そうに見るんですけどね、そんなことされても困るんですよ。新聞を探してるんは私なんですから。


 仕方が無いんでね、ちょっと立ち上がって探してみると、その新聞がトイレにあったんです。

 そしたら家内がね、

「あんた、自分で読んで置いてったんやないの。ややわー、もうボケよってからに…」

 ってね、怒るんですよ。

 これはちょっとがっくり来ましたね、あぁもうそんな年になってしまったんかって。

 ちょっと前なら、

「あぁ俺もそんな年か。いやぁ年には敵わんなぁ。」

 なんて冗談も言えたんでしょうけど、こんときはそうも思えなかったんです。新聞を毎朝読むっちゅう私の習慣は、もう60年も続けてきたもんですから、食事するようなもんだったんですよ。それを忘れるってのは私にとっちゃえらいことなんです。

 でもね、私にはちっともそんな覚え無かったんですよ。新聞読みながらトイレに行くことだって今まで無かったんですから。ところがね、こんときは私がボケたという家内の言葉に、なぜか言い返せなかったんですね。そうか、って言うんがやっとでしたよ。さっきも言いましたが、きっとそれだけ衝撃的だったんですね、私自身がボケてしまったっていうんが。


 そうしてね、その日からこんなのがちょっとずつ増えてったんですよ。


 ある日は、コップが無くなるんです。そうするとね、やっぱりトイレから見つかる。今度は箒が無くなるんですけど、やっぱりこれもトイレから見つかるんですね。

 それからね…えぇっとその後は何が無くなったか忘れてしまったな、とにかく物が無くなってはトイレで見つかるんです。

 そのたんびに家内は、

「あんた何べん言うたら分かるんや、トイレに物持ってくなって言っとるやないけ」

 って私を怒るんですよ。


 初めは1ヶ月おきくらいだったんが、3週間2週間ってね。先月だったかなぁ、その頃にはもう毎日ですよ。


 そうすると、日に日に家内の怒りかたはひどくなってくるんですね。

 初め家内は、私が物をなくすのを怒ってたんですよ。ところがね、私にはその自覚が無いもんですから、最初は謝ってたんですけどね。だんだん腹がたってきて、

「だから俺は知らないって言ってるだろ、オマエが無くしたんじゃないのか」

 って、喧嘩するようになったんです。そうすると、さらに家内の怒り方は激しくなってね、悪循環っちゅうやつです。

 しまいには、あることないこと、もう訳も分からないことで怒り出すようになってしまったんですよ。

 本当にこの55年、仲の良い夫婦だったんですけどね。だからこんなにしょっちゅう喧嘩したのもこれが始めてで、これもまた私には厳しいもんがありました。


 それで先週、ついに家内は家の中で暴れだしたんです。

 突然居間から喚き声が聞こえて、急いで見に行ったんですよ。そしたら部屋中、割れた壺やら皿やらの破片でえらく散らかってましてね。もうこりゃいかんと思って。そしたらちょうどよく宅配便のお兄さんが家に来てね、なんとか家内を止めてくれたんです。

 そんときは急いで息子に電話してね。家内連れて3人で病院に行ったんです。


 それで診てもらったら、ボケてたのは家内の方だったんですよ。

 きっと家ん中で物がトイレに移動してたんも、全部やったの家内だったんですね。

 …えぇ、その後どうしたんかは忘れてしまったんですが、今私は家内の横に座ってます。


 家内は、真っ白い病院のベッドの上で、ぐっすり眠ってるんです。私の手をギュっと握ってね。

 私たちはね、本当に仲が良かったんですよ。最後こそ、喧嘩ばかりでしたけどね。


 そういえば、なんで家内が眠ってるのかも全然分からないんですが、病室には息子もいまして、なんだか神妙な顔をしてるんです。


 それを見てね、どういう訳だろう、長年付き添った仲だったからですかね、なんとなく分かるんですよ。あぁもう家内は、美代子はこのまま死んでしまうんだって。それももう、今まさに、美代子は1人で行ってしまおうとしてるんだって。

 私ね、涙が止まらんくなってしまって。俺を置いて行ってしまうんかってね。


 美代子、美代子って、泣きながら、それでもしっかり家内の手を握りしめながらね、何度も何度も名前を呼んでるんですけどね、返事は全然ないんですよ。







 どれだけ、時間が経ったかなあ。


 なんだ、美代子、目が覚めたんじゃないか。なんでそんな悲しそうな顔をしてるんだ。どうしてそんな目で俺を見てるんだ。

 なぁ、なんだ、何か言いたいことがあるんだろ、言ってみろって。俺と、オマエの仲だろう。






「親父ぃ、何回も言ってるだろ。俺は康介だよ。親父のたった1人の息子だろ。お袋は5年も前に死んだじゃないか。」



 えぇっと…俺は何年このベッドで寝てるんだったかな…


 忘れてしまったな。

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献身 天邪鬼 @amano_jaku

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