泥塗れのミット

唐井シュウ

泥塗れのミット

 7回裏。

 ツーアウト、ランナーなし。


「最後だぞ!楽しめよ!」


 バッターボックスに向かう俺は、一度だけ振り向く。


 最後に、監督は笑っていた。


 何も、俺に才能とやらがあったとは思わない。

 小学校から野球を始め、中学でも当然のように野球部に入った。

 高校前にレギュラーを掴んでいたのは小学校6年生が最後だったが、それでも、俺はこの手のひらサイズのボールを追いかけて汗を流すだけの、この野球というスポーツが好きで今までやってきた。


『2番、キャッチャー、北郷くん』


 高校に入ってすぐに、俺は野球で食っていくのは無理だと悟った。

 そもそもそんなことを考えていたわけでは毛頭なかったが、否応なく思い知らされた。硬式野球の難しさを。


「ストライク!」


 黄色いランプが一つ、点灯する。

 この場所に立って真剣にピッチャーと向き合うのも、もう最後になるのだろうか。


 2球目は、また速球だ。

 パシッ。

 乾いたキャッチャーミットの音が、静かな俺の世界に木霊する。


「ストライク、ツー!」


 増えるのは、また黄色いランプ。

 あっという間に追い込まれてしまった。

 ここまで10年を超える俺の野球との付き合いが、儚くももうすぐ途絶える。

 そんなのは嫌だ。

 そう単純に思って、来た球に無闇にバットを振り回した。


 キィン。

 耳に響く金属音がして、白球はサード側の内野スタンドに飛び込んだ。


「ファール!」


 当たったことに驚いた。

 でも、まだやれる。まだ野球ができる。

 そういう、どこかあどけない、無邪気な幼心が、俺の心を再び飲み込んだ。

 こうやって粘れば、まだそばにいてくれる。

 そう思うと、何だか無性に、バットが、ボールが、相手ピッチャーのグローブが、そこどころか球場までもが、初めて入店したおもちゃ屋のように、まばゆく輝いていた。


「プレイ!」


 審判の澄んだ声が耳に入る。

 と同時に、ゆっくりと世界が動き出す。


 振り被るピッチャー。

 キャッチャーがスパイクを踏みしめる音。

 スリークオーター気味に放たれるボール。


 何もかもが、時の流れを拒むように、ゆっくりと動く。


 俺も、ゆっくり足を踏み込む。

 投げ込まれた白球を撫でるように、鋭くバットを振る。


 しかし、無骨なスイングに、手応えはなかった。

 ツーシームだった。


「ストライク、バッターアウト!ゲームセット!」



 ■



 カキーン。パシッ。カキーン。パシッ。


 グラウンドでは、次の試合をする学校がノックを始めていた。


 バックスクリーンには、未だ前の試合の結果が表示されたままだ。


 0-9、7回コールド。

 完敗だった。


 先発の同級生エースも、十分頑張ってくれていた。

 投球練習では、ストレートだっていつもより伸びていたし、右バッターへのシュートの食い込みだって今まで見たことがないくらいだった。


 対して俺のリードは甘かった。

 初回、ツーアウト三塁。

 打席には新聞に載るような4番バッター。

 ストレート、スライダー、スライダーで追い込んで、ワンボールツーストライク。

 そこでシュートを選択した俺は間違いだった。


 相手は甲子園に何度も出場するような強豪校。

 こちらは県内で学力では上位校、野球は弱小、とまではいかなくともそれに準ずる程度。

 そんな中で、エースと言えどピンチを背負って、緊張しないわけがなかった。


 4球目に投じられたシュートは、殆ど変化することもなく、俺の構えとは逆球のアウトコース高めへ。

 当然、強豪チームの4番がそんな絶好球を見逃してくれるはずもなく。

 快音とともに高く描かれた放物線は、左中間スタンドの中段へ。


 そこからはもう、相手のペースだった。

 4回のピンチのときだって、交代させられた2年生ピッチャーにエースと同じ配球を強要した。


 俺は、馬鹿だった。

 一般教養としての知識は、進学校生ということもありそこそこあった。

 ただ、人の気持ちなんて全く汲んでやれなかった。

 …俺は、馬鹿だった。



 ■



 ベンチ裏に引っ込んできてすぐ、みんなは泣いた。

 その感情が悔しさなのか悲しみなのかは、やはりわからなかった。


 俺は、そんな中で一人、泣かずに立ち尽くしていた。

 泣かずに、というのは間違いだっただろうか。確かの方が正しかった気もするが、はっきりはしない。


 先発したエースは、自分の失投を嘆いて泣きじゃくっている。

 3年生はみな、加えて2年生のレギュラーまでも泣いている。

 唯一泣いていないのは俺くらいだったが、無理して泣こうとは思わなかった。


 確かに、これで多分俺の野球生活は終わる。

 甲子園の土も踏むことなく、社会に名を残すこともなく、夢どころか目標一つ果たせずに、終わる。


 悔しいとは思わなかった。

 悲しいとも思わなかった。


 最後の打席に立ったときはあんなにもしがみついていたい気持ちだったのに、いざ終わって冷静になってみれば、ただのそれだけだった。

 空振り三振でミットを振り上げたキャッチャーを見ても、ため息をついて空を見上げたチームメイトを見ても、帽子を目深に被って顔を伏せた俺らの監督を見ても、泣けなかった。

 涙は流れてこなかった。


 不思議だった。

 あれだけ熱中して野球に打ち込んでいたあの俺が、こんなにも冷静に、冷酷に野球を突き放すなんて、意外だった。

 いや、突き放す、なんて大仰なものではなかったかもしれない。そうではなくて、ただ、不明瞭な責任の背負い方をして、現実から目を背けたくなっただけかもしれない。

 そんなことも、俺にはわからなかった。


 不意に、監督がエースの方に近づいて行く。

 何やら二言三言声をかけて、労ったようだ。

 そして、監督は踵を返して、こちらに近づいて来る。


「どうした、そんな世界の終わりみたいな顔して」

「そんな顔、してますか」

「ああ、してるよ」


 ハハッ、と快活に笑う監督。

 努めて明るく振舞っているのは、俺らが却ってネガティブになってしまわないようにという配慮からだろう。


 監督は、部員のみならず学校のほぼ全ての生徒に慕われていた。

 真剣なときは真剣に。

 そうでないときは、時相応に。

 そうやって、ケジメをつけられる先生。


 こうも配慮ができるのも、人の気持ちがわかるからなのだろう。そういう監督の性質が、人を惹きつけているのだ。


「なんか、…終わっちゃいましたね」

「…。そうだな。終わった、な…」


 こちらの心象を察しかねているのか、慎重に言葉を紡ぐ。

 いいんですよ、監督。

 そんなに、気を遣いすぎなくても。


「監督」

「…ん?どうした?」

「いや、その、…」


 つい、言葉に詰まる。

 二の句が継げない、というよりは単に言葉が出てこなかっただけだった。

 深呼吸する。


 それでも、いくら待ってみても口から言葉は出てこなかった。


「…まあ、なんだ。その、…お前は、頑張ってくれたよ、北郷」

「…そんなこと、ないです」


 結局、監督が慰めてくれるまで、喋ることすらできなかった。

 情けないことこの上ない。


「いいんですよ、監督。僕の、僕の…ミス、ですから」

「……」


 珍しく監督が黙り込んだ。

 沈黙、即ち肯定ということだろう。

 俺のミスであることは、キャッチャー出身の監督にはわかっていたようだ。

 仕方ない。

 だって俺のミスだから。


「そういう言葉は、エースに…あいつに、かけてやって下さい」

「……」


 監督は気を遣ってもう一言、何か言おうとしていたが、ふらふらと背を向けて歩き始めた俺を見て、何も言わなかった。



 ■



 希薄な意識のまま、自販機に150円入れる。

 ピッ、という電子音とともに、ガゴン、とスポーツドリンクが出てきた。

 腰をかがめながら自販機の蓋を無造作に開けて、手にスポーツドリンクを取った。

 分厚くなった左手にも、冷たさが伝わってきた。


 背中をコンクリートの壁に預け、虚空を見上げる。

 堅く封をされたペットボトルのキャップを捻る。

 力を入れて開けると、右手にはじんと痛みが残った。


 遠くからはウグイス嬢の声が聞こえる。

 球場は再び熱狂に包まれ始めていた。


 口にスポーツドリンクを流し込む。

 汗で水分が減っていた体には、痛いくらいに染み込んでいった。


 ブラスバンドの音。

 ボールが当たって響く、乾いた金属音。

 堰を切ったように溢れる、観客の歓声。


 そのどれからも、俺は遠かった。


 不意に、ファールボールだろうか、内野スタンドを超えた打球がネットを伝って足元に落ちた。

 そっと、右手で拾う。


 赤い編み目は、少し解れかけていた。

 このボールを握るのも、今日で多分最後になるのだろう。

 またそんな風に感傷のようなものに浸りながら、手でボールを遊ばせる。


 すると、眼鏡をかけた、高校1年生だろうか、ユニフォームにもあまり汚れが見られないような男子が、近くを探し回っていた。

 見た感じ、あまり運動も得意ではなさそうだが、どうして野球部に入ったのだろうか。

 …ほら、こうやってまたすぐ余計なことを考える。


「ねえ、きみ?」

「…は、はいっ!?僕ですか!?」

「そう、そこのきみ」

「な、なんでしょう…」


 怖がらせるつもりはなかったんだけどな。

 少し顔を顰めながら、話を続ける。


「ファールボール、探しに来たの?」

「あ、はい、そうなんですけど…全然見つからなくて」

「ん、これだろ?」

「え、どうして…」


 ずっと隠し持っていたのではと疑いの目を向ける彼。…そういうことじゃねぇ、と心の中で舌打ちする。


「ファールボールか知らんけど、飛んできたから拾ったんだよ。…ほら、持って行きな」

「あ、ありがとうございます…」


 するとすんなりと彼はボールを受け取って、意気揚々と一塁側のベンチへ持って行った。


 もう一度、壁に身を預ける。

 彼のユニフォームは、2年後どれくらい汚れているだろうか。どんな選手になっているだろうか。どんな打ち方をするのだろうか。どんなコースが得意で、左右どちらへ打ち分けるのだろうか。

 今となっては考えても意味のないことを、次から次へと思い浮かべる。

 これも、性というやつだろうか。


 ふう、とついたため息は、さっきのスポーツドリンクの味だった。



 ■



「ただいま」


 重いエナメルバッグを、ドスンと雑に玄関に置く。


「おかえり」


 いつも通りの、母さんの声がした。


「どうだったの?」

「9-0で負けたよ。…7回コールド」

「そう…」


 それきり、会話は途切れる。

 俺も俺で、このタイミングにスパイクを取り出して、磨き始める。


 この作業は嫌いではなかった。

 一日中、嫌だろうに文句一つ言わず俺の思った通りのパフォーマンスをしてくれる道具たちに労いの意味を込めて丁寧に手入れをする。

 長い間やってきた、という意味ではある種のルーティンワークになっていたからでもあるのだろうが、泥汚れのついたまま道具を放置しておくのは、良心の呵責に耐えられなかった。


 今日は、いつにも増してひどく泥が付いていた。丁寧に拭いて、保革油をつける。ありがとう、と念じながら。


 ふと、手が止まる。

 こうして手入れをするのも、今日で最後になるのだろうか。

 そんな考えが、頭を過ぎった。


 悔しい。

 正直言うとそうだ。

 あんな風に、バカやって。

 楽しみながらも、いつも必ず真剣に。

 いいプレーは誰からと言わず皆で褒めて。

 そうやって、たった2年と少しだったが一緒にやってきた仲間ともう一緒に野球できないというのは、何よりもの喪失感を俺に与えた。


 ミットが湿る。

 濡らしては道具がすぐダメになってしまう。

 そうは思っても、この水の出処がわからない。


 次第に、視界がぼやける。

 指先にも、力がこもる。


「……ッ、あ、う、…」


 嗚咽が漏れる。

 はじめ小雨だったキャッチャーミットは、今では大粒の雨が降っている。


 悔しい。悔しい。悔しい。

 俺があそこであんな配球しなければ。

 ピッチャーの気持ちがわかってさえいれば。


 …まだ、みんなと野球できたのに。


 たった一人の玄関に、静かな慟哭が木霊した。



 ■



 今年の甲子園は、8月7日に始まった。

 今日も、銀傘の元には大観衆が集っている。


『…三遊間、鋭い当たりだ!2塁ランナーはッ!…三塁を回って…、おおっと、素晴らしいバックホームだ!タッチは…、アウト!アウトです!センターの…』


 彼は、勉強の合間にNHKをつけていた。

 クーラーの効いた、涼しい部屋で。

 …左手に、キャッチャーミットをつけて。


「いや、そうじゃねえだろ!キャッチャーよ…。そこはあれだろ、もっと慎重にいかなきゃダメだろ!フォアボールでもいいくらいの気持ちでいかねぇと負けるっての!」


 テレビに向かって届かない怒りをあらわにしている。

 いや、これは怒りではない。

 彼の、彼なりの思いなのだろう。

 同じ、キャッチャーとして。

 同じ、高校球児として。

 同じ、野球好きとして。


 野球が、大好きだ。


「…あーあ、俺も野球、してぇなあ…」















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