今も隣りへいて欲しい君へ 7/11


 いつもそうなんだ。

 大切なものはそこにあると当たり前になってしまって、未来でどんなに手を伸ばしても、独りよがりな溜息を窓の外に吐き出しても、どんなに思い出したって、変えられない過去は、いつだって、遠くて、固い。


 夏の始まりはいつも、湧き上がる気持ちと、津波みたいな季節の感情を俺に打ち寄せてくる。

 中学生の、あの最後の夏。

 そこにいる時にはきっと気付かない、終わりゆく永遠の季節。

 毎年来る目の前のただの夏は、その年の俺にとっては、サヤカを失った、苦くて切なくてやりきれない、十四の夏だった。


 その日は朝から快晴で、これでもかってくらいとびきり暑い、テスト前の微妙な緊張が伝染しそうな、なんだかうんざりするような朝だった。

 三年になって中学で初めて真緒と同じクラスになって以来、俺たちは毎日、一緒に登校していた。あの、春の初めの、絵の具の匂いのする抱擁をお互いに忘れたような顔をしながら、「おはよう」が、「遅せーよ」が、どこか他人のような気がしていても。

 三年になってからの日課は、真緒と登校して、下駄箱に着くとそこで別れてサヤカを待つことだった。

 ぞろぞろと生徒が通っていく下駄箱の脇の階段に腰かけながら、顔見知りに挨拶して、たまに事情を知っている友だちに冷やかされて、彼女を待つ。

 テスト前だという事もあって、教科書を開きながらちらちらと奥に見える校門を眺めていると、そこに小さくサヤカの姿が見えた。俺を見つけて小走りに駆けてくる彼女を見て、教科書をしまい立ち上がる。

「よっ。あのさ、昨日の夜の…」

「ごめん、ゼンちゃん。今日ちょっと急ぎ」

「なに、ルパンでもいた?」

「んな訳あるか。一限目、小テストなの」

「えー、テレビの話したいのに」

「お昼に屋上で。ごめんね」

 走り去るサヤカの後姿を目で追いかけて思う。俺を見て走ってきたんじゃなくて小テストなのかよ。せっかくサヤカのためにとっておいたネタだったのに、しょうがない、もう真緒とユウヤに話しちゃおう。クラスが同じってこういう時楽ちんなんだよな。でもユウヤのやつはまた遅刻か欠席かもしれん。あいつは俺と違ってもはや本物のセックスエリートだから、休んだ日は親のいない自宅のマンションでお楽しみらしい。

 開襟のカッターシャツと半袖のセーラー服で賑わう廊下を通り抜けて、「おはよー」って大声で挨拶しながら教室の扉をくぐった。


「ゼンちゃん。肩揉んで」

「はいな」

「ゼンちゃん。お金貸して」

「マジっすか」

「ゼンちゃん。なんで怒ってるのか、わかるよね」

「いやー、ほんともう勘弁してくださいよお」

 原因は、屋上でディープキスを強要したから。どうやら俺とサヤカのバイオリズムには差があって、俺はしょっちゅうでもしたいのに、サヤカは体が欲していて、なおかつ気持ちが盛り上がらないとそういう行為に及んでくれない。

 まあ何はともあれそんな訳で、この様である。

 空気は笑えるくらい超暑くて火照った体を脱いで着替えたい気分。前に聞いたことがある。夏になると人間は暑さで性欲が旺盛になるって。でも別の話しでは人って冬も人肌恋しくなって、結局恋人が欲しくなるものらしい。いやー、人間って愚かで素晴らしい。

 アホな事を考えているとサヤカが口を開く。

「ゼンちゃん?」

「ん?」

「早退して、遊びに行こう?」

 サヤカはこう見えて、結構敏感だ。俺たちに少しでも揺らぎがあるとすぐに察して、こうやって誘ってくれる。適当な俺が長いこと彼女と付き合ってこられたのは半分以上、こういう彼女の側面に助けられているからだった。


 繁華街の雑貨ショップ。いつもの場所。いつもの匂い。

 甘ったるい香りのする店内で、サヤカはペンギンが描かれているピンクとグリーンのスライド式のライターを手に取って、うむむ、といった表情をする。

「どうしよう、これ可愛いな」

「それ気に入ったの」

「んー、でもあっちもな」

「どっちなんだよ」

 げんなりしながらいつかのユウヤの言葉を思い出す。

「男の甲斐性かあ」

「えっ、なに?」

「んにゃ、なんにも」

 小さな店の中をくるくると移動しまくる彼女にくっついて歩くのもいい加減だるくなって、店の中央くらいで立ち止まり、商品を見ながら同意を求めてくる彼女に話しかける。

「あのさー、サヤカは他に行きたかったりやりたかったりする事ってないの?」

「ん? あるよ。ゲーセンでクレーンとプリクラでしょ、服屋でしょ、夏だから水族館にプール、それにお茶もしたいし、あとは…」

「ね、そうだよね。いやさ、ほら、言いにくいんだけどこの店、もう百回くらい来てるよね? いい加減飽きないの?」

「じゃあゼンちゃんは何がしたいのよ」

「そうだなあ。じゃあテスト近いしどっかで勉強とか」

「うーん、普通すぎてびっくりだけどまあいいよ」

「おっしゃ。さあ行こう行こう。こんな店二度と来るか」

「コラコラ」


 マックで勉強をしていて、ポテトばっかり食べていたから正直お腹が重い。

 けれど学校を出た時間が早かったから、結構机に向かっていた筈なのに外の景色はまだ明るくて、西の空は鮮やかな紅で俺たちを迎える。俺たちはサヤカの家の方に向かいながら、住宅街の中を歩いていく。

「ねえ、お昼に私が怒ってた理由、わかってる?」

 黒目の濃い、見つめられるといまだにドキッとする眼差しで、彼女がぎゅっと指を握ってくる。夕暮れはずるい。愛しさが勝手に溢れてきて、ひとまたぎの夜が待ちきれなくて、明日がいじわるに顔を背ける。そんな空気の中で俺は当たり前のように感情を分け合いたくて、でもサヤカの気持ちは、俺とは違った。

「ねえ、私たち四人の中で、私だけ違うクラスで、真緒ちゃんみたいにいつもは話せない辛さ、わかる? 小学校の頃、私たちが仲良くなれたのは同じクラスだったからだよ。どんなに相性が良くっても、違うクラスだったら、全然今みたいになれてない。クラスが違うってそれくらい大きいんだよ。私たち絶対じゃないんだよ。私が伊勢と付き合ったままの未来も、ゼンちゃんが真緒ちゃんと一緒にいる未来も、同じくらい有り得るんだよ? わかってる? ホントに考えてる? たくさんエッチしたよね? 気持ちよかったよね? でもゼンちゃんが、真緒ちゃんとしてたかもしれないっていうもう一つの未来を考えると、想像だけで苦しいよ、滅茶苦茶に、どうしようもないくらい、嫌だ」

「………」

 急にどうしたんだろう。いきなり感情を高ぶらせだしたサヤカの言葉に俺は何を言っていいのか分からなくて、黙ったままの俺を見てサヤカは余計に苛立ったように言葉を吐き出す。

「わからないと思った? 見てないと思った? バレバレだよ。ゼンちゃんの目、真緒ちゃんに笑いかける目、変わってるよ。三年になってから変わった。すごく気持ちがこもってるの見ればわかるんだよっ! どれだけ一緒にいると思ってるの、ゼンちゃんの事なんて何でもわかるに決まってるでしょ!」

 たたみかけられて、でも上手い言葉が出てこなくて、「違うって」ってバカみたいに言っている自分を遠くから見ているような気がする。

 サヤカは瞳の下側にうっすらと涙を溜めて俺を睨んでいる。息も上がり気味で夕焼け色の中でさえ顔が上気しているのが分かった。

「あのさ、そう言うけど、だったらこんだけ一緒にいて何で俺の気持ちは伝わらないの? さっきまで俺、サヤカが愛しかったんだよ。それが急にまた真緒の話しになってさ。言いたかないけど、お前と真緒の話しになるといつもケンカになるから、正直そういう事言って欲しくないんだよね」

「じゃあ、じゃあ、こんな気持ちにさせないでよ…」

 サヤカの声が尻すぼみになって消える。けれど俺にはサヤカの不安がよく分からなかった。俺、そんな目で真緒を見てたか? 真緒とするって、想像の話しだろ? この話題になるといつも思う。サヤカは「こんな気持ち」って言うけれど、俺にはケンカをしてる二人っていう「恋人らしさ」みたいなものに少し酔っているようにしか見えなかった。

 正直、無駄なケンカなんてしたくない。昔からこんな風になると後で嫌な気持ちになるのが目に見えていたから、出来るだけ争わないように生きてきたのに。

 だから俺はいつものように冗談で場を収めようとする。

「カントリーマームあげるからそんなにキレるなよ。美人が台無しだぞ」

 そう言った瞬間、サヤカはかっとした顔で繋いでいた手を振り払い、いきなり拳で俺の胸を殴った。

「つまんないんだよ! バカにしないでよ! お前マジ、なんなんだよっ!」

 拳で叩かれたのなんて初めてだった、こんなに激昂するサヤカなんて見た事がなかった。殴られたっていうショックで頭が回らなくて、混乱する意識で俯くサヤカを見つめる。

 サヤカはもう気持ちを収まる場所がないようだった。黙って目を伏せていても、きっと頭の中は言葉で溢れていて、ほんの少しの火種でいつでも爆発しそうだった。

 あの柔らかな唇が震えている。

 涙が頬を流れる。

 頭の芯は、きっと気持ちと痛みで満ちている。

 サヤカに触れていいのか躊躇うのなんて、いつ以来だ? 泣いているサヤカに、今は声をかけちゃいけないと思った。何をしても、何を言っても火に油を注いでしまう。

 お互いに視線を合わせず、下を向いたままの時間が過ぎていく。

 殴られた胸の骨がじんじんと痺れているのを感じる。

「お前」って言われた驚きが胸の中で木霊している。

 どれくらい時間が経ったのか分からなくなってきて、頭の隅っこは「なんで嫌な気持ちのまま向かい合ってるんだろう」って囁く。

「ゼンちゃんを、嫌いになりそうだよ」

 いつの間にか泣き顔のサヤカがそう呟いていて、胸の中でしばらく反芻してやっとセリフの意味に気付く。

「冗談を言うゼンちゃん嫌い。こんな時なのにってケンカするたび思ってた。真緒ちゃんといるゼンちゃん嫌い。一番ゼンちゃんらしいから。気付きもしないで、一番ゼンちゃんらしいから」

 そして多分、今日一番、言ってはいけない事を、口にする。


 私、真緒ちゃんが嫌い…


 悲しかった。まるで仲間が、恋に汚されたみたいで。

 変わってく、変わってく。

 あの六人の関係が、変わっていくのを感じた。

「ダメだね。どうかしてるね。もう、限界なのかな」

 もしかしたらって思いが胸をよぎる。ひやっと、冷たい手が胸の真ん中と背中に当てられたような、嫌な予感がした。

「サヤカ」

「最近ね、ずっとこんな気持ちだった。なんか違うよなって思ってた。それでね、もう、疲れちゃったな。だから、言うよ。これから何言うか、わかるよね」

「わかんない! 全然わかんねーよ!」焦りで額に汗が浮いているのを感じながら、涙を浮かべているのに、憑き物が落ちたみたいに綺麗に笑うサヤカに声を荒げる。

「長く一緒に居過ぎたね。お互いの事、近すぎて見えなくなっちゃったのかな」

「やめろっ! やめろって! 悪かった、だからやめろ!」

「でも、楽しかったね。あったかくて、ふわふわとぽかぽかの思い出、いっぱいあるね」

「大好きだっ! だからどこにも行くなっ!」

 大声でそう叫ぶと、サヤカは小さく笑って首を振った。

 こんな事ってあるのか。こんなに唐突に、終わりってくるのか。

 ウソみたいにまるで現実感がない。だけど目の前のサヤカは確かにそこにいて、今聞いている言葉は彼女が言った言葉なんだって、認めざるを得ない。

 サヤカはもう心を決めているように見えた。真っ直ぐに俺を見る目には美しく強い光が宿っている。いつでも胸が高鳴るあの強いまなざし。

 見つめられていると吸い込まれそうだった。

 そして、唐突にその声が頭の中で聞こえた。

『ふーん、下の名前、ぜんじくんって言うんだ』

『ゼンちゃん、シャープペンの芯貸して』

『ゼンちゃん、ドッチボールいこっ!』

 いつも、頻繁に、俺の名前を呼ぶ彼女に、俺はいつの間にか恋をしていた。繰り返される、数えきれない「ゼンちゃん」。好きで好きでしょうがなかった片想いの時間。そしていつの間にか当たり前になっていた、二人の時間。

 気がつくと、涙が溢れていた。

「泣いちゃだめだよ。ゼンちゃんから、言って」

 サヤカの声は優しくて余計に涙が零れる。そんな俺の手をサヤカはとり、両手で包むように握ってくる。俺は手を離せないまま、どこにこんな力があるのかってくらい真っ白になった拳で、わななく唇で、子どもみたいに涙を流す自分が情けなかった。

 そんな俺を見つめるサヤカは黙ってただ俺を待っている。終わりなのか、本当にこれで? そうなのかもしれない。いや、きっとそうなんだろう。別れたくない。でも、どこかで、こうなる日が来るかもしれないって思ってた。それが今日だったってだけで。

 それならせめて、男らしくって思う。

 だけど気持ちとは裏腹に、今言うべき言葉を飲み込んでしまいそうになる。

「ダメだよ」

「なにが」

「ちゃんと言えよっ、『お前なんか嫌いだ』って」

「そんな訳…」

「言えよ、意気地なしっ! 私が好きになった男だろっ!」

 嫌だ、嫌だけど、こいつに最後の最後で、失望なんかされたくないっ!

「お、お前なんか」

「うん」

「お前なんか嫌いだっ!」

「もっと言えっ!」

「お前なんか嫌いだっ!」

「そうだよっ、私もお前なんかだいっ嫌いだっ!」

「お前なんか嫌いだっ!」

「笑顔がすっごく好きだった!」

「お前なんか嫌いだっ!」

「優しいゼンちゃんが大好きだった!」

「お前なんか嫌いだっ!」

「ずっと忘れない、それでずっと、ずーっと、懐かしがらせてやるっ!」

「………」

「あーっ、大声出したらすっきりした」

 左手の甲で涙を拭ったサヤカがふわりと微笑んだ。

 そして深呼吸をすると、眩しそうに空を見上げる。

「はぁ。今、ちょうど夕暮れだね。綺麗だなぁ」

「そうだな」

「日が暮れたら、手を離そう。それで、終わりにしよう」

「ああ、わかった」

「あと五分くらいかな、もうちょっとあるか」

「もうちょっとあるよ」

「そっか…」

「うん…」

 ゆっくりゆっくり、太陽が沈む。

 繋いだままの手のひらがじんわりと汗ばんでくる。

 何するでもなくお互いの顔を眺めていると、サヤカがおどけたように一本、人差し指を立てた。

「問題です。私はゼンちゃんのどこが一番好きだったでしょう?」

「なにそれ、わかんないって」

「考えてみて、自分の魅力」

 俺の魅力なんて、ほんとにあるんなら、今頃こうなってないのにな。

 だけど、これが最後なんだろ?

 だったら後悔しないように考えて、笑って送り出したい。

「顔」

「おバカ」

「そこで否定ってひどくない?」

「ふふっ、ヒントはなしだよ」

「ムードメーカーなとこ」

「ぶぶー」

 こんな時にまで、サヤカは相変わらずだな。

 日が沈む。薄闇の空気が二人を包む。


 私を誰よりも大切にしてくれたとこだよ。


 手が、離れた。

 淡い紺色に染まる彼女の後姿が、遠くなっていく。

 サヤカは泣きながら歩いているんだろうか?

 それとも微笑みながら歩いているんだろうか?

 分からないまま遠ざかる後姿に、何か言いたかった。今じゃなきゃ、もう永遠に言えない!

「サヤカっ! 俺、サヤカと付き合えてほんと良かった。片想いよりも両想いの方が嬉しいんだって、初めて知った。お前は俺になんかもったいない、最高の女だった。俺たちの恋、ここで終わりだけど、何だ、何だろう、とにかくっ、また笑って話そう! 俺たち仲間だから、お前の事大好きだから、またいつか!」

 あぁ、あああっーーー。

 サヤカの泣き声が、暮れた街に響いた。その声で、俺も我慢できなくて叫んだ。

 絞り出すように悲しい慟哭がお互いの口から洩れて、だけどサヤカは歩みを止めなくて、俺も歩きながら泣き声を上げる。


 振り返れなかった。

 ただ、歩いた。

 思い出したように街の灯が灯りだしていた。

 繋いでいた指先の熱が、まだあの愛しい彼女に、触れているようだった。

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