第5話 夢の化け物 化け物の夢
その昔、ここいら一帯を治めていた天木という豪族のお話です。
この地域は切りだった崖が多く、深い山のたくさんある場所で、あまり人は住んでいませんでしたが、手つかずの自然が多く、気候が穏やかで作物もよく実り、川には獲りきれないほどの魚が、そして木には食べられる果物がたくさん生っていたので、人々は穏やかに暮らしていました。彼らは、山の恵みをよその村に分け、お返しに、たくさんの富を得ることができました。
ある時、一族の長であった天木重兵衛のもとに、玉のような娘が生まれました。
娘はみつと名付けられ、蝶よ花よと育てられ、美しい娘に育ちました。
みつが十六歳になる頃には、みつは色んな若者から求婚を受けるようになります。
しかし重兵衛は、みつをどの若者にも嫁がせる気はありませんでした。
みつを、街で一番大きな長者の息子のもとにでもお嫁にいかせるつもりだったからです。
けれどもみつは、山で遊んだり、沢の水を飲んだり、木の上で昼寝をしたりするのが好きだったので、街になんて行きたくないと思っていました。
するとある日、重兵衛のお屋敷に、山の化け物が現れて、こう言うのでした。
「やい、重兵衛。お前たちは山のものをたくさん勝手に持っていく。山には、いつもなんの見返りもない。おれは怒ったぞ。おれは、お前の一番大事にしているものを頂くことにした」
「分かった。約束する。何でもお前にくれてやる。だからさっさと屋敷から出ていってくれ」
重兵衛も、お屋敷の者たちも、みんな震え上がりました。
そこに、みつがふと現れると、化け物は「ややっ」と言いました。
「なんと美しい娘だ。お前、名前は何という」
「みつ」
みつは、ちっとも化け物を怖がりませんでした。
「みつ。決めたぞ。おれは、お前を嫁に貰うおう」
山の化け物は、熊のように体が大きく、二本脚で立っていましたが、決して熊ではないのでした。
化け物は、大きな目で重兵衛をぎろりと睨みつけると、三角の耳と太くて長い尻尾をぴんと立て、鋭い爪でばきばきとお屋敷を荒らして、
「いいな、必ずだぞ」
と言い残して、去っていきました。
みつは、化け物ですら虜にしてしまっていたのでした。
「これは困ったことになった」
みつはけろりとしていましたが、重兵衛は可愛がっているみつを、化け物のもとになど嫁がせたくはありません。
重兵衛は、村人に相談して、急いでみつの祝言を挙げることにしました。
化け物を諦めさせるために、うその祝言を挙げることにしたのです。
村の若者をお婿さんの代わりにして、みつは花嫁衣裳を着せられました。
そして、お屋敷の中はご馳走や、高価なもので埋め尽くされました。
みつは、それまで口を利いたこともなかった若者の横に、ちょこんと座らされていました。
しかし、宴も半ばという頃に、突然お屋敷の天井が崩れ、外から山の化け物が飛び込んできたのです。
約束を破ろうとした重兵衛も、重兵衛に協力した若者も、あっという間に潰されてしまい、
「今日が祝言だったのか。約束の通り、花嫁は貰っていくぞ」
と、みつはそのまま、化け物に連れ去られてしまいました。
みつが屋敷に帰ってきたのは、それから何年か経った後のことでした。
みつは出家して尼になり、化け物に踏みつぶされてしまった重兵衛と、うそのお婿さんを供養して、しずかにお経を読む暮らしをしたそうです。
「――う」
エンジュは自室で、崎守に借りた古い児童書を読んでいた。
それは、大昔にこの地域にあった民話をまとめたという本だった。
ひどい殺され方をした妻が化けて夫に復讐する話や、心のきれいな男が地蔵に助けられて九死に一生を得るような怪談もあったが、中には狐や狸に騙されるといった、現在ならば魔族とされる化け物の類の話もたくさん出てきた。
少しは勉強になるかもしれないということで押し付けられた本ではあったが、『山の化け物のお嫁さん』という話を読んで、エンジュはゾッとした。
エンジュの母親の名前は、天木しずといった。
「……まさかね」
崎守は、このことを分かっていてエンジュに本を渡したのだろうか。
心に負担のかかることを考えすぎると、すぐに身体が変化してしまいそうになるので、エンジュは思考を切り替えて、ごろりと横になった。
この日は外に雨が降っていて、いつにもまして体が重かった。
変化している時は、まるで見える世界そのものが変わったように体が軽くなり、視界も頭の中もすっきりと晴れるのだが、それを押さえている今は、とにかく常に眠い。
本当は例のレストランに行きたい気持ちはあったのだが、エンジュはこの強烈な眠気に勝てず、眠りに落ちた。
夢を見た。
夢の中で、少女の声が響く。
「――なんていう茶番なんだろう」
君は誰?
エンジュが話しかけると、少女が振り返った。
彼女と目が合った瞬間、エンジュはみつになっていた。
みつは、宴の最中に呆れていた。
偽物の祝言。
隣に座っている偽物の花婿は、怖い顔をした青年だった。
陽に焼けた肌に、仕立てばかりにお金をかけた晴れ着が、全然似合わない。ずっと不機嫌そうで、むっつりと押し黙っている。
(きっと、こんな馬鹿馬鹿しいことに付き合わされて、怒っているんだ……)
みつは、青年に謝りたかった。
今回の一件は、すべて父親の重兵衛に責任があることだと、みつには分かっていた。
そして、山からの恵みも、決して無限ではないことも。
村が困らない分だけ、自分たちが食べる分だけ、分けて貰えば良かったものを、重兵衛は欲を出して、魚も木の実も獲り尽くそうとした。そしてそれを、外の人間に高値で売った。
そうして財を築いた結果、山に棲む化け物の怒りを買った。
自業自得だと、みつは思っていた。
だから自分が化け物にその対価として求められれば、ついていくつもりだった。 それは嫌だとかそういった次元の話ではなく、みつには道理だと思えた。
「娘はもう嫁いだ身なので、嫁にはやれない。そう申し開きをして、別な娘を化け物にあてがう。身寄りのない下女の、キミ辺りが良いだろう。完璧な計画だ」
重兵衛は酒を飲んで笑っていた。
みつは舌打ちをした。
そばに控えていたキミがびくりと震え、あかぎれだらけの自分の手をじっと見つめていた。
「キミ……」
みつは、キミの手にそっと触れると、
「心配しないで。私は、キミを化け物のとこになんか、やらないわ」
「みつさま……」
「こんなこと、上手くいきっこないのよ。だって化け物は、人間の尺度では動いてくれないのだから」
みつは、昔から好奇心が強く、一度何かを知りたいと思うと、徹底的に調べた。
蔵の奥で何百年も誰も触っていなかった朽ちかけの書物でさえ紐解いたり、花でも動物でも本物が見たいと思えば、一人で屋敷を抜け出し、山深い場所まで探しに行ったりした。
そのため、他の人間よりもはるかに化け物に対する知識が深く、また、考え方もすこし普通の少女と違っていた。
みつは、自分が村の者たちに陰口を叩かれていることも知っていた。
あの日、化け物が来てもみつは怯えなかった。
そういうものがいることを知っていたから、不思議にも思わなかった。
そのことが、村人の目には異質に思えたようだった。
最初のうちは、重兵衛の責任を取らされて可哀想な子だとも言われていたが、みつの美しさを妬んだ女たちは、やがて「みつはおかしい」と言い始めた。狭い村のことで、それが女たちの、ひいては村人たちの共通認識になることに、そう時間はかからなかった。
重兵衛が偽の祝言を挙げようと言い出してから、村人の態度はますます冷やかになっていった。天木の者以外がとばっちりを食うのが、目に見えていたからだった。
「みつ、お前は必ず、良いところに嫁がせてやるからなあ……。こんなちんけな村じゃなく、街で一番の若者のとこに行って、死ぬまで贅沢をするんだ。立派な花嫁御寮にして。わしが、そうさせてやるからなあ……」
酒に溺れた重兵衛の目は、どこまでも濁っていた。
みつはそれを嫌悪し、諌めようとしたが、隣に座っていた花婿役の青年が突然、「畜生め!」と怒鳴ったので、びっくりして言葉が引っ込んでしまった。
しかし、彼の怒っていた理由は、みつの想像を超えていた。
「やっと祝言を挙げられると思ったのに、嘘の婚礼だと? ふざけるな」
青年は、みつのことが好きだったのだ。
そして本当に、みつの婿になれると思っていたらしい。あるいは、重兵衛がそう騙したのかもしれない。それが、役目を終えればさっさと元の暮らしに戻されるのだと知って、憤っているのだった。
「あの――」
みつの言葉は、突然の惨事にさえぎられた。
彼女が口を開いた瞬間、雷と共に化け物が天井を突き破って現れたのだった。
「なんと、祝言は今日だったか。さあみつ、来い」
化け物は、崩れた屋根ごと重兵衛を踏んづけていた。
「ひぃぃっ……」
キミが、悲鳴を上げて目を逸らす。
重兵衛は一目見て助からない状態だと分かった。中のものが、外に飛び出していた。
そして、みつの隣にいたはずの花婿も、落ちた梁の下敷きになっていた。
「あっ……」
みつは咄嗟に梁をどかそうとしたが、化け物がそれを阻んだ。
化け物はみつを軽々と抱え上げると、
「それでは皆の衆。約束通り、花嫁は貰っていくぞ」
重兵衛が雇ったという用心棒たちが慌てて駆け付けたが、矢も刀も、化け物が尻尾を一薙ぎしただけで蹴散らされてしまった。まるで、小枝が折れるような様子だった。
みつは、あっという間に山奥の化け物のねぐらに連れ去られてしまった。
化け物のねぐらは、木の葉が敷き詰められた洞窟の中だった。
みつは、ここで自分は食われてしまうのだろうと思った。
しかし、化け物はそんな素振りなど一切見せず、魚を焼いたものや、果物、そして村からかっぱらってきた酒などをみつに勧めたりした。
「お前は、私を食べるために攫ったのではないの?」
みつが不思議そうに問うと、
「お嫁さんを食う馬鹿がどこにいる」
と、化け物はげらげらと笑った。みつは拍子抜けした。
その日から、化け物とみつは洞窟の中で暮らし始めた。
みつは化け物を怖がらなかったが、化け物はたまに気を遣って、人間に化けるようになっていた。
それは、化け物に殺された花婿の姿だった。
みつはそれを見る度に驚き、泣きじゃくった。
何故自分でも泣いているのか、みつにも分からなかったが、やがてみつは理解した。
嘘だらけの祝言の中で、彼の愛だけが本物だった。
村人たちが次々と手のひらを返し、みつに冷たくなっていっても、彼だけは、本気でみつを娶るつもりでいたのだ。
だけどみつは、それを叶えてやれなかった。
化け物はみつが泣くたびに、花婿の姿のまま、おろおろとみつを心配して、「どこか痛いのか」「病なのか」と、みつにくっついたり、水を汲みに行ったりした。
みつは、祝言の日にずっと睨み顔だった花婿が、屈託なく笑ったり狼狽えたりする姿を眺めて、ますます何が何だか分からなくなっていった。
自分は、狂ってしまうのではないだろうか。
それまで人に執着をしたことのなかったみつは、揺れた。
みつは、殺された花婿のことを、死んでから好きになってしまった。
自分を娶ったのはその人を殺した化け物で、だけど、化け物は彼女が怖がらないように、一生懸命花婿の姿を真似るから、みつは余計に毎日が虚しくて、なのにどこか幸せで、空ばかり見るようになっていた。
あの人の代わりに、化け物を好きになってもいいのだろうか。
それは、とてもいけない事なのかもしれない。
「あの人に……申し訳がなさすぎる」
だって私は、あの人の名前すら知らない。
私は、こんなふうにメソメソと泣くような女ではなかったのに。
「憎い。私はお前が、憎くてたまらないわ……」
みつは、化け物に抱きしめられながら、ぽつりと言った。
化け物は人間と化け物の中間のような姿をしていたが、不意にくしゃりと化け物の姿になったかと思うと、人間の――花婿の姿になったりもした。化けるのが下手なのだった。
「憎んでも、構わんさ。お前は、もう俺の妻だ。それだけは、変わらない」
「それなら」
それなら、仕方ないと思った。
そこで、目が覚めた。
化け物は、なぜ「みつ」が怒っていたか、なぜそれでも化け物から離れられないのか、まるで理解していなかった。それはとても、悲しい事であったなぁとエンジュは思った。
「……ふう」
リアルすぎて怖い夢だった。
まるで、夢枕に先祖でも立ったのではないかとも思ったが、またうとうととまどろんでいるうちに、さっきまでみていた壮大な夢はほとんど忘れてしまい、遠くで女中が「ごはんですよぅ……」と呼ぶ声が聞こえるなあと思いながら、再びことりと眠りについてしまった。
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