第5話
「悪いが」とエルトウは仏頂面をして言った。「この子どもは役に立たんと思うぜ。奴隷を買うなら選び方というものがある」
交渉はあっさりと済んだ。少女の値段は五百ラツベリ。ラツベリ小銀貨五百枚分ということで、これはキリカ人家族三人がなんとか一年間暮らせる程度の額だ。エルトウの言う通り、労働力としてほとんど価値が見込めないからだろう。瘦せぎすで顔色が悪く、どう見てもみすぼらしい。女奴隷は性的な目的で売買されることが多いが、この少女のまだ未成熟な体つきは少年にも見える。歳を聞けば十になると言う。少女はトルダと名乗った。
「船に乗せられて、おにいちゃんと一緒にこの街に連れてこられたんです」
見た目よりはずっとしっかりした声でトルダは言った。エルトウが眉を顰めた。
「その訛りはマルトン人か」
「そう、マルトンから。おにいちゃんは、ここに来る前に別の人に連れて行かれて、離れ離れになりました」
伸び放題の黒い髪から、賢そうな黒瑪瑙の瞳が覗いている。マルトンの民だというから、なるほど肌の色はドルメアやアルスルムの民同様に白い。黒目がちの目と小さい鼻、はじめ器量好しには見えなかったが、案外磨けば光る顔立ちなのかもしれなかった。トルダは首輪に括り付けられた小さな板を持ち上げた。
「ご主人さまの名前を刻んでください」
「名前?」
ゼトが渋い顔をして首を振ると、エルトウが「早めに刻んだほうがいい」と忠告した。
「それが奴隷を守ることにもなるんだ。あんた、本当になにも知らないで奴隷を買ったのか」
「ミラに奴隷はおらん」
「そうだろうよ」
エルトウが投げやりに言った。
「それで、どうするんだ」
「どうする、とは?」
「おい、とぼけるんじゃあない。金のことだ。まさか何も考えていないんじゃあないだろうな」
「ううむ」
そう言ったきり、ゼトはしばらくの間返事をしなかった。トルダはいい子にして待っていたが、エルトウのほうは彼女よりもずっと短気であった。いい加減にこの魔術師が痺れを切らし、癇癪を起こしそうになったころ、老人は少女から離れるようエルトウに手振りで促し、重々しく口を開いた。
「いざとなったらこれを手放そう」
ゼトは上衣の内側から革の袋を取り出した。そして、紐をほどいてその中に手を突っ込むと、なにかほの光る欠片を取り出した。エルトウは引き寄せられるように身を屈め、それを覗き込んだ。ぼんやりと燐光を放つその石の欠片は、澄んだ泉を固めたようにうつくしく透き通りながら、微かな青みを内包していた。
「それは?」
「水晶には見えないか?」
エルトウは手のひらを出し、不思議なその石を受け取った。見た目よりもずっしりとしたそれを目の鼻の先に近づけ、じっと眺めて、不意にエルトウははっとした。
「まさかとは思うが……〈水晶の森〉の?」
「分からぬ」
ゼトがエルトウの手から水晶を取り上げた。手放したあとでも、石の燐光が指先に纏わりついているような気がして、エルトウは手を握ったり開いたりした。目を瞠ったままの魔術師をよそに、ゼトはさっさと欠片を袋に戻してしまった。袋の中にはまだ他になにか——小瓶のようなもの——入っているようだったが、エルトウはほとんど興味を惹かれなかった。彼の精神はほとんど酔わされたように、水晶の輝きに囚われていた。
「わしは盲でも聾でもないのでな。あるいは、体内に取り入れたり、魔術の心得が要るのかも分からぬ。しかし、誰の目にも、ただの水晶でないということは明らかだ。少なくとも、質のよい貴石ひとつ分の価値はあるはず。見る目のある者に見せれば、いい値で引き取ってもらえるだろう」
「いったいどこで」
エルトウは反射的にそう問いかけ、すぐに躊躇いながら言葉を続けた。
「いや……大切なものではないのか」
「〈水晶の森〉に行ければ手放したっていい」
「どうしてそうまでしてまぼろしの森を目指す」
ゼトは返事をしなかった。そうして、黙り込んだままエルトウに背を向けてしまった。説明をするつもりはない、という明確な意思表示だった。
「だんまりか」
エルトウは顔を歪め、首を振った。彼が明らかに気分を害したのはゼトにも伝わったが、それでもゼトは口を開かなかった。話に入れてもらえずにじっと待っていたトルダが、戸惑ったように、しかし黙ってゼトを見上げた。聡明な子だ。
「信頼関係なんか虫酸が走るが、頼むだけ頼んでおいてその態度か。身勝手にすぎるし、とても付き合いきれない。わたしは先に宿に帰らせてもらうよ」
エルトウはふたりを変わりばんこに睨め付けると、ひややかに言った。
「安心しろよ。あんたがわたしの指輪を持っている限り、砂漠にだってなんだって連れていくさ。ただ、あんたとの付き合いかたを、わたしもちょっと考えなくっちゃあな」
それが捨て台詞だった。雑踏の向こうに消えていく痩せた後ろ姿を見つめながら、ゼトは胸が痛むのを感じた。自分が身勝手なのは分かっていた。「悪い魔法使い」のエルトウが、どうやらとんでもなくお人好しな男らしいということも。やがてトルダがゼトの袖を引っ張り、老人は我に返った。
「喧嘩しちゃったんですか、ご主人さま」
「わしのことをそんな風に呼ばんでいい」
そう言うと、トルダは「魔法使いのおじいさん」などと呼びはじめたので、老人はそこでようやく「ゼトでいい。それに、堅苦しい喋り方もしなくっていい」と言ってやった。そういえば、まだ名前を教えていなかった。
「じゃあ、ゼトじいさん」
トルダは少しだけ笑った。十にしてはしっかりしている、と思ったが、幼いトルダの瞳をよくよく覗き込んでみれば、そこにあるのは諦めなのだった。
「さっきの男はエルトウ。怒りっぽいが、いいやつだぞ」
少女は曖昧に頷いた。今ひとつ信用していないらしい。
二人は少し歩き、港のほうまで出た。この日はいかにもセタリカらしいいい陽気で、燦々と降り注ぐ陽射しが穏やかなルウル海をきらめかせていた。船から積荷を下ろす男たちやドルメアの商人、旅人、ゼトのように奴隷を連れた人々で賑やかだ。果物売りの女が言っていたように、確かにその中には険しい顔をした兵士の姿が散見された。
「ゼトじいさんは、こんなにおじいさんなのに、どうして旅をしているの」
海を眺めながら、トルダは尋ねた。
「旅をするのに歳は関係ないじゃろ」
すぐに、もう一つ質問が飛んできた。
「じゃあ、ゼトじいさんは、どうしてあたしを買ったの。砂漠に行くんでしょう。旅に連れてくの」
「流石に、旅には連れて行かんがの。そうさな」
ゼトは少し考えた。
「わしの知っていた女の子におまえは少し似とる」
「どんな子?」
「美人じゃあなかった」
そう言ってやると、流石にむっとした気配が伝わってきたので、ゼトはすぐに続けた。
「だが、わしにとっては世界で一番うつくしいひとだったよ」
トルダは眉のあたりをぎゅっと寄せ、よく分かっていないような顔をした。いくら顔を顰めても、幼いトルダの眉間には皮が柔らかく集まるばかりで、皺は寄らないのだった。
「その子、あたしとおんなじくらい?」
「いいや、とっくに皺だらけ」
ゼトは大声で笑った。トルダもつられて笑った。
「あたしも、おばあさんになったらゼトじいさんみたいな人と旅をしたいわ」
「そんなに待たなくとも出来るさ」
「本当?」
「そうだとも」
ゼトは軽く請け負った。
「なにせ、旅をするのに歳は関係ないからの」
トルダは頷いた。旅のこともあるし、この少女を解放してやりたいが、今すぐ自由にしてやるわけにもいかない。どうしたものだろう。兄がいると言っていたが……。海を睨みつけたまま考え込んでいると、ゼトに声をかけるものがあった。
「ご老人」
見ると、この暑いのにエルトウ同様黒の外套を羽織った長身痩躯の男である。ゼトたちとは少し離れたところで壁に背を預け、こちらを見やっている。初めからそこにいたのかもしれないし、たった今現れたのかもしれなかった。ドルメア人らしい白い肌の色と黒の外套は異質でありながら、街の風景に奇妙に溶け込んでいた。長い指には指輪が嵌っているが、石のついた凝った意匠のもので、キリカの魔術師が身につけるそれではない。男の髪は闇を撚りあわせたような黒で、虹彩もまたトルダと同じ黒だったが、その瞳には一切のあたたかみや、煌めきが感じられなかった。
「盗み聞きをするつもりはなかったんだが」と男は前置きし、小首を傾げた。
「砂漠へ?」
ゼトは頷いた。
「ならば、早くここを発ったほうがいい。じきに
「時化?」
老人は顔を顰め、穏やかに凪いだルウル海を見やった。そこには嵐どころか、雲の気配すら感じられない。
「なに、時化といっても、なにも海の上だけに来るものじゃないさ。なにか面倒ごとに巻きこまれるかもしれないぞ。そんな予感がする。特に、その指輪を嵌めているものにとっては……」
魔術師であるなしにかかわらず、と男は付け加えた。ゼトは警戒して言った。
「わしがどう過ごすかは、わしが決める」
「そうか。余計な口出しをした。好きにしてくれ」
男は肩を竦め、呟くような小声で言った。
「私は、この物語では部外者だからな」
「なんじゃと?」
「どうぞ、旅を楽しんで」
男はゼトの問いかけには答えず軽やかにそう言うと、その場を離れ、人混みの中に消えた。ゼトはしばらくの間そこで首を捻っていたが、やがてひとり頷くと、トルダを連れて市場のほうへ歩いていった。
ひとまず、なにか美味いものでも食わせてやるとするか。エルトウにも、なにか買っていってやろう。
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