三 試衛館
斎藤は江戸の生まれだ。本籍の姓は、山口という。
父は明石の出身で、母は会津から川越に移ってきた。二人とも武家の血筋だが、江戸での暮らし向きは百姓と大差なかった。四つ上の姉と、一つ上の兄がいる。
明石の父と会津の母と、江戸の長屋の井戸端で物心ついた姉は、それぞれ話す言葉が違った。
幼い斎藤は、誰を真似して喋ればよいかわからなかった。めちゃくちゃに混じった言葉を話す兄は、近所の子供らにからかわれていた。斎藤が今でも無口なのは、言葉を発すれば笑われると思い込んでいたあの頃の影響かもしれない。
斎藤は幼い頃から愛想がなく、めったに口を開かず、笑いも泣きもしなかった。近所の子供らと遊ぶよりも、剣術の稽古をする方が好きだった。
剣術といっても、きちんとした師に就いて教わったわけではない。刀よりも鍬の似合う父が、かつて懇意にしていた人に習ったという
どんな流派の剣術でも居合でも、右手で剣を扱うのが作法とされる。左利きの剣術はあまりにも不調法で不格好、非礼の極みだとして、父は知人の
試衛館では土方歳三、
斎藤は、同年配の沖田や藤堂が自分より巧みに剣を使うのに刺激を受けた。強くなりたいと、これまで抱いたことのない願いを持つようになった。
願いはやがて目標に変わった。沖田も藤堂も同じ、強くなってやるという目標を持っていた。目標を打ち明け合えば、いつしかそれは、三人の約束に変わった。
三人とも必ず強くなろう。互角と呼べるのはこの三人のほかに作らないくらい、三すくみのまま、それぞれの剣を磨いていこう。
沖田の剣は、天才の剣と呼ばれていた。剣先の下がった無防備な構えで相手を誘い、迅速の刺突で仕留める。斬る剣の強さは鍛錬によって
藤堂は、沖田とはまた違った意味で、誰にも真似できぬ剣技を使った。藤堂は小柄な体格を幸いとし、
もしも彼らが強くなければ、斎藤は左利きをやめ、右手で礼儀正しく剣を振るっていたかもしれない。実際のところ、沖田も藤堂も、十代半ばの頃には大人を凌駕していた。斎藤は、置いていかれるわけにはいかなかった。だから、非礼を承知で左利きの剣術を磨いた。
左手で刀を抜く侍はいない。斎藤が本気で戦うときは、右利きの剣術を捨てる。他流試合では、これがいっとう役に立つ。初めて斎藤と相対する者は、左手の動きは一つも読めぬと困惑し、何もできぬままに敗れていく。
近藤も土方も、斎藤の左利きの剣術を称賛し、おもしろがった。儀礼の剣を右で、戦闘の剣を左で極めれば、斎藤は無敵の剣を振るうようになると言った。
試衛館は貧しかったが、近藤の誠実な人柄が為せる
伊達男の土方はときどき派手な色恋沙汰を起こして近藤を呆れさせたが、当人は涼しい顔をしていた。
天才の沖田は、稽古が厳しすぎると苦情を寄せられることがしばしばだった。そのたびに
人懐っこい藤堂は、永倉や原田からは酒の飲み方や喧嘩の仕方を伝授され、井上や山南からひととおりの学問を教わっていた。
それぞれの生き様を見せる仲間たちの中で、自分はどんな人物だっただろうかと、斎藤は思い返すことがある。
近藤の、剣を持ったときの気迫と持たぬときの穏健。得意げな澄まし顔で俳句を詠んでみせる土方の声音。沖田と藤堂がじゃれ合うところへ、永倉と原田が茶々を入れ、井上と山南が微笑んで見守る。
皆の様子はよく覚えているのに、自分がその光景のどこに存在したのかがわからない。
文久二年|(一八六二年)の暮れである。
かねてより
一人で酒を飲んでいた。途中から、近くにいた浪人にしつこく絡まれ出した。適当にあしらっていたのだが、浪人が病弱な妻を
そのあたりから、斎藤の記憶は途切れ途切れになっている。
表に出ろと告げた自分の声を、ひどく遠くで聞いた。
腹の中で荒れ狂う衝動があった。それは怒りに似ていた。ただ、怒りよりも理不尽で奔放な代物だった。相手が自分より弱いと確信していた。だからこそ、相手を容赦なく押し潰してみたいと思った。歯止めが利かなかった。
どくんどくんと高鳴る心臓が送り出す血は、沸騰しているかのようだった。
浪人が
料理屋から逃げ出した浪人を、やすやすと路地裏に追い詰めた。斎藤は左差しの刀を鞘ごと帯から抜いた。そして右差しの位置に鞘を据えるや、左手で刀を抜き放った。
一瞬だった。
皮膚を断ち、血脈を断ち、
返り血を浴びた。どさりと、重いものの落ちる音を聞いた。
斎藤は我に返った。
路地裏に引っくり返った浪人は、料理屋から洩れる薄明かりの中で、死体となりおおせていた。悲鳴を上げる途中だった頭は、首の皮一枚で辛うじて胴体とつながっていた。
血の気が引いた。酔いが醒めた。
斎藤の左手に、抜身の刀がずしりと重い。
人を殺してしまった。酒の席の些細なきっかけから、こんなに簡単に、人の命を奪ってしまった。
斎藤は一歩、後ずさった。
と、声に背中を打たれた。
「やっちまったな。見てたぜ。兄さん、ずいぶん若いようだが、腕は大したもんだ。しかしなあ、困るんだよ。そこに転がってる酔っ払いは、浪人の格好なんぞさせてたが、一応は旗本でね、俺が目に掛けていた飼い犬だ。しょうもない男だよ。しかしまあ、俺が与えた仕事はきちっとやってくれていたところを、こりゃ参ったね」
いつ、背後に立たれたのだろうか。
振り返ると、身の丈五尺ほどの小柄な男がいた。年の頃は四十絡みだろうか。
男は、油断なく見開いた丸い目をぎょろりと光らせ、厚みのある唇を引き結んでいた。粗野に崩した着流し姿でも、髪の結い方や二本差しの佇まいは、位の高い武士のそれだ。
抜身の刀を提げた斎藤に、男は気安く近づいた。
斎藤は動けなかった。にやにや笑いの男の鋭く強いまなざしに留めつけられていた。
「兄さん、どこの道場のもんだい? 左利きの居合なんぞ初めて見たぜ。おもしれえな。なあ、その腕、俺のために使っちゃくれねえか? 実を言やあ、兄さんがどんな酒を飲む男なのか、ちょいと前から見ていたのさ。兄さんなら悪くねえ」
逃げ出したい、と斎藤は思った。浪人を殺した瞬間に斎藤の体を走り抜けた陶酔を、きっと男は見抜いている。知りたくも知られたくもない、おぞましい本性だった。人を殺した事実と殺しに快楽を覚えた自分から、そして目の前の男から、逃げ出してしまいたかった。
斎藤はいつしか震えていた。右手の鞘と左手の刀を取り落とさぬようにするのが精いっぱいだった。
男は、暗がりの中で青ざめる斎藤を見上げ、くつくつと楽しげに笑った。
「俺ぁ兄さんを
何を言われているのか、わからない。頭が追いつかなかった。
男は、ついて来い、と斎藤に手ぶりで命じた。無防備にすたすたと歩き出す背中を、斬ろうと思えば斬れたはずだ。男に背を向けて逃げ出すことも、簡単だったはずだ。
斎藤は、斬ることも逃げることもしなかった。暗示に掛けられたように、ふらふらと、男の後をついて歩いた。
家にはもう帰れないだろう。試衛館の日常にも、きっと戻れない。
人ひとりの命を奪った代価は、本来ならば斎藤自身の命で
男は、
そこから先に起こった出来事はどんな順序であったか、斎藤の記憶は混乱している。夜中にも
幕府の要職に就いている者の名など、斎藤はよく知らない。男は勝麟太郎と名乗り、私塾の門弟には勝海舟と呼ばせていると言った。
「海舟って号は、なかなか洒落てるだろう? 俺は海が好きで、船も好きだ。船酔いしちまうんで、自分で海に繰り出してえわけじゃあないがな」
日本は海軍を創るべきなのだと、勝は滑らかな口調で説いた。大砲を備えた巨大な船を数百隻も創る話など、あまりに途方がない。勝の話は大きすぎて、斎藤には意味がわからなかった。
とはいえ、勝は斎藤の理解など求めていないようだった。自分が満足するまで
「おまえさん、名は? どこの道場に関わってる? 答えたくねえかもしれねえが、頭と胴体がくっついたままでいたけりゃ、正直にしゃべることだな。人殺しは打ち首だぜ。まあ、死んだ男の方も身元の知れぬ流れ者ってことにしてあるんで、ろくな捜査もできやしねえだろうが」
きな臭い。それ以上だ。
斎藤は唇を噛んだ。自分はやはり死ぬべきではないのかと思った。人殺しの罪で家族や試衛館の皆に迷惑を掛けるより、潔く死んで罪を償うべきではないのか。
斎藤の胸の内を、勝はあっさりと見抜いた。よく動く唇が、にぃっと、人の悪そうな笑みを形作った。
「おまえさんが罪を認めて死んだところで、何にもなりゃしねえよ。むしろ、死んで手も足も口も出せなくなっちまった後で、俺がおまえさんの大事な剣術仲間にちょっかいを出したらどうする? 人斬りを出した道場だなんて噂が流れたら、門弟が逃げ出して、潰れちまうよなあ」
「やめてくれ」
勝が、声を立てて笑った。
「ほう。おまえさんが
斎藤はうつむいた。知恵も舌もよく回る男に弱みを握られている。抗ったところで、勝てるはずなどない。
「
「生まれはどこだ? 試衛館って道場はどこにあって、どんな人間がいる?」
斎藤は正直に、矢継ぎ早な勝の問いに答えた。嘘はつかなかったし、隠し事もしなかった。そうする余裕はなかった。
勝は、ふふんと得意げに笑い、行儀悪く立てた片膝を、ぱしんと打った。
「おまえさんは明日、試衛館に顔を出せ。連中にとって具合のいい出世話を持って行ってやるんだ。いいか。幕府はもうじき、
浪士組、京都、腕っ節の強いやつ。家柄に構わず、幕府の任に就ける。勝が早口でまくし立てる話の意味を、斎藤はうなずきながら呑み込んだ。
勝は、斎藤の胸のあたりを指差して、話を続けた。
「おまえさん自身は、一足先に京に行け。でなけりゃ、人殺しのかどでしょっ引かれることになるぜ。京には、俺の縁故の道場がある。そこで師範のふりでもして、浪士組の到着を待ってろ。名前も変えるんだ」
「名前を、変える」
「山口の姓を捨てろ。しばらくは親の顔を見られないと思え。そうさな、斎藤一とでも名乗れ。山口なんて丸っこい響きよりも、斎藤っていう、すぱっとした音の方がおまえさんに似合うじゃねえか」
うなずくよりほかにない。
勝が、山口一改め斎藤一の目の前で、斎藤一という男の像をあっという間に創り上げていく。人前では右利きのふりをしろ。上背があるのを目立たせないよう、大通りは猫背で歩け。人斬りの刀を振るうときは遠慮なく、右に差した刀を左手で抜いてみせればよい。
「斎藤一、おまえさんは今日から俺の間者だ。京で刀を振り回すやつら、佐幕派に倒幕派、尊皇攘夷に公武合体、長州、薩摩、土佐、会津、そいつら全部の動きをよく見ろ。見て、聞いて、俺に話せ。おまえさん自身は何も考えなくていい。一つずつ知っていくだけでいい」
「なぜ、俺が?」
「無知だが、馬鹿じゃあねえ。剣術試合じゃなく、斬り合いの喧嘩で生き延びる
「……俺はどうなってもいい。ただ、近藤さんたちには不利益のないように」
よろしくお願いしますと声にはうまく出せぬまま、斎藤は頭を垂れた。
膝の上の二つの拳が視界に入った。節が白く浮き出るほど、きつく握り締めていた。
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