今も隣りへいて欲しい君へ 9/11
俺は高校生になっていた。
新しい学校。新しい友だち。ユウヤたちとの別れ。そして、相変わらずサッカー漬けの日々。
そんな五月の、良く晴れた休日に、兄貴が珍しく俺を外の喫茶店に呼びつけてきた。
「お前はいつものカフェオレ?」
「うん。兄貴、よくそれ飲めるよね。それ飲み物って言うか罰ゲームだよ」
兄貴は店の隅に座っていて、エスプレッソを飲みながら前の席を俺に勧める。
「どうしたの? 喫茶使うなんて?」
「ん? まあな。家で話すと、きっと殴り合いになると思った」
「は? なんのこと?」
そう聞くと、カップをテーブルに置いた兄貴が、俺を見て、そして言った。
「真緒ちゃんと、付き合おうと思う」
「え」
真緒ちゃんと、付き合おうと思う。外国語みたいに、音は聞こえてるのに、意味が分からなかった。
「真緒と」
「そう。真緒ちゃんと付き合う」
「付き合うって?」俺は間抜けな質問を返す。
「そういう意味。ちなみに彼女、オッケーしてくれたから。知ってるよな、今あの子、フリースクール通ってるの」
知っていた。あれだけ成績の良かった真緒が、不登校の子なんかが通うフリースクールに入った事。
「なんで?」俺は聞く。
「放っておけなかったから」
当たり前の事のように、兄貴が返事を返す。
「それは、つまり、真緒が好きってこと?」
「そうなるな」
「………」
「ちゃんと付き合う前に、お前に話そうと思って。そしてもう一つ」
「な、なに」
「真緒と、ちゃんと話せ。真緒はきっと、まだお前が好きだ。お前らがうまくいくなら、僕はそれでいい。だから、ちゃんと話せ」
「………」
意味は、分かる。そして、ちゃんと話さなきゃいけない事も。
でも俺の頭の中は今、兄貴が真緒のことを呼び捨てにしたことで一杯だった。
「話すよ。話すけど、なんで兄貴は真緒と付き合おうと思ったの?」
「言っただろう。放っておけなかったから」
「じゃあ、なんで放っておけなかったの?」
「好きだから」
「なんで?」
「理由が聞きたいのか?」
「そ、そうじゃないけど…」
そう答えると、兄貴はカップを皿において伏し目がちになる。
「お前と真緒。幼馴染みだよな。年は違うけど、俺も真緒のことは子どもの頃から知ってる。あの子の気持ちも、ずっと前から知ってた。でもお前は、ずっと、真緒のこと女として見てなかったよな。僕には、あの子の胸の苦しみが分かる。お前と付き合うよりも、楽にしてやれる気がしてる。真緒は、呆れるくらいに、心が綺麗だ。生まれたての赤ん坊みたいに。幼馴染みっていうお前の存在が今、あの子を苦しめている。幸せにしてやれるならそれでいい。でも、そうじゃないなら。いい加減、あの子を束縛するのはやめてくれ。精神的な意味でな」
「兄貴」
「なんだ?」
「俺にはよく分からない。でも話すよ。だから待ってて」
「そうか。三日待つから」
「分かった」
その足で、真緒の家に向かった。
大きな門構えの、立派な和洋折衷の一戸建て。家からは、歩いて三分の距離だ。チャイムを鳴らす。
「はーい?」
ゆっちゃんの声が聞こえる。
「善司です。真緒いる?」
「ゼンちゃん? ちょっと待ってて」
玄関先に、ゆっちゃんが出てくる。少し、痩せたのかな。疲労というか、そういうなんかが顔に出ている。
「真緒のことでしょ? 本当にありがとうね、ゼンちゃん。上がって。あの子の様子見てくるからゼンちゃんはリビングで待ってて」
「真緒、調子はどうなんですか?」
「よくないわね。詳しい話は、真緒と話した後に、おばさんから話すわ。さあ、上がって」
ゆっちゃんは駆け足で二階に上がり、俺は一階のリビングへ。
ゆっちゃんと、真緒。そして真緒のお父さん。
何がどうなっているのか分からないけど、西門家は今、大変なんだろうな。
通されたリビングは、前よりも少し、雑多なかんじがする。
その時、ゆっちゃんの声が二階から響いてきた。
「真緒の部屋に来て。話しておいたから二人で話してて。おばさんはリビングにいるから」
階段でゆっちゃんとすれ違って、目で頷き合う。
真緒の部屋の扉は閉まっていて、俺は拳でノックする。
「真緒、入るぞ」
返事を待たずに、扉を開ける。
目を向けると、ベッドの上に、膝を折って座る真緒の姿が見えた。
「善司」
「寝てたのか? 体調どうだ?」
「ん。寝てたけど、調子悪くないよ」
「そっか。あのさ、聞いたよ。兄貴とのこと」
そう言うと、真緒は表情を変えて、傷付いた野生動物みたいに、俺に警戒の目を向ける。
「俺は、はっきり言うな。すげー自己中なこと言うな。真緒とはきっと、付き合えない。でも、真緒が誰かのカノジョになるのも嫌だ。だから、だけど、兄貴ならいいかなって思ってる。でも、ほんとはやだよ。やだけど、俺と兄貴、俺と真緒、真緒と兄貴の関係。それぞれに強い絆だって思ってる。真緒は、どう思ってるの?」
そう聞くと、真緒は布団を唇に当てて、ちらっと俺を見上げた。
「私が春斗くんと付き合うのは、ゼンジのお兄ちゃんだからだよ」
「お前なぁ!」
真緒が天井を見る。
「ウソだよ」
俺は怒鳴りそうな声を押し殺した。だって天井を見る真緒の顔が泣いていたから。
サヤカと過ごした時間が重くのしかかってくる。幸せを幸せと思う間もないほど楽しかったあの時に、こいつは一人で、仲良くする俺たちをずっと見ていたんだ。今、真緒は兄貴と付き合おうとしてて、俺はそんな真緒を見ていたくなくて、逃げ出したくなっている。
真緒はそれにずっと耐えていた。俺は気にもかけずに当たり前の事だと思ってた。
本当はこんなにも、心が砕けてしまうくらい寂しくなるのに。
真緒は布団で涙をぬぐい、その潤んではれぼったい目で、こう言った。
「幼馴染みとしてだけど。好き合ってるって、気持ちが伝わるって、嬉しかったけど、でも私は善司にもっと分かりやすく伝えて欲しかった。私は臆病な弱い女だったから、約束や決まり事がない事が不安だった。だから善司を結果的に裏切ってしまったのは、今でも胸に刺さってる。でもね、後悔はしてないよ。そのおかげで私は春斗くんの言葉に素直になれたし、ただ待っている痛いくらいの不安から解放された。私の誕生日までに善司が告白してくれなかったら春斗くんと付き合おうって決めてたの。善司の事は好きだったわよ、もちろん。でも違う角度で、違った表情で、春斗くんは私を待っていてくれた。待つ辛さを知っていたから、私は春斗くんを選んだ。それが、答えなんだよ」
その目は、うつろだった。
理にかなっていることを言っているはずなのに、それを言う真緒は空っぽなんだってなんとなく思った。
「それがお前の答えなら、それでいい。でも真緒。話せ。今お前、どうなってるんだ? 聞かなかったけど、今まで聞かなかったけど、もう遠慮しないからな。話せ。話してくれ、俺に」
「病気なの、私」
「え?」
「心の、病気。声がね、なんか声がね、頭の中で聞こえるの。怖いよね? でもほんとなの。もう善司が知ってる私じゃないの。薬に頼らないと自分の感情もコントロールできないなんて、悲しいよ。でもそれが、今の私。善司の知っている私は、もういないんだよ」
殴られたみたいに、意識が飛んだ。
分からないなりに、分かろうとした。
でも今は、何に涙を流せばいいのか分からない。でも泣きたい気分。
だけどそんな情けない俺、俺じゃないよな。
真緒が好きだった俺はきっと、そんなに弱いやつじゃない!
「真緒」
「なに?」
「好きだ」
目を見開いた真緒をベッドに押し倒して狂おしいほどキスをした。放心したようにゆっくりと閉じられていった瞳とは裏腹に真緒の腕にはどんどんと力が込められていく。
背中に爪が食い込んでも痛みは感じなかった。何も考えられない、ただ落ちていくように。
柔らかな唇が俺を求めるたびに俺もそれに応えた。
とくん、とくん、とくん。
緩やかな鼓動。包まれた腕の中で真緒の心音は心地良かった。未熟児だった俺はおふくろのお腹の中でこの音を聞いていた事を今でも憶えていた。同じように一定のリズムで脈打つ力強い音。少しずつ落ち着きを取り戻して行くにつれ言いようのない安心感が俺の心を埋める。
「本当はダメだったな。でも、お前って言う、何よりも大切な存在が、傍から離れてくって考えたら止まんなかった。最低だったな」
「そんな事ないわ」
「真緒」
「本当よ。私は善司がどんなに私の事が好きか知ってるもの、昔からずっと」
視界の隅に暗くなった公園で俺の練習をじっと見つめていた幼い頃の真緒の横顔が見えた気がした。俺は彼女が傍にいたからどんなに辛い日も練習を休みたくはなかった。
出来なかったシュートが出来た時、吹かしたボールが倉庫の屋根に落ちた時、いつも一緒に笑って悔しがって喜んでくれた。同じように、励まし続けてくれた。
真緒、君がいれば、俺は独りじゃなくなる。
「善司」
「ん?」
「バイバイ、でも、傍に居て」
なんて、なんて悲しい言葉なんだろう。
俺と真緒の「毎日」は、その日終わった。
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