今も隣りへいて欲しい君へ 8/11
真緒が追いかけてくる夢を見た。怖いくらい真剣な表情で。
俺は逃げながら、なんで逃げてるんだろうって考えている。なんでだ、なんでだって思いながら、息は苦しくて、足はもつれて、倒れ込んだ俺に真緒はむしゃぶりついてくる。
そこは暗い浜辺で、うっすら見える波打ち際には流木なんかがあった。
そこで、砂まみれになりながら、何度も、何度も、真緒を殴った。
顔を殴って、腹を殴って、手の関節を逆に折って、無茶苦茶にしてやりたいって思っていた。けれど身体は思うように動かなくて当たり損ないみたいな拳の感触が余計に俺をイライラとさせる。俺はすごく狂暴になっていて、真緒だけじゃ飽き足らず、胸の大きなグラビアアイドルの腰を掴んで目一杯に腰を振る。
射精して、砂浜で泣いている俺の背をサヤカが抱きしめて、目が覚めた。
「善司、大丈夫か」
目を空けると霞む視界に兄貴の輪郭が浮かんでいる。どこだ、ここ。俺んちのベッドか。
「どうした、うなされてたぞ」
「ああ、うん」
俺が起き上がったのを見て兄貴はベッドの端から立ち上がる。俺は体を起こしたままの態勢で一つ大きく息を吐いた。
「兄貴。あのさ、今日さ、サヤカと別れたんだ。それで何かさっきまで悪夢見てて。起こしてくれて助かったよ」
「そうか」
そう言うと兄貴は俺の勉強机からトレイを持ってくる。
「とりあえず何か食べな。腹減ってるとろくな事考えないぞ」
「ありがと」
「なんなら温めてきてやろうか」
「いいよ」
「お前が夕食も食べないなんて何かおかしいとは思ってたんだ。明日母さんにもお礼言っておきな」
「だね」
冷めた味噌汁を飲み干すと、かえって食欲が沸くのを感じた。おにぎりにしてくれた五目ご飯がいつもより何倍もおいしくてまた涙が浮かびそうになる。
「今何時?」
「そろそろ三時だな」
「兄貴、毎日こんな時間まで勉強してるの?」
「いや、そろそろ試験だから。無理して話しかけるな。黙って食べろ」
おいしい。おいしい。
それだけで泣けてくる。我慢していた筈なのに、一度涙が零れるともう止めどもなくて、浮かびそうになるサヤカの笑顔を振り払うように食べ物を口に入れる。
そんな俺の姿を兄貴は見つめ、「しっかり食べて、今度はぐっすり寝ろよ」と言った。
次の日、放課後の屋上に三人を招集した。こういうのは後回しにしちゃダメだ。きっと俺と真緒の関係も変わる。サヤカとユウヤの関係も変わる。
だけど逃げない。
それがサヤカとの別れで経験した俺の覚悟だった。幸い、昼になると強い自分が戻っているのを感じた。太陽が活力を運んでくれたんだろうか。
屋上に最初にいたのがユウヤで、足元には酒の入ったスポーツバッグが置いてあった。
「あれだな、お前の話しってのが何なんだか分かり過ぎて笑えるな」
「うっせ」
「なんだよ、その目の下のクマ」
「うっせ。あのさ、お前まだサヤカの事好きか?」
「悩むところだよな。あいつは絶対しばらくお前の事引きずるだろうし。裕也さんは勝ち目のない勝負はしないんだよ」
「そうじゃなくて好きなのかどうかって聞いてるの」
「好きは好きだよ。でもどこからが好きで、どこからが仲間なのかは俺には分からない。それに俺にも沙耶香にも平等に時間が経ったんだよ。お前は勘違いしてるけど、好きでもない子とは付き合えないって。今のカノジョの事、ちゃんと好きだよ。お前と沙耶香を見て、色々考えて、それで気付いたんだけどな」
笑ったユウヤの顔は、俺の知らないユウヤだった。時間は過ぎていくんだって、そう思った。
「西門と付き合うのか」
「考えてねーよ。第一、別れたから真緒にって、なんかズルくない?」
「お前なあ。そんな律義さ、ただの自己満足だぞ」
「結構厳しいね」
「お前には昔色々言われたからな」
ユウヤはタバコに火をつけて、そこで何となく会話が途切れる。
タバコの匂い。通り過ぎる時間。セミの声。最後の夏。
俺たち、もう中三なんだよなぁ。
高校は未知の世界で、今ある物を、永遠に抱きしめていたい。
ユウヤとは高校になったら離れるんだろう。成績は俺の方が良いし、何だろう、勉強なんてただの義務なのに。寂しいけど、それはもう半年後の話しなんだ。
「バレー部はどう? 今年、結構強いんだろ?」
「ああ、背の高いやつが揃ってな。まあ俺より上手いやつはいないけど」
「お前タケノコみたいに背、伸びたしな。俺、追い越されちゃったな」
「いつまでも関羽でいられると思うなよ」
「劉備は遠い空の彼方だしな」
二人して空を眺めていると二人分の足音が聞こえてきた。
「おっ、来たな、姫君が」
「どっちが姫君なんだ?」
「両方」
「お前、少し変わったな」
現れた真緒とサヤカを見て、思わず二度見してしまった。サヤカの頬が赤く腫れている。真緒がぶったのか、の割には二人ともすっきりした顔してるし。
「よし、揃ったな。じゃあ早速発表といきますかな」
「もうみんな知ってるみたいだけどね」
「うっせ。ほっぺリンゴみたいなくせして」
「うるさい。そんな訳で私とゼンちゃん別れたから」
「あっさり言うな!」
「すげーな。開始五秒で要件すんだぞ」ユウヤが茶々を入れる。
「善司、案外平気そうだね」真緒が指で髪を梳く。
「まあな。昨日一年分くらい泣いたし。おかげで喉がまだ痛えーよ」
「そんな時はお酒で乾杯でしょう?」
ああ、ほんと、昨日あれだけ泣いたのがウソみたいだ。笑顔のサヤカを見ていると、昨日の、あの綺麗な泣き顔をしたこいつが思い出される。
でも、ちゃんと笑ってるな。
昨日の今日で、まだ一人になると胸が苦しいけど、それでも俺たち、ちゃんと笑えてる。
コウジ、アン。俺たち別れちゃったけど、まだ仲間やれてるよ。だから安心して帰ってこい。いつでも、いつまででも、俺たちここに居るから。
「えへへ」
「どうした」
「ううん。ゼンちゃんの顔見たらどうなるかなって思ってたけど、大丈夫だった」
「昨日『またいつか』なんて言ったけど、あっという間にいつかが来ちゃったな」
「いいじゃん」
「そうだな」
一瞬間が空くと、サヤカは胸ポケットに手を入れる。
「これ、返すね」
「ああ、指輪ね」
「うん。もう持ってちゃいけないから」
「返してもらってもしょうがないんだけどな。じゃあこれサヤカの手で捨ててよ」
「それができないから返してるんでしょ」
「ああ、もう、女ってマジでウッゼー。ゼンジさんキレそうですからねっ!」
「情緒不安定かっ!」
「冗談だよ。んじゃ、はい」
はい、と差し出した手に、サヤカがはい、と指輪を乗せる。
どうしよう、何かボケなくては。
「真緒ー、これ七百円で買って」
「え、いいよ」
「売買すんなっ! ってゆーか真緒ちゃんもあっさりだし」
「伊勢くん、これ千五百円で買って」
「え、いいよ」
「転売すんなっ!」
しばらくやいやい騒いだ後、改めて返ってきた指輪を見て思う。これが、思えばあの時から俺たちを結んでいたんだな。終わったことが、また一つ、確かになる。
そう言えば、指輪はともかくチョーカーはどうしたんだろう。制服なら見えないと思って贈ったけど、夏服だとばっちり見えちゃうからいつも指輪と一緒にポケットに入れていたあれは。
まだ持ってんのかな? そう思うのは、未練がましい男心のせいかな。
「サヤカはさー、ユウヤと付き合う気あるの」
「ない。一生ない」
「フラれてやんの」
「ゼンジ、分かってないな。これは照れてるんだぞ」
「イケメンってすげー」
「もう、ほんと二人ともおバカ過ぎ」
なんだろう。もちろんサヤカと別れた事は痛いけど、それ以上になんかこう、すげー久しぶりに何のわだかまりもなく仲間してるって感覚がある。
傷が癒えたら、今以上に、笑って話せる気がする。
時が経ったら、今以上に、この温もりを守っていける。
空の太陽は眩しくて、かっこつけてるなって思いながら目の前に手をかざした。
「ジャンケンポン」
「あいこでしょ」
教室のあちこちでジャンケンのかけ声やら話し合いをしているのを眺めながらユウヤと二人でダベる。
「しかし、三人一組でグループになりなさいって、学校の悪しき風習だよね」
「だな。それで、たいてい一人は隅っこの方で本読んでるんだよな」
「あるある」
夏休みが終わって二学期に入るとすぐに修学旅行がある。行先は田舎ものらしく首都、東京だ。今は同性で三人のグループを作っていて、それが決まると異性のグループと合体して六人一組になる。まあまあ仲の良いサッカー部の友だちのところが四人組で、じゃんけんに負けた一人がこっちに来る事になっていた。
「女は真緒んとこのグループでいいよな」
「ああ、他にないだろ。中学最後っていうんで、淡い期待を抱いてる女の目が怖いからな。その点、西門の友だちならまだ安心だろ」
しばらく待っていると、「ああ、負けたあ」と二宮が叫んでこっちにくる。
「澤井、伊勢、俺になった。悪いけどよろしくな」
「二宮なら大歓迎。なっ、ユウヤ」
「ああ、お前は八番目くらいに面白いぞ」
「全っ然うれしくねー」
こいつはぶっちゃけそんなに面白くないが、ノリが良いのがいいとこだ。コウジなき今バスケ部のキャプテンで、見た目だってそんな悪くないのに、いつもガンダムの話しをしてるとこが残念なんだが。
男子はあらかた別れて、まだ駆け引きをしてる女子の中に、真緒が見当たらない事に気がついた。
「二宮、真緒がいない。お前に探索の栄誉を与えるっ!」
「ジーク・ジオン!」
「すげえバカだな。感心するわ」
二宮はいつも真緒と一緒にいる日向さんとエミの方に行って声をかける。
ただ単に命令したかっただけの俺は彼の後に続いて二人に話しかける。
「なあ、お前ら真緒と同じ班だよな。あいつどこ行ったか知らない?」
「うん。班決まってから体調悪くなっちゃって保健室行ったよ」日向さんが答える。
「体調? あいつ最近たまにあるよな」
「マオ、重くて大変なんだよ」エミがなぜか得意そうに言ってくる。
「何が?」俺は空っとぼけて質問する。
「ねえ、何が何が?」二宮もノッてくる。
「やっぱ男子って最低」
「まあいいや。班、俺たちと一緒でいいよな」
「うん、私たちは別に。マオちゃんも絶対オーケーだよね」
「おし、決まりだな。俺報告がてら真緒の様子見てくるわ。何が重いのかよく分かんないし」
「もうやめなさいよ」
保健室の扉を開けると保険の先生がいない事が分かった。カーテンに仕切られたベッドの奥に声をかける。
「真緒?」
一瞬の間が空いて、「善司? はーい、どうぞ」と真緒の声が聞こえる。俺はイスを持ってきて、カーテンを開けるとベッドサイドに座った。見ると不思議にいききした顔の真緒が笑顔で俺を迎える。
「どしたの?」
「いや、修学旅行の班決めしてたらお前いない事に気づいて。体調大丈夫か」
「平気。ちょっとお腹痛いだけ」
「そっか。あ、でさ、旅行俺たち同じ班になったから」
「よっしゃよっしゃ」
「無理すんな、腹痛いんだろ」
「ううん、ウソ。実は仮病」
「なんだ、そうだったのかよ。心配して損した」
「心配してくれたの?」
「まあな」
「じゃあ、もう大丈夫」
「あん? やっぱどっか悪いのか?」
そう聞くと、真緒は花が咲いたみたいにぱっと笑って首を振る。なんか、らしくないくらい笑顔だな。「気にしないで」そう言った後、真緒はふっと宙を見上げてから俺の顔を見て言葉を続ける。
「もしも、いつか私たちが離れ離れになって、長い時間が経ってもいつか、私が困っていたら、今みたいに駆けつけてくれる?」
真緒の顔はやっぱりいきいきとしていて、血色の良い頬は微かに赤く染まっている。
「なんだよ急に」
俺がそう言うと、真緒はその言葉には答えずにまた一瞬視線を宙に走らせてベッドの上で身を起こしたまま顔の前で指を組んだ。
「重力ってあるよね。引っ張り合う力の」
「ああ、アインシュタインだろ」
「ニュートンだバカたれ。まあいいや。その重力なんだけど、私の言いたいのはそれに似ててね」
「うん」
頷くと、真緒は時間をかけて言葉を紡いでいく。言うことに詰まると沈黙して、また話し出して、幾度も中断しながら、こんな話をしてきた。
「重いものは惹き合うんだよ。事柄も、共感も、想いも。それは単純にネガティブさの重みでも重要さの重みでもなくて。なんだろう。とにかく。物質だけじゃなくて、全てのものには、つまり気持ちにも、惹き合う力があるの。両想いになるとか、魅力がある人には自然と惹かれる、みたいな。考えてみたら、これって不思議でしょ? 私たちは世界に漂う何かの塊で、私を作る身体も環境も縁も思考も、何もかも、誰かが決めたのかそういうものなのか、重さが決まってるの。でもね、重いから良い訳でもなくて。軽ければ、いつか宙を舞える。その軽さが、逆に今周りにない何かへと近づく力にもなる。そこで出会う、釣り合う重さに会わせてくれる。念じれば通ず、って言葉あるよね。もちろん必ず叶う訳もないけど、失敗しても、その過程が必ず別の何かを産むんだよ。少なくとも、どこかに向かう推進力になるっていうか。何か何かって言ってばっかだけど、まだ言葉にない、新しくて、でも昔からあって、全ての秤になるような、そんな、全てをはかる重さの定規があるの。私は『
最後だけ冗談っぽく笑顔をみせて、真緒は言葉を切った。
「なんか、お前がこんな真面目に語ってくれてるのに申し訳ないけど、俺には良く分からない。でも、なんか、分かりたい気がする」
「うん。いいよ。でも真面目な話しだよ。近い将来、私、絶対どうしようもなくなる時がきっと来る。だから、もしそうだったら、善司が来てくれるって分かっているなら、私きっと、大丈夫だから」
「よくわかんねーけど、分かった。お前頑固だし、悩み無理に聞くのも違うしな」
「約束、だねっ!」
「なんか無駄に元気だな」
「…………、とれないの」
「えっ?」
真緒の声は小さくて聞き取れなかった。
「ううん。旅行、楽しもうね」
「そうだな」
前から薄々だけど、こいつが悩んでるって知っていた。でも何にかは分からない。俺とサヤカの事かとも思っていたけど違うみたいだし。でも、中学生の深刻な悩みってなんだ? せいぜい恋とか親や友だちと上手くいかないとかぐらいだろ。
前みたいに、何でも話せる訳じゃない。
俺たちはだんだん、大人になっていく。
そうこうしているうちに、あっという間に時は過ぎていった。
部活は最後の大会が終わって引退し、夏休みは毎日勉強しっぱなしで、最後の夏を女の子と過ごせたらなーなんて思いながら塾に通った。
そうなんだよな、女の子とってなるんだ。
サヤカの事は少しずつ遠くなっていて、でもじゃあ真緒と付き合うかって言ったらそれもまた違う気がする。
そう考えると昔から真緒の事は「女の子」に入ってなかった気がする。
魅力があるとかないとかじゃなくて、それよりも大切だから、カノジョってくくりは違うのかなとか。
幼馴染みって関係のどこが悪いんだよって思う。
思いながら、何も変わらないまま、夏休みが終わった。
秋っていうにはクソ暑い都会の炎天下の中、俺たちは旅行計画なんて守る訳もなくて、最初の博物館だけ行ってブックオフで立ち読みをした後、たこ焼きを食っていた。
「次は池袋の、なんだっけ? サンライズ?」
「サンシャインシティー。ビルの中のテーマパークみたいな」
「へえー。さすが都会はやる事が違うよな。ほんでほんで?」
俺たちは「裏計画書」を見ながら作戦を練る。とにかく地下鉄がすげー。JRや都バスもそうだけど交通網が半端ない。
「いやー、それで最後はディズニーランド? 田舎者の見本みたいだな」
「なあ、」
「ん?」
ユウヤが俺の瞳を見つめ、肩に手を置く。
「西門のこと、かんがえてるんだろ? ムリするな。明るさだけがお前じゃないって分かってるから」
「………」
そう。真緒はこの修学旅行に参加しなかった。
風邪をひいて休んだと、先生は言っていた。
そんな訳ない。あの日、真緒が語った言葉。あれは、何かのメッセージだったと思う。
二学期が始まってから、真緒は学校に来なくなった。
理由は分からない。
確実だと言われていた高校の推薦入学も取り消しになった。
家に会いに行っても、いつも通りの真緒で、それでも、なぜ突然学校に来なくなったのかは俺にも語らなかった。
そしてそれは、俺たちが卒業するまで、三年の終わりまで、ずっと続いた。
真緒。
西門真緒。
俺の大切な、幼馴染みの名前。
中学の卒業式で、受け取り手のない卒業証書の名前が呼ばれて、俺は代わりに、彼女の卒業証書を受け取った。
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