今も隣りへいて欲しい君へ 10/11


 夏が来た。高一の夏。また、夏が来た。

 久々に訪れた我が家を感慨深げに見て回る真緒は、この前あった事を忘れたかのように振る舞う。椅子の縁をなでたりダイニングテーブルが昔のままだと言ったり。真緒の生き生きした姿を見るのは本当に久しぶりだった。不必要なほどあれこれと部屋の中を歩き回る真緒がガラス戸棚の前で立ち止まった。

「この部屋もあんま変わんないわね。おばさんのエッグアートとか懐かしい。あ、でもこれは…」

 真緒が手に取ろうとした棚の手前にある青い透明なグラスを先に取って俺は言う。

「真緒、この前はごめんな。その、悪かったよ」

「私もゴメン。あの時も言ったけど、多分寂しかったんだと思う。だっていつも傍にいたゼンジがやけに冷たくなってたから」

 俺は何と言ったらいいか分からず突っ立っているとスネを蹴られてグラスを奪い取られた。

「痛ってえって。なんだよ、急に萎らしくなったかと思えば」

「これでチャラにしてあげる」

 真緒が薄く笑った。真緒はこの短い間にまた一段と綺麗になったと思う。涼しげな白いパフスリーブのワンピース姿で目の前の机にもたれかかってくつろいでいる姿はどこかのファッション雑誌の表紙になっていても全然可笑しくない。けれど何処か違う気がする。

 今日の真緒はわりと昔みたいにしているけど、あの頃の様な快活さがない。

 輝き、と言えばいいんだろうか。

 さっきも時折遠くを見るような表情を浮かべたりしていた。

 ある日突然に、真緒の中から何かが抜け落ちてしまったみたいに彼女は笑わなくなった。

 顔は笑っていてもやっぱり笑っていない。兄貴と付き合い出してからも、厭世的な発言や皮肉なジョークが多くなって、それは俺たちの前でだけだったが、無関心になっていった。俺はどうして良いのかも分からずにだんだん時だけが過ぎていって、今日まで、俺と真緒は自然に疎遠になっていた。


 しばらく見ないうちに随分と女らしくなっていた真緒の後ろ姿を眺めて無言で歩いて行くと川に行き当たり、そのまま川沿いを歩いた。夕焼けを映し込む静かな川の流れに沿ってしばらく歩いて行くと後ろ手に指を組んだ真緒が振り向いた。

「ああ、そう言えば花火大会って今日だったわね」

「そうだな。すっかり忘れてたよ。毎年港の方から打ち上げるんだよな」

 蛇行した川の先に見える小高い丘の上にはここからでも多くの人だかりが見えた。

 当たり前に傍にいた人がいない。

 それはなんだか不思議な虚しさで、部屋に一人でいる何気ない空白の時間にその事を俺に知らせては不安定にさせた。

「今からならぎりぎり間に合うんじゃないかしら。例の場所、行って見ない?」

 真緒の目はきらきらと輝いていた。黒い髪が風に揺れる。

「よし、行こう」

 兄貴に遠慮して、誘ってもいいものかどうか迷っていた俺は即答していた。そう言えばきっと真緒が笑ってくれると思ったから。

 近所の、毎年縁日の出ている場所に辿り着くと思ったよりも多くの人がいて浴衣を着た同い年くらいの女の子たちや親に連れられた小さな子どもたちでいつもの街はいつもよりずっと混雑していた。

「これじゃあ、あそこまで行くのも一苦労だな」

「甘いわよ」

 真緒はいったん露天の人だかりに入って何かを探していた。やがてお目当ての物を見つけるとそれを両手にぶら下げてずんずんと歩いていく。

「見てて」

 悪戯っぽく小さく囁くと手に持った水風船を見物客の中に投げ込んでしゃがみこむ。

「うわあーー」

「なんだ、誰だよこれ」

 きゃあきゃあと騒ぎ出した見物客の間を縫うようにすぐさま移動を始める真緒。

「あっ、ごめんなさい」

「通してもらっていいです?」

 猫のようにしなやかな動きで巧みに水風船を操りながらぬかりなく気弱な声を出している。謙虚なモーゼのように無理やり人ごみに割り込んで行って俺が遅れだすと手を引いて突き進んで行き、見事、あの懐かしい、ユウヤのマンションの前に着いた。

「ま、ざっとこんなもんね」

「無茶すんなよ」

 真緒は久々の冒険に頬を上気させながら綿菓子を食べている。それを分けてもらいながら何するではなしに時間を待っていると、屋上から見えるいつもの空の中で、太陽は見えない向こう側に沈もうとしていた。

「私ね、ビルの群れに太陽が消えて行くのを見るのが結構好きなんだ。夕日が沈むたびに鮮やかに染まるこの街が好き」

 そう言ってはにかんだ後に微笑んだ。

 けれどその目はすぐに伏せられて。

「でも、枯れかけた夏の終わりは、いつも寂しくなる。だから、善司に会いたくなるのかな」

 本当に寂しげな目だった。

 俺はいつの間にかこの距離に慣れてしまっていた。彼女が抱える物に気付こうともしないで。

 真緒は足元の人の流れを眺めながら屋上の自転車置き場に停めてあったマウンテンバイクのホイールに挟まっていた小さな石ころを取って、しばらく手の中で弄び、やがてそれを遠くに投げた。

 すぐに見えなくなった石ころから目を逸らして古びた鉄筋の柵の錆を指でなぞる。

「あの石はきっと長い時間をかけて少しずつ角が取れていくんだよね。そんな風に、変われたらいいのにな」

「変われるよ。真緒ならきっと」

 真緒が儚げに笑った。そんな顔するなよ。しないでくれ。

 もう訳も分からないまま真緒が傷ついて行くのを見守るしか出来ないなんてごめんだった。手を伸ばそうとすると真緒はぱっとこっちに振り向いた。

「善司は変わらないでいてね」

 そう言って俺の頬に素早く唇を当てるとすぐに離れてそのままエレベーターに向かって走り去っていく。長い黒髪を弾ませて振り返らない。

「真緒っ!」

 急にとどろく轟音と歓声で耳が遠くなる。その一瞬の間に真緒の姿は扉の向こう側に消え、追おうにもエレベーターはただ無情に階下に向かっていく。

「真緒っ」

 閉じた扉に寄りかかって見上げた空には綿菓子みたいな雲が浮かんでいてそこに大筒の花火が打ち上がっていた。

「ちくしょう…」

 小憎らしいほど見事な大輪の花が暮れ切らない夏の空に咲いていた。

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