今も隣りへいて欲しい君へ 6/11
昼休み。教室で飯を食い終わってなんとなく屋上に足を運ぶと微かに話し声が聞こえた。誰だろう? 階段を上って踊り場にでるとそこに真緒がいて、一人、ぼーっと空を見上げているのが見えた。
「なんだよ、お前一人か。話し声が聞こえた気がしたんだけど」
「ううん、私ひとり」
「独り言か、寂しいやつだな」
「善司こそどうしたの、こんなとこに一人で」
「いや、コウジとアン、もういないんだなって考えてたらついここに」
「そっか」
「俺たちの居場所、胸に残しておきたくて」
そう言って俺は真緒の横に座る。四月の空気はやっと確かな暖かさで伸びやかな日差しをここまで運び、俺はグラウンドを見下ろしながら特別に話したい事もなくて眼下の景色を眺めていた。
「なんか私たち、三年生ってかんじしないね」
「まあな。ついこの前学ランに袖を通した気がしてたけど、もう二年経ってるんだもんな」
「最近ね、」
「ん?」
「なんか不思議な気分なの」
「っていうと?」
「ここのところずっとおかしな感じだったんだけど、それですごく悩んでいたんだけど、それがどうでも良くなっちゃったっていうか。吹っ切れたのか諦めたのか、よく分からないんだけど、まあ、こんな自分もありなのかなって思えてきてさ」
「何の話し? さっぱり見えてこないんだけど」
「私の心と善司の初体験の話」
答えづらい話しをさらっと言ってくれるなよな。けれど真緒は気にした風もなく、答えを期待したかんじでもなくて、相変わらずぽけーっと口を開けたまま空を見ている。
「真緒は、その、まだ俺のこと好きなのか」
「今はよく分からなくなってきちゃって、善司に女の子として見られてないって事にも慣れてきちゃったのかな。それにあなたには沙耶香ちゃんがいるし。私はまだエッチってしたことないけど、したからってそれが特別な事だなんて思わないんだと思う。心が重なりたがるから身体を求めるんだと思うし、性欲は人並みにあるけれど、どうしてもセックスしたいとは思わないんだな。自分でするのもそんなに好きじゃないし。だから善司に抱かれたいとか、そういうの最近はなくなってきたかな」
普通に話す真緒の雰囲気に、なにか違和感を覚えた。どこが違うって訳じゃない、真緒は真緒だ。でも以前のこいつとはほんの少しだけ、何かが違った。淡々と語る口調がなんだか知らない人のような気がしていた。
「お前、なにかあったのか。悩みでもあるのか。それなら隠さずに話せよ。俺に言いにくいんなら他の誰でもいいけど一人で抱えるのはよせ」
そう言うと真緒は落ち着いたかんじでゆっくりと首を振り少し儚げな笑みをみせた。
「これはね、そういう問題じゃないんだ。誰に話しても意味のない、私自身の問題だから。別に信用してないとかそういう事じゃないからね」
「分かったよ。じゃあ、直接相談に乗れなくても気分くらいは変えてやれる。今日の帰り、久々に映画でも行くか?」
「うーん、特に見たいのもないしな」
真緒は少しのあいだ目を閉じ、それから立ち上がって一歩、二歩と進む。後ろ手に指を組んだまま俺に背を向けて、真っ直ぐに前を見たまま言った。
「友だちデート、しない?」
寂しさとも決意ともちがう、通りすぎる夕立みたいに清々しく。
その声は未練だとか慕情だとかそんな陳腐な感情なんかじゃなくて、もっと深くて鋭い、心の奥底に刺さる切なさを秘めていた。
悩んでいるなら力になってやりたい。困っているならいつだって駆けつける。でも俺への気持ちってなると二の足を踏んでいた節が今までの俺にはあった。だけど今日の真緒はなんだかほうっておけなくて、まるで二人で一つの抱き枕を使うように過ごしてきた、サヤカと付き合う前の俺たちが、たまにどうしようもなく家族みたいにふざけ合いたかったみたいに、気心の知れた二人で思いっきり弾けたかった。恋じゃない。ただの幼馴染みじゃない。空に向かって伸びる背の高い木々の隙間から零れる木漏れ日のように互いが互いの心に染み込んでいく感覚。
俺と真緒だから。
そう言う以外、上手い言葉が見つからない。きっと最近の俺たちにはお互いの栄養分が足りてなかったんだ。そのせいで俺たちの根っこは限界だったんだ、恋人のいない真緒にとっては特に。
「いいよ。特別じゃなくていいんだろ? どっかで話したりとかで」
「そうだな、あっ、そうだ。うち来ない?」
真緒は風に向かい合ったまま一つ髪を指で梳いて振り返った。
「おまえんち? いいけど、しばらくぶりだな」
「お母さんも喜ぶよ」
「オッケー。んじゃ、部活終わったら待ってる」
「うん」
柔らかく二人で顔を見つめあって、「ああ、こうだった」ってしみじみ思う。こういうの、しばらく忘れてたな。
門を通って車のない車庫を見た真緒が「買い物かな」なんて呟いて俺を先に部屋に上げると台所に飲み物を取りに行った。俺は階段を上がって真緒の部屋の窓から古風な庭を眺める。昔木登りをしてばきばきに折った松の木を見下ろして荷物を置くと部屋を見渡した。
変わんないな、ここ。
あんまり女の子女の子してないシンプルな部屋。本棚とクローゼットがやけに大きくてテレビも置いてない。真緒はこの部屋でどう過ごしてるんだろうな。子どもの頃は、まだコウジやユウヤたちと出会う前は、お互いの家を行き来しあって、今の六人になってからはもっぱらコウジの家に集まることが多かったからここ数年はあまりこの部屋に来ることもなかった。
机の上にはガキの頃の俺と真緒の写真。サマーキャンプのやつで俺の部屋にも同じ写真がある。本棚に見えるアルバムの中も、たぶん似たり寄ったりだ。
なんか、そう考えるとえらく遠くにきた気持ちになる。始まりは同じところで絡まっていた筈なのにいつの間にか枝分かれしていて気付いたら今がある。離れてしまったんだって、そう思う。
部屋の中には香水なのかアロマなのか分からないがとにかくなんかいい匂いがしていて、あいつ、あんなでもやっぱ女の子なんだなって感じた。
感慨にふけっていると真緒がお盆を手に持って顔を出した。
「今日は運動後だし結構暖かいからカルピスにしてみた」
「おっ。真緒んちの濃厚カルピス。やべえ、懐かしいな」
「久しぶりでしょ。歌舞伎揚げも持ってきた」
「ナイスです」
お菓子をつまんでなんとなくのんびりモード。どうでもいい話題でリラックスできる緩い関係。
「なんかさー、最近窓開けて昼寝してても寒くなくなったよな」
「うん」
「そんで気付いたんだけど、俺、花粉症かもしれん」
「そうなんだ」
「大人っぽいだろ、花粉症。なんか、大人っぽいだろ」
「言葉不自由か」
「うっせ。真緒は花粉症とかある?」
「ううん」
「あとさー、おふくろが味噌汁のみそ勝手に合わせみそにしてさ。ふざけんな、男は赤みそじゃいって思ってたら結構旨くってさ。あとナス。味噌汁に入れると旨いのな」
「そういうこだわりってなんかあるわよね。あれ、善司ってナス食べれたんだっけ」
「ずっと苦手だったんだけど味噌汁に入れたら食える。むしろ入れてってかんじ」
「うちの善司くんも少しずつ成長してるわけだ」
「俺のナスも成長してるけどな」
「そういう事はムケてから言え」
「やめろー。デリケートトーク。デリケートトーク」
「アホの見本やな」
「うっせ。そんでね、なんか恥垢の量がね…」
「デリケートトーク。デリケートトーク」
「うおぉ、最後までボケさせて」
しばらく最近の部活の話しだとかテストの話しをしているとガレージが鳴ってゆっちゃんが帰ってきたらしいって分かる。
見なくても想像できる。玄関で俺の靴を見て、うれションしそうなワンコみたいに目を輝かせるゆっちゃん。マッハで階段を駆け上がる音を聞きながら二人で笑い合う。
「ゼンちゃん、ゼンちゃん来てるの?」
「来てますよー、ゆっちゃん。焦らなくてもまだ帰らないですから」
「お母さん狼狽えすぎ」
スーパーのエコバックを抱えたゆっちゃんが扉の前まできて、荷物を放り出さんばかりの勢いで俺に握手を求める。顔、半泣きだし。
「あー、ほんと。ゼンちゃんよく来たわねえ。もっと顔出しなさい。おばさん今日は帰さないからね、夕飯食べてくのよ」
「ちなみに今日のメニューは?」
「豆乳鍋。しまったわー、ゼンちゃん来るんならもっとお肉買うんだった」
「なるほど、豆乳を投入するわけですね」
「うふふ、そうよ、投入しちゃうの。ご飯すぐ作るから待っててね」
「うい。んじゃ電話借りていいです? 飯いらないって言っとくんで」
ゆっちゃんに背中を押されて階段を下りながら、俺は真緒だけじゃない、ゆっちゃんとの時間も忘れていたんだな、そう思った。
「いやー、ほんと旨かったです。ごっそーさん」
「うふふ。いっぱい食べてくれておばさん嬉しいわ。どうせなら久々にお泊まりもする?」
「いやー、それはさすがに」
「そう?」
ゆっちゃんにお礼を言って、「そろそろ帰ります」って言うとすっげー悲しそうな顔をされて、俺、愛されてるなって実感する。なんか忘れてたけど、ゆっちゃんとの時間、やっぱ好きだな。
カバンを持って玄関まで行くと二人が見送りに来てくれて、真緒は「善司送ってくる」と言って俺の隣りを歩き出した。
なんだろう、不思議な感じだ。俺たちはいつも通りだったはずなのに、そこにゆっちゃんが加わって、赤い宝石のような過去が俺たちを包んでいる。外の空気は暑くもなく、寒くもなく、絶妙な温度で肌と心に快感を与える。
「真緒」
「ん?」
「気分、変わったか」
分かっていたけど、聞いてみる。そう言うと、真緒はにやっと頬を緩めて下を向き、照れ笑いしながらアーモンド形の目で俺を見て頷いた。
「善司、人は死んだら、どうなるんだろう」
なにかの例え話なのかな? そう思ったから俺は普段考えないような話しを真剣に考えてみる。
「そうだな。死んだらそれで終わりとは、ちょっと思えない。幽霊とか霊魂とか、そういうのがあるのかどうかは分からないけど、死んだ人が、死んでしまった以上に幸せに暮らす世界があるんなら、それって生きている人も、死んだ人も、どっちも嬉しいんじゃないかな」
「幽霊はいるってこと?」
「んー。そうだな、なんつーの、今の科学で説明できないからいないって、それは違うよね。実際どっちか分からないけど、いないんなら、ずっと昔から、幽霊っていう概念が、現代まで語り継がれているのは何でだろうっていうかさ」
「なるほどね。なんの根拠もないのに説得力あるわね」
「あれっ、ちょっと待って」
「どしたの」
「お前の後ろ、なんかいない?」
そう言うと真緒は笑って俺に体をぶつけてくる。
「ぜんじぃ」
「甘えんな」
そう言うと、もう一度名前を呼んできた彼女が俺の瞳を見つめてくる。
「善司、好きだよ」
「なんだよ、急に」
「今日の懐かしさだけで言ってるんじゃないよ。もう少しだけ、もうちょっとだけ、自分の気持ちに正直になろうって決めたの。こんなに、失いたくないって、気付いたから」
「分かるよって、ほんとは言っちゃだめなんだな、きっと」
「そうだ、二人と付き合っちゃえばいいんだよ」
「俺ってそんなこと許されるキャラだっけ」
「向いてないね。だけど、私の中では、一番かっこよくて、一番素敵な、誰よりも大切な王子様だよ」
「プリンスゼンジと呼んでくれ」
「照れてる照れてる」
あったかくて織り紡がれる時間。きっと今、心の底に流れてる音楽は一緒で、重なり合っている、シンクロしてる同じ形の優しさがあるってことを、やっぱり口に出してはいけないんだろう。
俺たちがまだ恋を知らなかった頃、俺たちはお互いに恋をしていて、恋を知った今では、それは恋だったんじゃなくて、生まれる前から胸にある気持ちと愛情の交ざり合ったものだったんだなって気づく。
「真緒」
「ん?」
「勘違いするなよ」
「なに?」
「大好きだ。笑ってるお前が大好きだ」
「うん。伝わるよ。染み込んでくよ。アンたちがいなくなって、やっぱり寂しいけれど、この気持ちが笑顔をくれる」
「そっか」
「そうなんだよ」
その時、なにか不思議な匂いがして俺は立ち止まる。なんだろう、これ。知ってるはずなのにぱっと出てこない、もどかしい感覚がした。
「どうしたの?」真緒が問いかける。
「いや、なんだろ。うーんと、なあ、なんだろこれ。なんの匂い?」
「匂い? なんの?」
「わかんない。タバコじゃないし、おならじゃないし、シンナー? んな訳ないよな」
そう言うと真緒は「もしかして」と言って自分の服の匂いを嗅いだ。真緒の服は夕食前に制服から私服に着替えてあったから服装は水色のワンピースの襟元にレースのついた感じのごくごく普通の洋服だった。
「これの匂いじゃない?」そう言って胸元のシャツを引っ張ってこっちに向けてくる。ちょっと戸惑いながら鼻を近づけると、突然、真緒が胸の前で俺の頭を抱いた。
「おい、ちょっと待て」
さすがにまずいだろうと思って抗議しても真緒は放してくれない。よくわかんない匂いと顔に触れる柔らかさで俺のちんちんは勃起してしまっていて感情と本能が抱きしめ返したくなるのを理性がなんとか留めている。
最初、雨が降ってきたのかと思った。髪の毛にぽつぽつと感触があって、それは暖かくて、苦しいほど腕に力を込めてくる彼女の声は、穏やかだった。
「今ね、絵を描いてるの。油絵。この服着て書くこと多かったから匂いがうつっちゃったのかな。それはね、雪の大地に一本の木が生えている絵なの。でもその木は本当の木じゃなくて、自由に枝を伸ばした冬の針葉樹でさ、てっぺんに綺麗な石が咲いているの。夢でね、その景色を見て、起きても覚えていて、これは絶対きれいに描いてみんなに、善司に見て欲しいなって、そうね、思ったの」
話しているうちに話し声は揺れてきて、泣いているんだって分かった。顔を上げようとすると真緒は余計に力を込めて俺を放すまいとする。
「見ないで。顔、見ないで。こんな顔、見られたくない」
どんな形の「好き」だろうと、好きな人が泣いていたら、そんな声を聞いてしまったら…。だけどきっと、今の真緒には泣くことが必要なんだろう。
嗚咽もあげず、ただ穏やかな声はいつしか止んで、落ちてくる雫だけが俺の髪を濡らして、中腰のまま、意識もせずに真緒の腰に手を添えた。
俺、なんでサヤカと付き合っているんだろう。
真緒はこんなにも俺を求めていてくれて、なんで。
一瞬の気の迷いだと思う。あいつの笑顔を見たらきっとなんてバカな事考えてたんだろうって思うだろう。
だけど、真緒が泣いているんだ。
泣いてほしくない人が、泣いているんだ。
思いもかけず強く抱き返した身体はやけに細くて、胸が苦しかった。
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