後篇
本当は今日からしばらくの間、二人で泊まりがけの旅行に行く予定でいた。大学をサボって、みんなに秘密で。ワクワクしながら、計画を立てた。
だから、家族に隠れて前日から大きい荷物を用意していたんだけど……もう、それは全部部屋に置いてきちゃった。
大荷物だけを置き去りに、もぬけの殻になったあたしの部屋を見たら、家族はどう思うんだろう。異常だと、思うのだろうか。
でも、そんなことはもうどうでもいい。
午後一の電車で行こうと、提案したのはあたしだ。
あたしが朝弱いことを知っているし、幸い今日は休みだ。家族には遊びに行くと言って出て行けばいいし、人も多いだろうからきっと怪しまれることはない。休暇はたっぷりあるからゆっくりできると、神流もすぐに賛成してくれた。
でもあたしは最初から、家族が起きるより早い時間に出る、始発の電車で先に行く予定だった。苦手な早起きを頑張ってでも。
そしてそのまま、どこにも帰らないつもりでいた。
「……あたしがいない、駅のホームに着いたとき」
リピート再生にして、何度も何度も同じ曲を聴く。その歌詞を、あたしは気付けばなぞるように口ずさんでいた。
「あなたは、あたしが先に行ってしまったことに気づく」
何度も繋ぎ、体温を共にした手。その片割れをじっと見る。
何の変哲もない、細っこくて弱々しそうな、いかにも少女ですとでも言わんばかりの頼りない手のひら。
これじゃまるで、あたし一人じゃ何もできませんと主張しているみたい。
「この汽車の音は、あなたにどう届くのかしら」
いつかこの手が、幸せをつかむ日なんてあるんだろうか。あの子への未練を断ち切れないまま、鎖で縛られたように不自由なこの手が。
あたしに、幸せを乞う権利なんてあるんだろうか。
「百マイル、離れた先から」
こんな、身勝手なあたしに。
やがて耳元で音楽が流れる向こう、出発のアナウンスが鳴り響き、ゆっくりと電車は走り出した。故郷を、一番見慣れた最寄駅からの景色を、離れ出す。
「……ごめんね、」
ごめんね、神流。
指切りした手を解いて、一人で旅立つあたしを……許して、なんて甘っちょろいことは言わないし、言えないんだけど。
『――ねぇ三久、ここのホテルなんてどう? わたしと三久の好きな、オーシャンビューだよ』
神流の嬉しそうな声を、今でもはっきりと思い出せる。
『昼間は、わたしが海で泳いでさ、三久がバルコニーで絵を描いて……お互いに、好きなことするの。そんでもって夜はおんなじ空間で二人、誰にも邪魔されないでまったりするの。いいと思わない?』
ベッドの枕元に旅先のカタログを開いて、二人で行くならここがいいとか、二人で住むならこういう機能があるといいよねとか……一生叶うはずなどないなんて初めからわかってる、幸せな夢物語をつづった。
それでも、いい。
それでもあたしたちは確かに、幸せだった。
常に隣にお互いの存在さえあれば、どこにだって行くことができた。それくらい、あたしたちは想い合っていた。
あなたの部屋に置いてある、見慣れたシングルベッドの上。
二人して寝っ転がって、手を絡めて何回も口づけを交わしながら、ずっと一緒にいようねって……あたしたち、誓ったよね。
女同士でも、本来許されないような関係でも、それでもあたしたちはずっと一緒だよ、って。
本当に、そう思っていたんだよ。
たとえ籍を入れられなくても、二人並んで堂々とみんなの前で立っていられなくても、あたしたちは確かに、ずっと一緒の人生を歩んでいくんだって。
どんな肩書だってかまわない。あたしの隣はあなたで、あなたの隣はずっとあたし。そう、確かに思っていた。
そう、なるはずだった。
でも、ごめんね。
あたし、あなたとの約束を破ってしまった。
だって、知っていた。
神流は大学を卒業したら、すぐに結婚することになるんだって。
まだ二年くらい先の話だけど、神流の家が今から準備を少しずつ進めているってこと、あたしは知ってる。前に神流の家に行ったとき、神流の両親が話しているのを聞いてしまったから。
相手は神流のお父さんが、恩人と慕っている方の息子さんだって。あたしたちより少し年上で、あたしも会ったことがある。神流にとっては本当のお兄さんみたいな存在なんだよね。
そんな彼となら、結婚してもきっとうまくいくはず。
それに、お金持ちの家だから、嫁いだら玉の輿だよ。お金持ちの家の奥さんとして、何不自由なく暮らせるほうが、あたしなんかと一緒にいるより断然幸せだと思うの。
そうしたら、家族ぐるみの付き合いがあっても所詮一般庶民でしかないんだから、あたしとはもうこれまでみたいに一緒にはいられないじゃない? あんなに何度も誓ったけど、あたしなんかのことなんて、あなたはすぐに忘れちゃうかもね。
もともと、あたしと神流は親も公認の友達同士だけど……もしこのことで口を滑らせるかなんかして、あたしたちの本当の関係が知られちゃったとしたら、絶対に引き裂かれるに決まってるんだ。
きっと、その懸念が現実になる日は遠くない。
いずれ不本意に、あたしと別れさせられることになる。でもあたし、神流の悲しい顔なんて見たくないよ。
だから、そうなる前に。
あたしは、あなたのもとを離れようって。あなたのいる故郷を離れて、どこか知らないところで新しい生活を始めようって、そう思った。
電車の出発とともに、開いた本。
大好きな人のために、遠くへ行こうとする。誰の手にも届かない、精神的な高みへと、たった一人きりで上り詰めようとする。そんな女性を描いた小説。
あたしが憧れ、この人みたいになろうって思った女性。
あたしはまだ、あの子と物理的に距離を取ることしか選べなかったけど……でも、きっと、いつかは。
落ち着いたら、家族に手紙を出そう。
元気にやってるって、心配しないでって……神流とのことは、何も言わないつもりだけど。やっぱりそれくらいはしておかないと、ね。
きっと、神流は悲しむだろう。
けれど間もなく、目の前の生活に追われて、あたしのことなんてすぐに忘れちゃうんだ。ずっと隣同士にいたあたしたちだけど、隣に存在がなくなってしまえば、徐々に最初からなかったことになるはず。
だって彼女は、あたしがいなくても、あんなに周りに恵まれてるんだから。
あの子には、何も残してはいない。
あたしの部屋に残っていた二人の思い出も、家を出る前に何もかも捨ててきてしまった。
あるのは、今あたしの手元にあるツーショット写真だけ。
寂しいけど、それでいい。
◆◆◆
あれこれと考えているうちに、いつの間にか眠りについていたらしい。やっぱり今日の慣れない早起きは、あたしの身体に地味に負担をかけていたようだ。
アナウンスが告げる駅はすでに県外のもので、結構遠くに来たんだな、なんてぼんやりと思う。さっきよりお客が増えているのか、イヤホンの向こうから話し声がさわさわと聞こえてきた。
なんだか、幸せな過去の夢を、見ていたような気がする。
浮かび上がる意識とともに、感覚も徐々によみがえってくる。
さっきまでは確かになかった、右手を包む体温に、まどろんでいた頭がぱっと覚醒する。刹那、ぼすっと耳元で間抜けな音がして、イヤホンが耳から引き抜かれる感覚があった。
あたしは慌てて、顔を向けて……隣に座る姿に、目を見開いた。
「な、んで……」
「おはよ、三久」
わたしを置いていこうとするなんて、ひどいね。
そう言って、隣でにっこりと笑っていたのは……あたしが手を放したはずの、誰より愛おしいあの子だった。
「なんで、この電車に」
「最初から乗ってたよ? あんたが気付かなかっただけで」
「午後一って、言った」
「わたしが、あんたの嘘に気づかないとでも思った?」
何年の付き合いよ、と微笑まれて、不覚にも涙が出そうになる。
「大学卒業したら結婚させられること、知ってた。近いうちに婚約の儀式をするからって、親に言われてて……だからそうなる前に、わたしもあの家から逃げてくるつもりだったの」
「そんな……」
だとしたら、これまでのあたしの苦労はいったい何だったんだろう。神流がその事実を知る前に、馬鹿な考えを起こす前に、こっちから離れようと思っていたのに。
神流に、人並み以上の幸せを与えてあげなくちゃって――……。
唖然としていると、神流はあたしの不安とか戸惑いとかを一瞬で吹っ飛ばすような、大好きな笑顔で力強く囁いた。
「言ったでしょ。たとえ世間に反対されても、わたしたちは、ずっと一緒にいるんだって」
繋いだ手を握りこまれて、引き寄せられる。
「それが、わたしにとって何よりの幸せなの」
周りの乗客に気づかれないように、さりげなく、一瞬だけ唇を合わせた。
「もう、二度と離れないで」
ふっと、力が抜ける。
――やっぱり、あたしには彼女がいないとダメみたい。
そっと手を繋ぎ直して、二人、寄り添って座る。
互いの手のぬくもりと、穏やかな二つの呼吸。がたごと、ふわふわ、心地よい電車の揺れ。どこか知らない駅の名前を告げる、アナウンスの声は徐々に遠く。
会話は交わさない。ただ、傍に互いの存在さえあればそれでいい。
それだけで、安心できる。
そんな、途方もなく幸せな――……。
夢の続き 凛 @shion1327
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます