斎藤一、闇夜に駆けよ

馳月基矢

一 池田屋

 夜半過ぎである。

 黒々としたかもがわの水面を、斎藤一は見下ろしている。

 何を見ている、というわけでもない。音ばかりは涼しげに流れる川の、時折ちらりと反射する星影を、ただ視界にとらえながら、三条橋のたもとに佇んでいる。

 夏の京は、日が沈もうが月が出ようが、いつでも暑い。

 お天道様が張り切るせいで暑いわけじゃあねえんだと、四国は伊予の生まれのはらすけが言っていた。

 ――伊予の御天道様はかんかんに熱い。京の都はそうじゃねえ。四方を囲う山並みの底にたまった暑気が、川の湿気と混じり合って、べたべたとまとわりついてくるのさ。

 そもそも京は気が淀んでやがるんだ、と原田の言葉を受けて顔をしかめたのは、ほくしんいっとうりゅうの名手で鳴らすとうどうへいすけだった。

 ――昔っからの邪気や怨念が、鍋底みてえなこの地形にたまった挙句、凝り固まってんだぜ。薄気味わりいや。

 江戸育ちの藤堂は、すっぱりとした物言いと振る舞いを好む。だから、雅やかな風情の裏で権謀術数の渦巻く京を、はなから好んでいない。

 斎藤には、目には見えぬ気だの念だのといったものが淀んだりたまったり凝り固まったりするのか、わからない。

 五感でとらえられぬものを論じられるほど自分は賢くない、と斎藤は思う。尊皇の大義だとか軍備にまつわる論だとか、頭の中で何かを築き上げるのは難儀だ。斎藤が語ることのできるのは、この目で見てこの手で触れたものだけだ。

 だから、斎藤は目を凝らし、耳を澄ます。手応えも、舌触りも、一つひとつ覚えておく。己を鈍らせてはいけない。鼻の鋭い狼のように、信じられるもののみを嗅ぎ分けて見出さねばならない。そんなふうに自らに課している。

 血の匂いがする。晩夏の湿った夜気からも、斎藤自身の体からも、殺戮と破壊の生ぐさい匂いがする。


 三条橋から程近い旅館、池田屋が、血戦の舞台だった。尊攘派の志士たちが十人ほど死体になった。辛くも逃げ出した者も、新撰組に顔を見られ目星をつけられたことに怯え、自刃するやもしれない。逃げそこねて捕縛された者には、拷問の末の刑死が待っている。

 突入したこんどういさみの一隊と、斎藤の属するひじかたとしぞうの一隊は別に動いていた。

 斎藤たちが駆けつけたとき、池田屋に突入した四人のうち、藤堂平助は額を割られて戦えず、ながくらしんぱちもまた手に傷を受けて自由に刀を振るえず、おきそうは喀血して倒れ、敵に囲まれた近藤勇はまさに背水の陣を敷いて死闘していた。

 斎藤は土方の号令を受けて池田屋に押し込み、抵抗を続ける者を捕縛した。

 土方の采配は完璧だった。近藤たちを救援する傍ら、池田屋の周囲を封鎖して敵の逃亡を阻み、会津藩や桑名藩による介入をも足止めした。つまり、池田屋における尊攘派志士の討伐という手柄を、新撰組が独り占めすることに成功したのである。

 戦いが終息した後、斎藤は抜身の刀を提げたまま、明かりを持った原田と共に、池田屋の中を捜索した。

 修羅場となった中庭と裏口付近は血だまりが広がっていた。転がった死体の中には、四肢の繋がらぬもの、はらわたを撒き散らしたものもあった。

 本命は二階だったという。二階の宴席で尊攘派が会合を開いていたところに、近藤たちが御用改めと号して突入したのだ。

 敵陣の最も深いところまで飛び込んだのは沖田だった

 沖田は二階の座敷に倒れていた。すでに敵影がないことを確かめつつ、斎藤は沖田を抱き起した。軽く揺さぶってみる。原田が明かりを沖田に近づける。

 流れてから時の経った血の鉄っぽい匂いが、斎藤の鼻を突いた。

 沖田の体には、自らが被った刀傷はないようだった。だが、口元や手甲に血がついている。返り血ではあるまい。

 斎藤は、すぐにぴんと来た。沖田が日頃、嫌な空咳をすることには気づいていた。

ろうがいか」

 さほどものを知らない斎藤でも、胸を病んだ者がする咳が風邪ひきの咳と違うことくらいは知っている。沖田の体の具合が優れぬ日があることは、稽古を通じて知っていた。剣を交えれば、隠し事など、たやすく見破れるのだ。

 沖田が目を開けた。二重まぶたのくっきりとした目が、斎藤に焦点を結んだ。

「ああ……生きていたのか、俺は」

「血を吐いたのか」

「五人に囲まれて、一人斬った。その後にね。急に嫌な咳が出たと思ったら、このありさまさ。ちょっと驚いたよ」

「よく斬られなかった」

「敵が勝手に逃げ出してくれたんでね。俺にかなわないと怯えてたんだろうな。俺が咳き込みだしたら、これ幸いとばかりに窓から中庭に飛び出して行ったよ。まあ、どうせ連中は、平助か新八さんに斬られたんだろうけど」

「どうだろう。藤堂さんも永倉さんも怪我をしている。命に関わるものではないが。近藤さんもな」

 沖田は笑った。

「あの人たちは、殺しても死なないって。勝ったんだね、俺たち」

「ああ」

 当たり前だねと笑って、沖田はいつもの空咳をした。

 背負い込む人だ、と斎藤は思った。人斬りの看板だけで十分だろうに、病まで背負い込むとは。沖田は気のいい男だ。根が明るくて、子供に好かれる。なぜこの人が、いくつものごうを課せられねばならないのだろう。

 沖田は斎藤と同い年くらいだ。自分の生まれた年や月日を知らないらしい。もし同年の生まれなら、二十一である。どこかとぼけたところがあるが、剣の腕においては、新撰組でも五指に入る使い手だ。

 いや、沖田を好ましく思っているのは、昔馴染みの身内だけかもしれない。

 剣において天才の名をほしいままにする沖田は、稽古に一切の容赦がなくて滅法荒っぽい。しかも沖田は、その鋭剣で敵のみならず、規律を乱した隊士をも斬る。人好きのする笑顔の一方で味方殺しの血濡れた剣を振るう沖田を、忌み嫌う隊士は少なくない。

 沖田が胸を病んでいるとわかれば、この天才剣士を避ける者がさらに増えるだろうか。病状が悪くなってしまったら、沖田の看病を誰に任せればよいだろうか。

 そんなふうに思案しかけて、斎藤は、やめた。新撰組局長の近藤か、副長の土方か、物事を正しく判じる力があって沖田をかわいがっている者に、すべて任せてしまえばいい。俺が自分で考える必要はない。

「おい、斎藤」

 己を呼ぶ声に、斎藤は振り返った。

 土方である。副長が自ら、二階の捜索に上がってきたらしい。

 斎藤の代わりに沖田が、明るい声を繕って土方に返事をした。斎藤は沖田に肩を貸して立たせ、死臭の立ち込める座敷を後にした。


 新撰組は、一夜を池田屋の近辺で明かすことになった。暗夜の市中を東の端から西の端まで突っ切っての屯所まで帰投するのは、危うい。途中で尊攘派志士による報復を受けるかもしれない。

 近藤と土方が、捕縛した者から聞き取りをおこなっている。頬を張る音が時おり上がる。

 斎藤はじっと耳を澄まして、話をうかがった。

 池田屋における騒動の発端は、もとをたどれば前年の文久三年|(一八六三年)の八月十八日の政変にあった。この政変により、会津藩と薩摩藩の手で政局の主流から押し出されたのが、長州藩である。

 あの一件の後も京に潜む長州藩士たちは、会津藩預かりの下で市中の治安維持を担う新撰組にとって、最大の敵ともいえる存在だった。

 今年、元治元年|(一八六四年)五月のことである。

 長州藩にまいないをしていたかどで新撰組に捕縛された者が、拷問の末、天皇のかどわかしの計略を自白した。祇園祭ににぎわう京の町に火を放ち、混乱に乗じてひとつばしよしのぶなどの政敵を暗殺し、天皇を長州へ連れ去る。そんな企てである。

 斎藤は自白の場に居合わせず、後でその話を聞いた。ずいぶんさんな計略だと思った。

 長州藩には、進んだ考えを広めようという私塾があって、そこに通っていた連中は抜きんでて頭がいいらしい。その賢い連中が、天皇のかどわかしなどという拙い策を思いつくものだろうか。そもそも、かどわかしは死罪だ。堂々たる侍の考えることでもない。

 しかし、とにもかくにも、そんな自白があったというのだ。

 そして今宵、池田屋に集った尊攘派の連中は、市中大火と天皇誘拐に向けた議論をおこなっていたらしい。そこへ新撰組が御用改めとして踏み込み、ていな連中を征伐ないし捕縛した。そういう筋書きになっている。

 あの自白は真実だったのだろうか。今宵の御用改めとそれによる手柄は、本当に確かなものといえるのだろうか。

 ――おい斎藤よ、天然理心流の連中は、はったりがなかなかうまいじゃあねえか。

 そう言って笑うあの人・・・の声が、斎藤の頭によみがえった。あの人の冷笑を聞かされるたび、斎藤の胸は硬く凍りついていく。

 ――土方とかいう色男は、はったりの筋書きを作るのがうまい。道場長の近藤は、筋書きどおりのはったりをまわりに信じさせる迫力を持っている。なかなか大した戯作家と役者だ。戯作の中身は大したこたねえが、ま、心は躍るよなあ。違うかい、斎藤?

 世の中には意地の悪い人もいるものだ。あの人は、頭はいいが、意地はとても悪い。

 頭の悪い自分は誰かの下に仕えて生きていくしかない、と斎藤は初めから悟っていた。ぜひ近藤や土方の下でと決めていた矢先に、あの人に冷水を引っ掛けられた。

 あの人には池田屋の一件を報告せねばならない。

 確かなことはわからぬが、と斎藤が正直に前置きを告げれば、あの人は常に違わず、豪気に笑いながら毒舌を振るってみせるだろう。あの人は何でもわかっているし、知っている。池田屋の騒動も、斎藤より先に別の誰かから話を仕入れているはずだ。

 斎藤は、そっと一つ息をついた。疲れている。ものを考えれば疲れる。人の多いところにいるのも疲れる。人を斬るのが、何よりも疲れる。

 危ういから離れるなと言い渡されてはいるが、不覚を取るほど間抜けでもないつもりだ。

 斎藤は人垣を外れ、わずかなりとも涼を求めて、鴨川のほとりへさまよい出た。

 そして鴨川の水面を見下ろしている。期待したほど過ごしやすくはなかった。河川敷のやぶから飛んできた蚊が耳元で唸るのを、指先で弾いて打ち落とす。

 いくらも経たないうちに、斎藤はまた、一人ではなくなった。

 足音が聞こえた。それから声がした。

「おおい、斎藤、ここにいたのか。猫みてえにほっつき歩いてんじゃねえよ」

 斎藤は振り向いた。

 藤堂平助が歩み寄ってくる。

 小兵ながら、藤堂の北辰一刀流剣術の腕前は凄まじい。実はやんごとなき家柄のお坊ちゃんだという。黙っていれば、色白で幼げな美貌はぞっとするほどだ。めったに黙ってなどいないのが藤堂という男だが、今宵はいくぶんおとなしい。

 近藤隊の一員として池田屋に突入した藤堂は、ずれたはちがねを直す隙を突かれ、額を負傷していた。今、藤堂の額にには、さらし綿めんが幾重にも巻かれている。白々としたその色は、夜目にも不吉に浮かび上がって見える。

「傷はいいのか?」

「寝たっきりになるほどの大怪我じゃねえさ。もともと血の気が多いからな、ちょっと血を流したくらいじゃ、何ともねえよ」

「嘘だ。無理をしている」

 なぜなら、今の藤堂が妙におとなしいからだ。

 普段の藤堂は、まりが弾むように駆けながら、不用心なほどの大声で人の名を呼んだり、ばしんと音を立てて背中を打ったりなどする。斎藤はそれをやられるのが苦手で、藤堂の足音にはいつも気を張っている。だから、藤堂の様子がいつもと違うと感じた。

 藤堂は、にっと歯を出して笑ってみせた。

「まあ、万全じゃあねえな。今、斬り掛かられたんじゃ、ちょいとまずいね。愛刀もぼろぼろになっちまった。が、満身創痍の俺の目の前には、斎藤一という凄腕の剣客がいる。何かありゃ、手負いの味方の一人くらい、背中にかばって戦うのもお手の物だろ?」

 なるほど、と思った。土方あたりが、斎藤を連れ戻すために藤堂を寄越したのだろう。

 時に一人になりたがる斎藤の性質は、皆が承知するところだ。しかし一方で斎藤は、ものを頼まれれば断れない性質でもある。憎めぬ笑顔の藤堂に、護衛してくれと言われてしまうと、斎藤も我を通せない。

 斎藤は藤堂の隣に並んだ。一緒に歩き出しながら、藤堂が、斎藤の背中をふわりと叩いた。

 ふと斎藤は、どうでもよいことに気がついた。先ほど藤堂に掛けられた言葉である。

「猫と言われたのは初めてだ」

「おいおい、何を言ってるんだ。猫だろうよ、斎藤は。無口で、自分勝手なところがあって、気紛れそうに見えるくせに、意外と人にすり寄ってくる。犬みてえに、きゃんきゃん吠えたりしねえしな」

 吠えはしないが、違う。斎藤は猫ではない。いぬ、と呼ばれている。かわいらしい愛犬ではなく、あるじの意のままに使われるそうだ。

 黙り込む斎藤の隣で、藤堂が大きく息をついた。

「眠いな」

 壮絶な斬り合いを演じ、額に深い傷を負えば、さすがの藤堂も体が持つまい。横になって休んだほうがよい。

 明日は、池田屋の残党を討ち取りに行く手筈だが、藤堂や沖田は動員できない。主力は土方隊となるだろう。であれば、斎藤こそが先鋒を務めるはずだ。

 難儀だ。人を斬るのは疲れる。

 それでも、いぬである斎藤は、斬らねばならない。

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