僕の彼女は藤美奈子

枕木きのこ

僕の彼女は藤美奈子

「美奈子ー、大丈夫ー?」

「大丈夫大丈夫、もうちょっとだから待っててー」

 校舎のすぐ隣に並び立つように伸びた大木の中ほどで、美奈子は汗を垂らしながら声を上げた。頭上には、どうやってそこまで登ったものか、白い子猫が身体を強張らせて座っている。取り巻きに埋もれるようにして、下着が見えることも厭わない僕の恋人を見上げている。

 この大木がいつから根を生やしていたのかは知らないが、校内ではその異形に対しいくつものジンクスが生まれていた。午後五時のチャイムの鳴る中、大木のもとで告白をすれば成就するだとか、ささくれに忌む人の毛髪を絡めれば呪いが叶うだとか、それはどれもがどこかで聞いたことのあるような何かでしかなかったが、さては子猫も、何かのジンクスに誘われてしまったのか、ともかく、この状況は不自然だった。誰かが美奈子の下着を見たかったのかもしれない。

 歓声が上がり、周囲の視線を一身に集めながら、満面に笑みを湛え、子猫を胸に、美奈子は、ほっと息を漏らした様子だった。

「お前の彼女すげえな」

 野球部の丸坊主が高揚した気持ちを顕わに肩を小突いてくる。それをなんとも言えない、複雑な気持ちで受け流そうとしていると、キャっと、今度は悲鳴が上がる。

 一瞬だった。

 枝をいくつか折りながら、抗いがたい重力に流されるまま、子猫を抱いた美奈子は、大木から滑落した。風船が途端に割れ、子どもたちは泣き喚く。

 数歩、美奈子に近づこうとした。血だまりの中、制服が僅かに風に揺らいでいる。

 通常、見ることのない景色だろう。校舎と、大木と、恋人の臓腑。真っ白だった子猫は血に濡れ、にゃあと鳴いてどこかへ走り去る。

 そして、むくりと起き上がる骸。

 否、美奈子である。

「びっくりしたー」

 状況に見合わぬ惚けた声音で、方々から突き出た骨をぐいぐいと押し込んでいる。

 どこかから、

「よかった……」

 という声が聞こえるのを尻目に、美奈子に近づいていくと、

「あれ、幹太くん! いつから居たの?」

「今日は赤いパンツなんだね」

「もう、やだ!」

 繰り出されたぐしゃぐしゃの拳で、ワイシャツは肉片と血で汚れる。


 保健室で全身至る所に包帯を巻いてもらいながら、美奈子は恩知らずの子猫を慮るような世間話を保険医と交わしていた。向こうもこののんびり屋に慣れた様子で、手際よく腕を上げさせ、胸囲をぐるぐると巻いていく。

「それにしても、何回見ても驚きよ」

 言葉とは裏腹、彼女の目は虚ろで、真に美奈子を見つめてはいなかった。おそらくそれは忌避と言って相違なく、また、僕も恋人でなければ彼女と同等の視線を美奈子に注いでいただろうと思われる。

 つまり往々にして、自身と関係のないことに関しては、他人は目を瞑れるということだ。

「塚原くんも大変でしょう。肩、汚れちゃって」

「汚れだって、ひっどーい。私の血だよ?」

「美奈子、汚れは汚れだからね。誰の血でも」児童書で見たミイラ男のように成り代わっていく彼女から、保険医へと視線を流し、「僕は何一つ大変ではないですよ」

 言葉を吐き出すと、それはどうも嘘くさくてならなかった。

 保険医はこちらを一瞥もしないまま、美奈子の頭部に包帯を回すふりをして、そっと彼女の耳を塞いだ。

「どういう理屈かは知らないし、たぶん解明も望んじゃいないんでしょうけど、こういう奇異な人種の恋人っていうのは、それだけで好奇の目で見られるでしょう」

「先生。僕は、何一つ、大変ではないですよ」

「……そう」耳に据えていた両手で肩をポンと叩くと、「はい、藤さん、終わり」

「何か卑猥な話でもしてたんですかー?」早くも血で滲み始めた包帯を厭うこともなく、「毎度ありがとう、先生!」

 美奈子はそう言って赤いスマイルを描いた。


 美奈子は死ぬことがない。ただしそれは怪我や病気にならない、ということではない。指を切れば痛いし、癌に罹れば苦しい。それでも、彼女は死ぬことはないのだ。

 それは現状、世間から認められることではない。人は当たり前に死にゆくものなのだという通念が横行しているからだ。

 美奈子の両親は決してこうした特異な体質の持ち主ではなかった。一般的なサラリーマンと、一般的な主婦の子である。ただ、何がどうなったのか、彼女は不死身な子だった。

 研究施設に預ける、という考えは彼らには沸かない。当然だ。可愛いわが子が死ななくて、困る人間はいない。もちろん学校や、これから社会に出ていくことを考えれば、彼女がいったいどういう理屈で死なないのか、理解しておくに越したことはない。ただ、彼らはそれを望みはしなかったし、周囲も、彼女を受け入れた。彼女が死ななくて困る人間は、今のところ、彼女の人徳のおかげで一人もいない、ということだ。

 ただし却って、それが心配の種だった。

 彼女は死なない、じゃあ何をやらせてもいい。

 そういう考えが、友人間では頻繁に見受けられるのだ。子猫の一件にせよ、自分が登れば落ちた時に死ぬかもしれないが、藤美奈子ならば、落ちたとしても死ぬことはない、なら、彼女にやらせよう。そういう考えが、些事を彼女に押し付ける要因となり、そして盲目的に、ヒーローのように祭り上げる一端を担うのだ。

 美奈子も、指を切れば痛い。

 ただ、幼少期から死ぬほどの痛みを経験しつくした彼女は、もうすでに痛覚が麻痺している。それは、周囲にも言える。見ていて痛々しい、という感覚が、すでに欠如している。藤美奈子は異端である、それを受け入れているのだから、多少の恩恵はあってもいい。そんな思考が、ちらついて見えるようだった。


 包帯だらけの美奈子は、保健室で借りた車椅子に腰かけ、あらぬほうへ曲がった小指をじっと見つめていた。背後からそれを押しながら、あるいは僕もすでに、麻痺しているのかもしれないと、考えざるを得なかった。

 美奈子は不死身だが、不死身だからといって、再生能力に長けているわけではない。つまり、指を切っただけならば、ほかの人と同じようなスピードで治癒していくのだ。そういう普通の人間らしさが、麻痺を助長する一因になっている節がある。ゆっくりゆっくり、今日の怪我も癒え、また美奈子の顔、身体に戻れば、彼らは彼女が不死身であるなんてことは忘れる。目の前で驚異的なスピードで回復していく様を見せられたら、さすがに人外であることが目に焼き付く。

「これじゃあしばらく学校はお休みだなあ」

「いいじゃないか。勉強は教えるよ」

「幹太くんは頭いいけど、教えるのはうまくないんだよー」

「それでも、教えるから」

「へへ、ありがとう」

 車椅子の中のこの異常な人体を、町の人々も受け入れている。あまつさえ、挨拶や世間話をしてくる始末だ。町全体が、彼女を、異常として受け入れている。

 それが僕は心配だった。

 否、藤美奈子のことを心配しているのは、きっと僕だけなのだと、それが、辛かったのだ。

 木から落ちれば血だらけの異形に成り代わってしまう彼女も、怪我さえしていなければ普通の女の子だ。ファッションに気を遣い、友人と寄り道をし、母親の手伝いをする。普通の、女の子のはずなのに、彼女はただ一点、死なないというだけで、周囲からは異常として受け入れられている。

 死ななくて、困りはしないが、自分とは違う、別のものだと、忌避している。

 美奈子はきっと鈍感だから、周囲のそうした虚ろな目に、気づいていない。彼女の近くにいて、彼女のことを思っているからこそ、たぶん、僕にはわかってしまう。

「脳がぐちゃぐちゃになったら」

 不意に美奈子は言葉を零したが、あとが続かなかった。学校帰りの赤黒のランドセルが、バタバタと隣を通り抜けていく。

 脳がぐちゃぐちゃになったら。

 彼女はその先を続けなかったし、僕はその先を聞くことも出来なかった。

 脳がぐちゃぐちゃになったら、今勉強しても意味なんてないのかな。

 そんなことを期待している僕は、決して、頭などよくはないのだろう。


「もう飛び降りる! くそがくそがくそが!」

「やめて、落ち着いて!」

 どうしてこの場を選んでしまったのか、校舎の屋上、フェンスの向こうで興奮している竹内を見ていた。左右、後方にも人は並び立ち、おそらくはグラウンドからも、彼の姿を見ている人間が多く居るだろう。

 昼休みを選んだのは、おそらく竹内のプライドの問題だった。普段から目立つことがなく、いじめられもしなければいじめもしないような、無難な人間だったからこそ、今、この決断の瞬間を誰しもに見ていてもらいたいのだろう。浅はかな思考が見て取れた。

 彼が声高に叫ぶにいわく、クラスメイトの誰それにパンを買いに行けと怒鳴られたと、そんな程度のことがきっかけらしかった。いじめられもしていなければ、打たれ強いわけもなく、いつもいつもあれやこれや溜め込んでいるんだとかどうとかと、誰しもが思うようなことをつらつらと喚いていた。

 竹内のことが心配になったわけではない。僕が心配しているのは、彼のプライドのための雄姿も、結局は、美奈子のほうへの期待へと、移り変わっていくのが、周囲のざわめきで理解できたから、どうか彼女がこの場に現れないように、という一点だけだった。

 ただ、美奈子は、子猫の時の傷も癒えぬ身体を引きずりながら、屋上まで来てしまった。それだけで、誰かが安堵の息を漏らす音が、聞こえてきそうだった。

「やめなよ!」

 竹内は去年、僕や美奈子と同じクラスだった。特別に仲が良かったわけでもなく、むしろ、ほとんど関わり合いのない人間だったが、それでも、美奈子の性格上、これを見て見ぬふりはできなかった。周囲とは裏腹に、彼女はそうしてすべてのものを愛してしまうから、報われないのだ。

「うるせえ! お前が来たら、本当に飛び降りるぞ!」

「おつついて!」

 よっぽど不安になる声を出しながら、おずおずと足を進める彼女の腕を、僕は取った。グラウンドからはまだ声がいくつか上がっているが、その瞬間、屋上はしんと静まり、風が抜けていくのが、妙に心地よく、耳に雑音を齎す。

「構うことないよ」

「幹太くん! なんで!」

「美奈子は不死身だよ、でも痛い思いをする必要はない。この間の大木もそうだったけど、今回はあれよりも高いんだ。身体が、四肢が、そのままである保障はない。千切れたらどれくらいで治るか、覚えてる?」

 美奈子の身体が強張るのがわかる。僕は意地悪だ。

 同じ小学校に通っていた僕と美奈子は、それまでお互いを認識すらしていなかったのだろうと思うが、僕が交通事故に巻き込まれそうになったのを彼女が助けてくれたおかげで、ぐっと親密になった。目の前で右手と左足が捥げ、さらに目玉が飛びてても、よかったよかった、と口元に笑みを湛えている彼女の姿は、当時の僕にはそれなりにショッキングなものだったが、どうしてか、彼女のその勇敢さに淡い恋心を抱いたのも事実だった。

 献身的、と言われると、少々含みがありそうで嫌いだったが、当時の僕は献身的に彼女に尽くした。僕のせいで、と言ってしまうと、彼女はきっと嫌うだろうが、通えなくなってしまった分の学業は、僕が教える形で補った。

 好きだ、と伝えたのは、分裂した右手と左足を彼女の両親がパズルのようにようやく組み合わせ、元の位置に縫い合わせ、血管や筋肉が接合した、中学二年の時だった。腐らなかったのは、彼女の末端まで、不死身だからだろう。そして僕が腐らなかったのも、彼女のおかげだと、思えていた。

 長い年月を要する。それを賭けるだけの価値が、竹内にあるのか。

 僕は意地悪だ。だから問いかけた。

「大丈夫」

 でも美奈子は笑って、僕の腕をそっと引き剥がした。両手で、包み込むようにして、大事そうに僕の手を握り、

「大丈夫」もう一度重ねると、「私、不死身だから。だから、ちゃんと治るまで、近くに居てね」

 パッと手を放し、一心に竹内のほうへと駆け出した。

 手を取るより早く、名前を呼ぶより早く、彼女はフェンスをよじ登ると、抵抗した竹内ともみ合って、そのまま、地上へと落下していった。

 グラウンドはすでに大きな円を作って、この二つの異形を眺めていた。

 竹内は死んだ。美奈子はまだ、生きている。

 ぐちゃぐちゃで、ドロドロになった美奈子は、痙攣を起こしながら、血が噴き出ているのも厭わず、誰かを求めるように、手を伸ばしていた。

 ただ、そこにいる誰も、彼女の手を取ってやろうとしなかった。

「うわ、ひっでえ……」

「助けられなかったら意味ないじゃん……」

「これって藤が殺したことになんの?」

「美奈子!」

 駆け出した僕が、ざわめきを掻き消すはずの僕の声が、届くより早く、彼女の手は、萎びた花のようにくたりと倒れた。

 彼女は、死なないのだ。


 結局、美奈子の両親の決断で、下半身の補修は諦めることになった。細々としすぎていて、前回の時のようにはいかないと、そう判断したものらしかった。

 彼女は自室で、三割ほど失ったままの頭部を窓のほうに向け、一時間ほど、こちらに顔を見せてはくれなかった。

 無言のまま、時計が一定の間隔で時を刻むのをそれとなく耳にして、この時間の無慈悲さに、思わず涙が出そうになる。僕は無力だ。力がない。何、一つ。

「脳がぐちゃぐちゃになったら」

 時折血を吐きながら、声帯のいかれたしわがれた声で、美奈子はいつかの言葉を唱えた。

「勉強、教えてないね」

 淡い期待も、無力の僕が発するだけで力を持たない。意味を持たない。

「脳がぐちゃぐちゃになったら」呪詛のように復唱し、「私も、死ねるのかな」

 彼女はついに、こちらを向いた。

 右目から流れる一筋の涙が、どれほどの重みをもって降りていくのか。僕の想像では補いきれない。ずっと、どんな時でも、楽観的に、笑顔で済ませてきた彼女が、そこにどれだけの思いを乗せているのか。

 泣いてしまいそうだった。でも、顔を覆いはしなかった。見ていなくてはならない。涙がどれだけ出てしまっても、どれだけ不細工な顔になっていても、彼女のこの姿から目を離していけないのだと、そう強く、思った。

「幹太くん」でも、もう、すべて、遅かったのだ。「お願い、私を殺して」

 なぜ今までもっと強く、彼女の手を取らなかった。

 なぜ今までもっと強く、彼女に声を投げなかった。

 なぜ今までもっと。

 考える言葉はすべてが後悔だった。達観したふりをして、彼女を普通として扱おうと意識しすぎるあまり、誰よりも、僕は彼女のことを恐れていたのではないだろうか。どれだけグロテスクな姿になろうと、それを受け入れていたのは、僕も周囲と同じだ。周りが増長しあれやこれやと頼むのを、聞き流していたのは他ならない僕じゃないか。

 僕は何一つ大変じゃない。

 当たり前だ。目を、瞑っていたのだから。

 当事者に、なろうとすらしていなかった。好奇の目を忌避していた。僕も、有象無象と同じだ。クラスメイトと、この町と、何も変わらない。恋人、というだけで、特別になったつもりだった。

 僕も、彼女が、本当は怖かった。


「幹太くん。お願い、私を殺して」


 誰も、受け入れてくれなくていい。

 僕は異常だ。異常であって、その異常を通常と捉える必要はない。大木に呪いを任せるでも、校舎から突き落とすでも、なんでもしてくれていい。

 泣きながら、手近にあったボールペンを握る。彼女の腕を、足を、胸を、顔を、刺していく。やがて先が折れると、今度は扇風機を振り被って胴体へ打ち付ける。血を噴き出し、骨の折れる音の中呻く美奈子を、僕は愛していた。

 どうか死んでくれ、どうか。

 愛しているから。

 お願いを、叶えさせてくれ。

 僕の彼女は藤美奈子、生涯で君一人だから。

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