この半分の世界で

戸田ミケ

第1話 鏑矢エンジュ

【プロローグ】



 ――かつて、この世界が、大規模な地殻変動や数々の大天災により、ほぼひとつの大陸となった時、人間と魔族は領土を奪い合い、戦争をした。そして、長い長い戦いの末に、魔王が「世界の半分で手を打とう」と言った。

 言われたのは当時、数々の国の連合に組織された魔族の討伐隊の隊長、のちに勇者と呼ばれた男だった。

 彼は人間でありながらその提案を受け入れた。もう、人間も魔物も、疲弊していた。彼らは戦うごとに家族を、同胞を、そして魂を消耗させていた。両者とも限界だったのだ。

 かくして勇者は人間代表となり、魔王と停戦を結んだ者として、世界人類連合の初代の長となった。それ以来、魔族と人間はそれぞれの領地を統一し、互いの世界を真っ二つに分けて生きることになった。

 これにより、魔族は人間を襲うことを禁じられ、人間もまた、理由なく魔族を殺してはならないという、新世界における初めてにして絶対の掟が作られた。

 

 人間は人間、魔族は魔族。

 棲み分けをきちんと。


 大陸を縦断する長い高い壁が築かれ、お互いの種族は行き来が出来ないようになった。これにより、人間は魔族に作物を荒らされたり、家畜を盗み食いされたり、攫われて殺されたりすることが無くなった。

 魔族も恨みを買って、住処に毒を撒かれて関係のない仲間まで根こそぎ殺されたり、人間に捕まって見世物や奴隷として扱われるようなことがなくなった。

大勢の人間や魔物が抱えていた、お互い、静かに暮らしたいという願いは叶った。


 しばらくは旧来の「国制度」の撤廃や、壁を築くにあたっての人間と魔族間での線引き問題や、住み慣れた土地を追い出された移民問題など、あちこちで諍いはあったが、五百年経つ頃には、次第にそれも沈下していった。

 いまは、魔王との停戦協定から六百年経つ。そして、最後の人間同士の大戦争から、五十年が過ぎていた。

 もっとも、寿命の長い魔族にとっては、この六百年という時間もあっという間だったかもしれないし、まだ魔族側には納得していない者も多いのではないかという物騒な噂も、たまに聞く。

 ただ、人間と魔族が殺し合わない世界を作ろうという魔王の意志と権力は強く、魔族は基本的に魔王に逆らわないらしいので、腹いせに人間を攫って殺して食う魔物も、今はいない……とされている。一応は。

 一方で人間はというと、何百年も同じ長が君臨しているわけでもなく。魔法や治世、そして武術に長けた人間が、代々いろんな地域から選ばれ、連合の長を継いだ。連合長の世襲は禁じられているため、一部の人間が権力を独占することはないらしい。授業でもそう習った。

 だから今の人類にとって魔族というのは、壁を隔てた向こう側の、おとぎ話のような存在でしかない。

 ――はずだった。



 鏑矢エンジュは、うらぶれた神社の小さな社殿の片隅で、鞄を枕にして仰向けになり、すやすやと寝入っていた。

 花の匂いのする暖かい風がやわらかに吹きつけ、彼の髪を揺らす。木々や草花がさらさらと揺れる音のみが響く。この神社はいつも無人で、しかもエンジュのいる場所は山肌に面していて、心地よい日蔭で、表通りからは死角になっているので、誰かに見咎められるような心配もない。

 ふと、彼は一度小さく体を震わせ、その衝撃で目を覚ました。

 胸の上に開きっぱなしの文庫本を載せたまま、彼は制服の袖を捲って腕時計を見た。

 二時三十分。昼休みにすこし学校から抜け出して休憩するつもりだったのだが、思いのほかぐっすりと眠ってしまっていたらしい。

 もう講義の始まっている時間だったが、ここから学校までゆうに十五分はかかる。すると、今から戻ったところで講義は半分近く終わっていることになる。

 やめだやめだ。行くことはない。彼は居直って寝返りを打った。再び、ぎゅっと目を閉じる。

 彼は人類連合へ進むための予備学校に通っている。この春に進級試験をトップの成績で通過し、三年生になったばかりだ。

 だが、彼自身はさほど真面目な生徒ではなかった。

 自身の所属する学校、そして将来進むであろう『人類連合軍』という機関に対して、エンジュはほかの生徒のように忠誠を誓うことができないからだった。

今日日、そういった学生も珍しくはないが、かの名門と謳われた鏑矢家の四男坊たる自分がそれでいいのだろうか、という迷いもあった。しかしどんなに自己嫌悪に陥ろうが、簡単に心の中というものは変わらない。

 しかも父親の鏑矢清十は、ここ、アリノヒフキの区の人類連合支部の現支部長を務めている。余計にプレッシャーだった。

 エンジュは父親が苦手だった。早い話が、嫌いだった。

 しかし、父親に逆らった生き方をする手段も勇気も無い。だからエンジュはただ、鬱屈とした毎日を過ごしていた。


 人類連合の本部は、首都のテンライ区にある。

 人類連合とは、人類の発展のための集まりである。人類領土の各地からエリートが集められて、日々魔族への防衛や世界平和のために活動しているらしい。所属しているのは兵器の扱いに慣れたムキムキの人間だったり、魔族と契約せずに世界の真理へ到達し、それを強制的に書き換えることで魔法を会得した者、つまり魔法使いや、先祖が魔物と契約したことで、血統の中に魔術を織り込み、生まれながらに代々魔法を扱える者――過去に現在違法だと登録させている麻薬や生贄を使った儀式を多く用いたことから、魔法使いたちとは区別され、呪術師と呼ばれる人たちなんかもいるという。

 そのため、連合は人類領土の各地域に拠点を持っている。それぞれの自治組織や、警察官達とはまた違う仕事をしているらしいが、詳しくは興味が無かったので覚えていなかった。

 エンジュは表向きは、大人しくて優秀な生徒だったが、彼は猫をかぶっているので、皮肉屋で授業もさぼる。

 だがきっと、世間の誰もが、エンジュがそんな毒を吐くような青年だとは思っていないだろう。

 エンジュは、母親に似てとても華奢だった。それなりに身長は高いのに、いつも猫背でいるため、実物よりも小柄に見えた。動きもゆったりと優しいため、青年というよりは年を重ねてしまった少年、と呼ぶに近い。体はあまり強くなく、毎度お決まりの日蔭で昼寝をしているか、自室に閉じこもって静かに本を読んでいるかのどちらかだった。

 間違っても次兄のように、朝晩上半身裸で庭に出て素振りをし、暇さえあれば体を鍛えるような汗臭いタイプではない。

 そのせいか、エンジュの肌は抜けるように白く、顔の輪郭もなめらかな卵型で、 長い睫毛に縁取られた瞳は凛と大きく、本人が自覚している以上に、彼は清楚で、しかし人目を引く容姿をしていた。

 彼は、髪の色も他の兄達よりすこし薄い。陽に透かすと、ますますそれが顕著になる。

 兄達は皆、それなりに個性はあれど、父親譲りの四角いえらの張った顔をしていて、彼とは対照的に筋骨隆々なのだった。エンジュはそれも、コンプレックスに思っていた。

 一人だけ母親が違うからだ。だが彼はそんな複雑な心境などおくびにも出さず、いつも何かあるたびに、彼は曖昧に微笑むのだった。

 誰にも逆らわない。主張もしない。

 嘘は吐かないが、本当のことも言わない。

 他者との対立は時間の無駄なので、怒られればさっさと謝ってしまう。

 目上の者に従順で、成績優秀で、しょっちゅう風邪をこじらせては死にかけて、心配した女中を泣かせること以外、人を困らせるようなこともしなかった。

だから人類の平和や、人類が常に抱いている不安――人類領土への魔族侵入の警戒など、そういったことも、エンジュはあまり興味が無かった。

 もっとも、そんなこと口に出そうものなら、すぐさま「この馬鹿者が!」という怒号と共に次兄の拳が飛んでくることは明白だったので、言わない。

 エンジュは常に、良き息子であり、賢き弟であり、品行方正で成績優秀な大人しい学生、というものを演じている。

 エンジュが人類連合の予備学校に通っているのも、代々鏑矢家がそういう家系だったから、渋々同じような進路を歩まされているに過ぎない。

 しかし、虚弱なエンジュは、どれだけ勉強や運動が出来たところで、魔術の素養も無ければ持久力も人並み以下とあって、父親からは何も期待されていなかった。

 何しろ彼は、たった一人だけの腹違いなのである。

 彼の父も、年の離れた上の兄達も、みんな立派に人類連合で活躍しているというのに、自分に出来ることはこの程度かと、定期試験の度に返ってきた満点の答案用紙を破きながら、エンジュはいつも虚しさを覚えていた。

 エンジュには、母親もいない。

 彼が幼いころに、死んでしまった。

 だからエンジュには泣きつく相手も、家の中にきちんとした居場所も無く、せいぜいこうして、たまに成績に差支えのない程度に授業をさぼっては不貞寝をするしかないのだった。

 ――これまでのエンジュは。


(身体の変化は、常に記録をとっておけって言われてたな……)

 エンジュが次に目を覚ました時、陽が傾きかけていた。若干、肌寒さを感じる。 エンジュは鞄を引き寄せ、巾着袋を取り出した。

 中には、ビニールで小包装された錠剤が入っている。……最後の一つだった。

 エンジュは水筒の水でその錠剤を飲み下すと、ふらりと立ち上がった。

 彼は傾きかけた神社を後にして、学校のすぐそばにひっそりと建てられた診療所を目指した。そこは学校医にして魔法医学者である、自称若き天才医師が開業している小ぢんまりとした医療施設で、エンジュはそこの患者なのである。

 今日は、そこで診察を受けて、薬を貰わなければいけない。

 

 薬を飲まなければエンジュは、人間として生きられないのだ。


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