四 会津藩主

 火種には巻き込まれておけ、と斎藤は勝に指示されている。

 ――危うい役目や厄介事は買って出ろ。ただし、目立つな。近藤と土方の信用を損ねるな。誰とも不和を起こすな。親しすぎる者を作るな。

 勝の指図のとおりに動くのは、難しいことではなかった。もともとそんなふうだ。試衛館に通い始めた頃から、斎藤は誰とも付かず離れず、かといって疎まれるでもなく、ほどほどに付き合ってきた。

 儀礼の右の剣と戦闘の左の剣の使い分け、つまりは表の顔と裏の役目の切り替えも、初めからうまくできた。日頃から口数が少ないぶん、隠し事もしやすい。切れ者で鳴らす土方でさえ、斎藤が名乗りを改めた本当の事情に気づいていない。

 浪士組の一隊として京に到着した試衛館の面々は、再会した斎藤を仲間に加え、発起人である清河八郎とたもとを分かって、ろうぐみを結成した。

 壬生浪士組は会津藩預かりの下で京の市中警護に当たった。そして、八月十八日の政変における手柄を認められ、会津藩主のまつだいらかたもり公によって新撰組の名を授かった。

 とんとん拍子のようでいて、そうではない。新撰組は危ういと、斎藤は感じている。

 新撰組は急速に大きくなりつつある。その拡大の速さに、試衛館の仲間たちはそれぞれ思うところがあって、別々のほうへ歩みを向けようとしている。

 半月ほど前の七月十九日、禁門の変と呼ばれる一大事が起こった。池田屋突入とその後の残党狩りによって追い詰められた長州藩が、会津藩主松平容保など公武合体を目指す佐幕派の排除を掲げて、御所のそば近くで挙兵したのである。

 会津藩とその下に就く新撰組、会津藩と行動を共にする桑名藩は、御所を背にして長州軍を迎え打った。

 銃や大砲が火を噴いた。小競り合いなどではない。それは戦の様相を呈していた。

 新撰組は主に刀や槍を使う。銃や大砲の訓練もしてはいるが、大規模な戦闘には慣れていない。

 その点、会津軍の軍事取調役兼大たいほうとうどりやまもとかく率いる砲撃部隊は、鮮やかな戦いぶりだった。あの軍略がほしい、と土方が唸ったのを、斎藤はすぐ近くで聞いた。

 長州藩における倒幕の急進派は、池田屋の騒乱によって窮地に追い込まれていた。会津軍と桑名軍を相手取っての市中戦は死にもの狂いだったと言ってよい。苛烈にして執拗な攻撃は、会津軍や桑名軍、同じく御所守備に当たる筑前軍を苦しめた。

 形勢がくつがえったのは、薩摩軍が駆けつけ、長州軍への一斉攻撃を仕掛けたためである。

 長州軍は敗れ、京を落ち延びた。その残党は天王山に立て籠もったが、新撰組や会津軍に追い詰められ、自害して果てた。

 戦いはここで幕を閉じたかに見えた。しかしながら、京の市中に及ぼした影響で言えば、その後にこそ長く苦しい戦いが待っていた。

 新撰組と会津軍は、長州藩士が逃げ込んだとおぼしき町屋に火を掛けた。この火が御所の西側一帯に広がり、北は一条から南は七条までを焼く大火とあいった。

 京の町では、店も民家も間口が狭く、隣同士がぴたりと接している。江戸と違って、火よけ地も設けられていない。

 ひとたび火事が起これば、隣へ燃え移るのを防ぐ手立てはなかった。大火が収まったのは、御所のそばで激戦があってから翌々日の朝だ。その間、人々はただ逃げ惑うことしかできなかった。

 大火は、どんどん焼けと呼ばれた。炎の中で三百人以上が死んだらしい。二万数千軒の家や寺や神社が焼け、祇園祭の華やかな山車だしも焼けた。怪我人が大勢出た。仕事を失った者も多かった。

「壬生の野犬と会津の田舎者が、いらんことしよって」

 聞こえよがしの陰口が、斎藤の耳に入ってくる。

 いらんこと、と断じられてしまうのは、あまりに胸が痛い。

 長州藩が軍を起こしたから、新撰組も会津藩も京を守るために出陣したはずだった。私利私欲のためではなく、勤めをきちんと果たしているつもりだった。

 それが無益で、むしろ害ばかりがあったと言われるならば、斎藤はどうしていいかわからない。俺は何のために人を斬ったのだろうか、町屋に火をかけたのだろうかと、今さら悔いても仕方がないのだ。


 火災を免れた二条城で、今日は幕臣の集まりがあるらしい。身なりを整えた近藤が、新参の隊士らに見送られて屯所を出ていった。

 近藤さんは、あんなに着飾る人だっただろうか。

 我知らず、斎藤は顔をしかめていた。そして、はたと気づいて、ぎょっとした。斎藤の役目は、耳目と刀だ。頭も心も必要ない。意志など持たなくてよいし、誰かに反発するなどあってはならない。

 斎藤は己の内なる声を押し殺した。近藤の振る舞いについて、口を閉ざしたのだ。

 一方、口を開いた者もいた。永倉新八と原田左之助である。

 永倉と原田は、二人とも唐竹を割ったような気性の持ち主で、誰に対しても、はっきりとした物言いをする。であればこそ、上洛以前からの深い仲である近藤に直言することもいとわなかった。

「近藤さん、近頃ちょっと思い違いをしてやしませんか? 近頃のあんたは、どうも以前とは様子が違う。あんたは俺たちのご主人さまじゃあねえ。俺たちはあんたの同志であって、家臣じゃねえんだ」

 永倉の言に、原田も首肯した。

「近藤さんは俺たちの前に立って、俺たちを引っ張る人だ。そいつはみんながわかってる。ただ、俺たちの上に立つってのは話が違うでしょう? 局長だ副長だ総長だと肩書がつくのは、似合いの役割を振ってるだけで、あんたが一番偉いと言ってるわけじゃあねえ」

 近藤は、そんなつもりはない、と短く否定した。目を合わせようとしないのが、嫌な感じだった。

 腰巾着のように近藤に付いて回るたけかんりゅうさいが、揉み手をして言い放った。

「近藤局長は、幕臣として公方さまに期待されているのですよ。登城するからには、格式を整えねばなりませぬ。武士として堂々となさるのが正しゅうございますよ」

 土方が冷えた目をして武田を見ていた。武田は土方に疎まれている。武田もいずれ俺が斬ることになるのかと、斎藤は直感した。


 何にせよ、近藤はそのとき、永倉や原田と対話することを避けた。試衛館で汗を流していた頃には、そんなことはあり得なかった。考えがぶつかるときは、夜を明かしても議論を重ねていたはずだ。

 火種、と呼ぶにはまだ熱が低いだろうか。不和、となら呼び得るだろう。

 近藤も少し自分と似ているところがあると、斎藤は思う。斎藤も近藤も、自分の役割の通りに振る舞う人物だ。

 勝も近藤について、斎藤が思うのと同じように評している。新撰組ははったりがうまいが、その筋書きを作るのは土方で、筋書きどおりに演じるのが近藤だ。はったりに力があるのは、近藤という人物が生まれながらにして持つ、人を惹きつけて引っ張る魅力のためだ。

 そうか、と斎藤は気がついた。

 この不和は、土方の筋書きが今の状況に追いついていないせいだ。新撰組を取り巻く状況が、あまりにも目まぐるしく変わってしまった。土方はまだ、近藤にどんな役割を演じさせるべきか、見極め切れていない。

 今の近藤は、武田が用意した稚拙な筋書きを採ってしまっている。新参者で頭でっかちの武田は、近藤を中心とする本来の新撰組の姿をきちんとわかっていない。だから、不和が生じている。

 一夜、斎藤は土方に呼ばれた。

 端正な顔立ちをして、振る舞いもどこか洒落ている土方は、花街と市井とを問わず女に持てる。土方の凛として冷たい目が男の色気を感じさせるのだという。

 斎藤には男の色気とやらは少しもわからない。ただ、迫力と言い換えるなら、それは正しいと思う。

「なあ、斎藤は最近の近藤さんをどう思う? 永倉や原田の言うように、変わったと思うか? 正直なところを言え。おまえが何を言っても、俺は誰にも告げない」

「追いついていないだけだろう。状況が変わった。人は、まだ変わっていない。いつの間にか変わっていても、自分ではわからない」

「なるほど。確かに近藤さんは、ちょいとのんびりしたところがある。こたびは永倉や原田のほうが確かな見る目を持っている、かな。あいつらには今後も振り回されるかもしれん。目を離すのは、少し怖いな」

「探れ、と?」

 土方は、唇の片端を持ち上げてみせた。

「察しがいい。さすがだな、斎藤」

 勝が斎藤に間者の才を見出したように、あるいはそれ以前から、土方も斎藤に同じ印象を抱いていたらしい。

 利き腕を使い分けることで冷静にも苛烈にもなれる斎藤は、間者として有能である。

 京に出てきてすぐの頃から、斎藤は土方の命じる偵察の任に就いている。斎藤をそうに仕立てた勝にとって、土方によって二重の間者に任じられた斎藤の立場は、きわめて好都合だろう。


 永倉と原田が中心となり、近藤を批判する書面をしたためたのは、元治元年|(一八六四年)八月半ばのことだった。

 近藤勇の非行五箇条という尖った表題が、原田のすっきりとしつつも豪快な字で記された。永倉が、一人ひとりの目をのぞき込むようにして語り掛けた。むろん斎藤もその場に居合わせた。

「新撰組は、このままじゃいけねえ。いつか、どこかで、なにがしかの道筋を決める必要がある。その時が今だと、俺や原田は考えている。近藤さんにも、そのへんをきちっと考えてもらいてえ。だから、この五箇条を持って会津の殿様、松平かたもり公に直談判しに行く。俺と原田は命を懸けて新撰組の行く末を案じているんだと、容保公にもわかっていただかねえと、屯所の中だけで話をしてたんじゃ先が見えねえ」

 五箇条には、永倉や原田らしい単刀直入な文章が綴られていた。

 近藤が皆を家臣扱いして増長するのであれば、新撰組はあるべき姿から外れてしまう。新撰組は出自を問わず仲間を受け入れ、政情の不安な京を守るために働いている。手柄を認められたといっても、近藤が横柄に振る舞うのはよろしくない。

 書き連ねた内容に一つでも嘘や間違いがあれば、腹を切ってもよい。そう宣誓した末尾には、永倉と原田の署名があった。紙幅にはまだ余裕が持たせてある。同意する者を募る、という意味だ。

 自分は五箇条に同意する、と名乗りを上げたしまかいが、筆を取って署名した。

 永倉と原田の目が、斎藤に問うた。斎藤は無言で、島田の隣に自分の名を記した。


 京の秋は紅葉が見事だと讃える声もある。

 実際のところ、秋と呼ぶべき涼気の季節は長くない。暦の上で秋を迎えてからも、厳しい残暑は長引く。山の木々もなかなか色づかないものだ。

 夏の尾を引いた蒸し暑さの中を、斎藤は永倉たちに連れられ、会津藩が駐屯するくろだにこんかいこうみょうおもむいた。

 会津藩士は疲れ気味だった。雪深い代わりに夏は涼しい故郷を離れ、京の暑さにやられている。その上、長州藩を中心とする敵と渡り合い、先月の戦闘と火災の後は荒廃した市中の復興に奔走している。

 おまけに、主君の容保公も半年来、体調を崩している。無理に起き出して仕事をしては、また熱を出したり食事を受けつけなかったりと、ろくに休まないから治るものも治らないのだ。

 狼とも野犬とも称される新撰組だが、容保公には懐いている。

 容保公は、壬生浪士組と呼ばれていた頃からの直属の上役である。会津藩の由緒ある隊名から取って「新撰組」を授けてくれた名づけ親でもある。

 新撰組や会津藩士に手落ちがあろうと、野犬や田舎者とののしられようと、容保公は、すべてゆるすのだ。藩主たる自分があらゆる責任を負うから、皆はただいちに誠忠に励んでほしい。そんな言葉を、荒っぽい新撰組は幾度もたまわった。

 容保公は、病を押して出陣した先の戦闘が体に応えたらしい。会津藩士に容保公への目通りを願い出ると、公は伏せっておいでだと、聞き取りづらい会津訛りで返された。

 しかし、ここは強気の永倉と原田である。新撰組の窮地であるから、どうにかして話を聞いていただきたい、さもなくばここで腹を切る覚悟もあると言い放った。強引なやり口が功を奏し、斎藤たちはほどなく容保公への目通りが叶った。

 斎藤が容保公と対面したのは、これが初めてだった。

 三十を超えたばかりの容保公だが、青白く痩せた顔と線の細い体つきは、育ち切っていない若者のようにすら見えた。一方で、涼やかで端正な顔に浮かぶ笑みは、人生を達観した老人のようでもあった。

「何があったのだ、新撰組よ。申してみよ」

 会津訛りはない。藩主の子は江戸で生まれ、江戸で育つものだ。

 永倉と原田が交互に口を開き、新撰組を取り巻く状況の急変と近藤の態度に対する弾劾を述べた。話を聞き、非行五箇条の書面に目を通した容保公は、一つ、深くうなずいた。

 容保公は、非行五箇条への返答を声にしようとしたとき、急に咳き込んだ。側仕えの会津藩士が慌てて駆け寄り、新撰組の面々もとっさに腰を浮かせかけるのを、容保公は手で制した。

 ぴしりと伸びていた背を丸め、どうにか咳を抑えようと、つぶった目の端に涙をにじませる。今にも壊れてしまいそうな容保の姿に、このおかたも俺と同じ人間なのだと、斎藤は唐突に実感した。

 このおかたは神でも仏でもない。なのに、ひどくたくさんのものを背負っている。重くて苦しいに違いないが、次々と背負わされるものすべてを、りちに引き受け続けている。

 ようやく呼吸の整った容保公が、改めて新撰組と向き合った。

「おぬしらの言いたいことは、よくわかった。新撰組の中には位の上も下もなく、一丸となって誠忠に励みたいという心意気、頼もしく思う。そのためには、誰に対しても妥協することなく、正しいと信じる道を進む心意気も、天晴あっぱれである。ただ、不服や虚偽があれば自分らか近藤かが腹を切るなどと、一足飛びに刀を持ち出すのは、しばし待つがよい」

 刀を持ち出すことを一足飛びと呼ぶのは、どういうことだろうか。

 士道に刀は欠くべきではない。容保公自身、武士の治める世において一国の藩主であり、京都守護職を司る重役であるから、その体から刀を離すときがあってはならぬはずだ。

 斎藤が胸に抱いた疑問に、容保公はすぐさま答えを出してみせた。

「これは儂の考えなのだが、争う前に、まずは話をし、互いを知ることから始めるのがよいと思う。儂は無知で非力で、出来が悪く、行き届かぬところが大きい。京都守護職の儂のもとには日々、なにがしかの不満の声が聞こえてくる。会津藩が策略に掛けられ、侮辱にさらされたこともある。儂とて悔しく、悲しく、腹立たしかった。しかし、儂が己の感情に溺れ、不満の声を全て聞こえぬふりをし、敵対する者を皆殺しにしてもよいのだろうか? そのように我を押し通すために、武士の刀があるのか?」

 静かに微笑みながら言葉を紡ぐ容保公には、決闘も切腹も辞さぬと意気込んでいた新撰組の面々も、しおらしく黙るよりほかなかった。

 斎藤は目上の者を前にしているわけだから、やはりどうしても、頭を低くしてしまう。だが、斎藤が視線を下げるたびに、容保公は柔らかく咎める。

「面を上げよ。儂はおぬしらの顔を見ながら話したいのだ」

 新撰組の皆の顔を順繰りに見つめた容保公は、不意に斎藤をまっすぐに見つめた。

「おぬしが斎藤一であろう? そう目を丸くするな。左利きの豪剣の噂は、我が会津藩の中でも有名なのだ。機会があれば、我が藩の誇る剣士らとの模擬戦に挑んではもらえぬか?」

 まさか容保公に名と顔と剣技を知られているとは、思ってもみなかった。

 斎藤は、はっと胸を衝かれた。この後ろめたい間者の斎藤一にも、顔を上げてよいと言葉を掛けてくれる。微笑みさえ浮かべて見つめてくれるのだ。何とたぐいまれなおかただろうか。

 声が震えるのをどうにか抑えながら、斎藤は言った。

「模擬戦のお誘い、謹んでお受けいたします」

「今の言葉、忘れるでないぞ。必ず都合をつけるゆえ、おぬしは怪我や病気をせず、模擬戦に備えておけ」

「はっ」

「斎藤だけではない。新撰組の皆には健在でいてもらわねば、儂が困る。それはむろん、局長の近藤の身の上も含めてのことだ。近藤には、この松平容保が話をしよう。局内の不満や不和には必ず対話で以て向き合うようにと、儂が近藤に説き聞かせよう。だから、おぬしらには今少し、時を融通してほしい。儂の願い、どうか聞き入れてくれ」

 頭を下げんばかりの容保公に、永倉が色を失い、原田が慌て、斎藤はただ圧倒されていた。

 人の上に立つ者とはこういうおかたのことなのだろうと、胸にすとんと落ちた。近藤も土方も、前に立って引っ張る人間であって、上に立つ器とは違う。それが今、はっきりとわかった。

 誰からともなく平伏すと、容保公はまた笑いながら、面を上げよと言った。

「覚えておいてくれ。儂は、話をすること、知ることからすべてが始まると思うておる。会津藩主松平容保という男は、会津という存在と話をして深く知っていく上で、形を持った。儂は会津の生まれ育ちではない。なればこそ、義と理と忠誠を重んずる会津藩家訓、日新館のじゅうおきてを尊しとして、必ず忠実に守らねばと自らを律している」

 什の掟という響きを、斎藤は懐かしく思った。会津生まれの母か伯父か祖父母か、誰から教わったのかは曖昧だが、会津訛りの易しい言葉で説かれる七つの教訓を、確かに斎藤は知っている。

 会津では皆、什と呼ばれる地縁の中で固く結束し、什と什とが協力し合い、多くの什を束ねた藩全体でまた固く結束する。会津に育つ子供は誰もが、什の掟によって、礼儀と規範を学ぶのだという。

 什の掟とは、と新撰組の面々に語り聞かせようとした容保公の声に重ねて、斎藤は覚えず、それを口ずさんでいた。

「一つ、年上の人の言うことに背いてはなりませぬ。

 一つ、年上の人には御辞儀をしなければなりませぬ。

 一つ、嘘を言うことはなりませぬ。

 一つ、卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。

 一つ、弱い者をいじめてはなりませぬ。

 一つ、戸外で物を食べてはなりませぬ。

 一つ、戸外で女と言葉を交えてはなりませぬ。

 ならぬことはならぬものです」

 すべてを唱え終わるときには、驚きのまなざしが斎藤に集まっていた。

 年上の人の、と声に出してみれば、するすると全ての掟が口を突いて出た。とっくに忘れ去ったつもりの幼い日の記憶を、めったに動かぬ舌がきちんと覚えていた。

「斎藤、おまえ、それは……」

 永倉に問われ、斎藤は慌てて弁明した。

「母方が会津なのです」

 実際のところ、それ以上は斎藤自身にもわからない。家系の来歴や江戸に移り住んだ経緯など、少しも知らないのだ。

 容保公が、声を立てて笑った。ずっと微笑を浮かべていた容保公だが、ここで初めて、心から嬉しそうに笑ったのだ。

「そうか、斎藤は会津の血を引く男か。ならぬことはならぬものです。不条理のまかり通る世の中だが、守るべきものは堅く守らねばならぬ、という意味だ。忍耐と自制、忠誠と義理を重んずる会津の心が、ならぬことはならぬものです、その言葉によく表されている。そうかそうか、新撰組にも会津の心を知る者がおったのか」

 斎藤は、居たたまれなかった。

 什の掟に照らしてみれば、俺はなんと値打ちのない者なのか。嘘つきで、卑怯で、強さを振りかざして人を斬るのが役目だ。なんと恥ずかしい生きざまだろう。

 やがて面会が終わり、金戒光明寺を後にしたときには、斎藤はぐったりと疲れ果てていた。動かぬようにと縛りつけていたはずの心が、あまりにも大きく動いてしまった。たくさんのことを感じ、思ってしまった。

 土方に何と報告すればよいだろうか。

 永倉や原田たちを探るために、斎藤は二人と行動を共にしている。隠し事だらけの胸が詰まったように苦しくて、斎藤は、屯所へ戻ろうとする一行に、すまんと断りを入れた。

「酒を飲んでくる」

 馴染みの店などない。以前、藤堂や沖田と杯を交わした店は、先のどんどん焼けで燃え落ちてしまった。どこへ行けば、酔える酒が飲めるのだろうか。

 斎藤は、行くあても思い浮かばぬまま、きびすを返して歩き出した。

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