今も隣りへいて欲しい君へ 11/11


 大人になれば、いつかきっと忘れられるんだと思っていた。

 時間と周囲と変わっていく自分が、そうさせてくれると思っていた。

 けれど真緒という、幼い頃からまるで遺伝子みたいに刻み込まれた俺を構成するパターンは、欠けてしまったのに治ることも捨てることもできなくて、埋まらない空洞が気付くと胸の中にできていた。

 それでも今では、笑うことができる、電話で兄貴の声を聞いても穏やかでいられる、可愛い女の子がいると調子に乗ってふざけたりもする。そんな毎日。

 真緒への気持ちは、たまに思い出してしんみりしたり暖かくなったり苦笑いをしたり、とにかく、絶望のようなネガティブな想いから解き放たれつつあった。

 胸の中で迷子になっている真緒への想いは迷子のままでもいいのかなって思いながら、切なさがいつも寄り添う心の隅っこの、真緒が住む場所を大切にしたり忘れたりしながら故郷を離れ、もうすぐ八回目の春が来る。


 この季節に咲き誇る、薄桃色の花びらを踏んで、中古のワゴンの運転席でキーをさしながら、なんとなく空を見上げる。長野の山奥で、俺が神社の神主見習いを始めてから見る二回目の桜木。あと三十回、四十回弱はこの空を見上げるんだろうか。青と白の映える中空にはどこからか立ち昇る煙が風に揺れながら天を目指していて、これから続く故郷への長いドライブの始まりを告げているようだった。

 サヤカか、そう思う。あいつがユウヤと結婚だなんて、冗談みたいだな。初めて付き合って、初めての夜を共にして、初めて別れた彼女は今では一児の母で、俺だけのものだった若い頃の彼女の、今の幸せは少しだけ苦くもある。

 田舎のスピードで細い山道を走りながら思い出すのは去年の春、真緒の墓参りでばったりとユウヤに再会した時の事だ。真緒が死んで以来避け続けていたあいつらとの交流は、かたくなに切り捨てていたのが嘘のように、何事もなく復活した。あれから思えば長い年月が経ったのに、ユウヤはどこか真緒の事なんか忘れているんじゃないかと思っていたのに、何気なく墓参りに来ていてくれた事が、すごく嬉しかった。ユウヤたちに子どもがいるって知って驚いた。コウジとアンともいまだに繋がりがあるって知って、俺が無駄にしてきた時間を巻き戻したかった。

 夏には俺たちとホノカの六人でバーベキューをした。俺を呼び捨てにする人懐っこいあの子が可愛くて、勝手にもう一人のパパってポジションに居座ってあっという間に仲良くなった。

 当たり前は、そこにある時には気付かなくて、それでも今は、一度遠ざけてその大切さを知ったから、例えあいつがいなくとも、大切な絆なんだって胸を張って言える。

 真緒、お前がいないと俺はだめだけど、だめな俺はそれでも毎日生きているよ。

 俺がいつか死んだら、もしかしたら嫁さんや子どもが出来ているのかもしれないけど、その時は真っ先にお前に会いに行くから。

 それまで俺は、ちゃんと生きてるから。

 心の中で真緒が笑って、俺はラジオのスイッチを押した。


 長いドライブの後、たどり着いた地元のホテルのスウィートルームは確かに広くて豪華ではあったけど、それ以上にすでに酒臭かった。

「おいゼンジ。とりあえず一杯飲め」

「なんで新郎が泥酔してんだよ。しかもウィスキーってお前バカなの?」

「いいんだ。俺はもういいんだ。どうせ式の参加者なんて俺たち五人と穂乃香だけなんだし。形式ばった決まり事なんてバカらしいだろ」

「サヤカ泣くぞ。んで、コウジとアンはまだなの?」

 そう言うと、広いソファでウェディングドレスの膝の上にホノカを乗せていたサヤカが代わりに答える。

「アンは今お酒買いにいってる。耕司くんはトイレに籠ってる」

「バカヤローだな」

 そう言うとサヤカは笑って立ち上がり、ホノカをつれて俺の前に立った。

「ゼンちゃん、ありがとう。もしかしたら来てくれないんじゃないかってちょっと思ってた」

「なに言ってんだよ。これ祝わなかったら人としてだめだろ。サヤカの幸せがやっと形になって俺は嬉しいよ」

「ほんと?」

「ウソ。あわよくばお前が俺に惚れ直さないかなぁーってほんの少し期待してたとこに結婚式の連絡ですよ。俺はもう二度と恋できる気がしないね」

「ウソつけ。耕司くんに合コン頼んでるの知ってるからね」

「マジっすか。でも愛してるのは、お前だけだよ」

「死ね」

「お前、なんか昔よりキツくなってない? ママ怖いねー」

 そう言うと笑顔で俺たちを見つめていたホノカが小さな眉を寄せて俺を弟扱いしてくる。

「ゼンジ、ママは優しいよ。今日はママたちに指輪を渡すお仕事があるの」

「そっか。ホノカ今何歳?」

「七歳だよ。セブンティーン」

「ティーンいらんわ」

「なんで?」

「いいか、セブンは犯罪だけどセブンティーンは犯罪じゃないんだぞ」

「どっちも犯罪だ」

「うっせ、ユウヤ。寝てろ」

「今は私たちが通ってた小学校に通ってるよ。時間ってなんか面白いね」サヤカが口をはさむ。

 それからアンが帰ってきて、司会進行役のコウジはベッドでダウンしていて、結局俺が神父さんの真似事をして、ついでに笙を吹き、二人の結婚式はいつもの酒盛りにウェディングドレスとホノカが加わっただけの、懐かしい「あの頃」が満ちていた。


「ゼンジ、水着持ってきたか」

「いや、ホノカと留守番してるからお前らだけで行って来いよ」

「私が残ってるからゼンちゃんも行ったらいいのに」

「だから俺泳げないんだって。プールサイドでちゃぷちゃぷしてる空しさがサヤカさんには分からんのですか」

「ほっとけ宮越。いや、もう宮越じゃないのか」

「宮越でいいよ、今さら耕司くんに沙耶香って呼ばれたらドキドキしちゃうよ」

「それじゃゼンジ、悪いけど子守り頼むな」

「りょーかい。ほら、さっさと行け」

 ホノカは初めての大人との夜更かしに興奮していて、しばらく寝てくれそうにない。

「ホノカー、どうする? 花札でもする?」

「いいよ。でもちょっと待って。アンちゃんとママのお着換えの手伝いしてくる」

「あ、そう。んじゃ、行ってらっしゃい」

 しばらくホノカを待ちながら、この空間に真緒が居たらどうなっていただろうって空想する。

 俺たちは別れの意味も知らなくて、あの頃が本当にそのまま続いて、真緒とホノカは出会っていて、きっと今とは違う未来が俺たちの前に流れていて。

 多分、人が死んだときのプロセスはみんな似たり寄ったりなんだろう。悲しんで、打ちひしがれて、でもそれじゃ死んだ人が悲しむって奮い立って、あの人の分まで頑張ろうって心に描いて。悲しいけど、それはプロセス。

 一生引きずればいいって物ではないけれど、ただ同じ道筋を辿って、悟ったように出会えて幸せだったなんて、そんなの自分で思考できないその他大勢の考え方だ。真緒が死んですぐに兄貴が言っていた言葉を思い出す。「なんの長所もない、世界の風景のようなやつらが生きていて、真緒は死んでいる。そんなの、認められる訳ないよな」

 でも、俺の考えは違う。図ったようなタイミングでのあの事故。「泣かないで」と泣きながら言っていたあの血の気の失せた顔と白い手。真緒は多分、自分の死に際を、自分で選んでいたんじゃないかって思う。

 あいつが死んで、みんな変わった。なかでも兄貴はすごく変わってしまった。それは弱さだと思う。俺は違う。あいつの死を、その意味を考え続けて、天国で会った時に、「バカだな、生きていたらこんなに楽しい事がいっぱいあったんだぜ」って笑って報告して、それから力一杯抱きしめる。

 その日を夢見て、生きていく。

 そんな気持ちが起こした、奇跡なんだと思った。


 じゃあ行ってくるね、とアンとサヤカが出ていって、入れ違いでホノカが戻ってきて俺の前に立ち、目を閉じた。


 暖かい風が吹き抜けていくようだった。

 眩いほどの光が眼の奥を焼くようだった。

 静寂が耳鳴りと鳥肌を引き起こして、俺はただ腑抜けたように真緒を見ていた。


「善司。久しぶりだね。やっと会えた」

「えっ」

「真緒だよ。善司と幼馴染みの、あの真緒だよ」

 幼い唇が、懐かしい発音で、狂おしいあの日々の熱を思い起こさせて、それがまぎれもなく真緒なんだって、理解の外で理解していた。

「うん。分かるよ。ほんと、久しぶりだな」

 そう言うと、ホノカであった真緒は目を丸くして「もっと驚くかと思った」とおどけたように言った。

 目に映るのは相変わらずホノカだ。言葉が途切れると、真緒がそこにいるのか不安になって俺は考える間もなく話しかける。

「なあ、いったいどうなってんの?」

「うん。その説明は必要だよね。っていうか、説明しないと信じてくれないと思ってた」

「そこは俺と真緒だからな。でも説明はして欲しい」

「うん。すごく簡単に言うとね、穂乃香は私の、命の欠片の生まれ変わりなの。私の肉体が死んで、でも生きた魂がそれでも善司に会いたくて、幽霊の世界でさんざん翻弄されて、でもそれでも善司に会いたくて、粘ってたら沙耶香ちゃんのお腹の中に赤ちゃんがいた。生まれ変わるにはね、なんか色々段階があるみたい。でもね、すごーく我儘言い続けてたら許してくれたの」

「なんか信じられないけど、お前らしいな」

「誰でもそうじゃないみたい。私は生きていた頃から幽霊の声が聞こえていたし、周りにいた彼らはなんだかんだで優しかった。私には善司が必要で、善司には私が必要だって分かっていてくれた」

「そっか。でもそんな都合のいい事ってあるの」

「善司には分からないよね。普通に生きてきて、ある日突然、頭の中で他人の声がして、それが脳の疾患だって、善司は認められる? 私には無理だった。認めないことが私の最後のプライドだった」

「そうだな。俺もお前が病気だなんて思ってなかった。でも変わってくお前を俺は助けることができなくて、どうしていいのか分からなかった。幽霊はどうしてそんな事をするんだろう」

「全部は話せない。まだ分かってないことも多いし、彼らはウソや冗談が好きだから。でもね、それは遥か昔から続いているしきたりなの。生きている人に触れて、彼らは生きたかったんだよ。死んでみて、それがよく分かった」

 幽霊と、死の世界と、転生。まるで作り話のような設定。

「一つだけ、試してみてもいい?」

「なに?」

「俺たちの、一番古い思い出はなに?」

 予感があった。そうである予感が。小学生にしては長い黒髪を梳いて、彼女は事もなげに言い放った。

「公園の、砂のお城で私たちが遊んでいて、セミが鳴いていて、夏って言葉の意味も知らないのに夏を感じていて、私は善司が作ってくれたビー玉の指輪を大切そうに握っている、そんな、泣きたいくらい、幼い、始まりの私たち」

 セミの鳴き声が聞こえた。空が鳴っていた。夏の音が、響いていた。

 砂場の真緒が、大切そうに俺の指先に触れて、自分の指に指輪をはめてくれとせがむ。

 はめなかった。照れくさかった。照れているという感覚も、たぶん分からなかった。

 どうしてだろう。はめていたら、その指に触れかえしていたら、きっと未来は動いていて、流れゆく二十年の最初の瞬間に、俺が俺の気持ちと真緒の気持ちに気づいていたなら、きっと未来はこんな顔を見せてはいない。

 なんでだよっ! 視界が滲んで、込み上げてくる想いを、想いのまま爆発させたくて、我慢したくなくて、壊れそうだった。

 真緒が、ここにいるんだっ!

「真緒っ!」

 喉の震えは、この響きを、幾度となく繰り返したこの音の愛しさを憶えていて、それがこいつの、一番弱い部分を刺激するって知っていた。

「善司。好きだよ。大好きだよ。こんなに締めつける言葉なんてない。こんなにありふれた言葉なんてない。泣いちゃいそうだよ。何もかも投げ捨てて溶けてしまいたいよ。だけどね、今日はお別れの日なんだ。最初で最後の、隕石みたいな、奇跡の日なんだよ」

 俺は、それを、どこかで分かっていた。分かっていたから、隕石のような奇跡の日を、予定していたデートみたいに、当たり前に受け入れていた。

「知ってたよ」

 そう言った瞬間、真緒の心も爆発していた。

「知ってないでよ! 悟らないでよっ! この日が、今日が、どれだけ待ち焦がれて、生きている間に積み上げたものも、死んでから過ごした時間も、全部、全部っ、全部失ってもいいから願った最後の一瞬なんだよっ! 苦しいよ、消えちゃうの苦しんだよ。でも今なんだ、私が生きてきた永遠をかけて欲しかったのは、今なんだよっ!」

 抱き合う肌が真緒じゃない事が悲しかった。あの暖かく、俺を求める体温は、今はホノカが生きる拍動に費やされていて、生きている熱が全部が全部、俺に流れ込んでくることはない。キスをしたかった。それが躊躇われた。だけどキスをした。大好きだったあの真緒に。少しでも届くように。あの日々が永遠だったと信じて。

 押しつけた唇から、少しずつ真緒が失われていくのを感じた。

 消えてしまう、いってしまう。

 真緒がもう、届かなくなる。

「見つめてるよ。声をかけられなくても、真緒だった私はずっと善司の傍にいる。今も隣りにいて欲しい善司を想って、明日も、明後日も、ずっと傍にいる。善司っ、バイバイっ、一生傍にいる、いつでもアイラビューだよ。産まれた時から、どうしようもなく、貴方が好きだった…」

 最後の言葉を言ったら、きっと真緒は消えてしまう。今だってこんなに儚いのに、でも、今しかないんだろう。俺の中にある、正しい世界を選び取る力が、この先ずっと失われようとも、今、この瞬間、何よりも正しく、真緒を送り出そうとしていた。

「真緒。会いに来てくれてありがとう。この世界にお前がいないことがどれだけ辛いのか、きっと言葉では伝えきれない。でもさ、傍にいてくれるんだろう? 俺が傍にいて欲しいのは、きっと、どうしようもなくお前なんだよ。真緒、愛してる。今も、今でも、隣りにいて欲しいのは、君なんだ」

 真緒が見えた気がした。その顔は、笑っているような気がした。緑色の炎が立ち上り、眩暈に似た感覚が脳を回して意識が薄れかけた。

 気がつけば静かだった。ソファに倒れ込んでいたホノカを抱き上げてベッドに寝かせると、俺はソファに腰かける。

 誰かがいる感覚が、そこにあった。瞳を閉じていても隣りに誰かがいる事が何故かわかるみたいに、真緒が傍にいるのを感じた。

「真緒」

 声に出してそう言った。

 気配が動いた感覚があった。

 触れようとした手のひらは、何にも触れなかった。




                                了

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今も隣りへいて欲しい君へ 鈴江さち @sachisuzue81

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