第4話

 道行く人々の服装が変わりはじめ、どうやらキリカに足を踏み入れたらしいことがわかった。キリカの伝統的な服飾として、シュカと呼ばれる派手な色彩の貫頭衣やヴェールが知られる。この特徴的な色彩は多種多様な植物を用いたトルト染によるものだが、このような鮮やかな色であっても、この暑く乾いたキリカの地においては砂埃にけぶり褪せたように見える。

 二人は立ち寄ったケサランの町で馬を一頭買い、荷物を運ばせた。

「それこそ、カラスになって一緒に乗ればいいじゃろ」

「重さは変わらないんだ。流石に馬に気の毒だな」

 エルトウが苦笑した。笑顔になると、この魔術師の顔は存外あどけなく見える。実年齢はゼトとほとんど変わらないというようなことを言っていたが、若い体を保っているぶん、肉体に付随する精神もゼトよりも若々しいのかもしれなかった。肉体と精神とは切って切り離せるものではない。

「あんたは乗ったほうがいいと思うぜ。先は長いんだからな」

 その声色に微かな労わりの響きを感じ取り、ゼトはしみじみと言った。

「やさしいところもあるのお」

「やかましい! 倒れでもしたら余計面倒になるだろうが」

「照れるな照れるな」

「これが照れている顔か? どこに目をつけているんだ、耄碌じじい」

 吐き捨てたエルトウを一瞥し、喉の奥で笑い声を立てる。

「大して歳は変わらんのじゃろ?」

「だがあんたのほうが老いている」

 先ほど考えていたようなことをエルトウが当然のように口にしたので、ゼトは思わず彼のほうを注視した。エルトウが肩を竦めた。

「そうだろ」



 ドトを経由してセタリカの都へ。

 かつてアルスルムの詩人が西方の紅玉ルビーと讃えた町、セタリカは、東に海を臨む一大都市である。日没が訪れると、黄金比に基づいて曲線を描く豪奢な宮殿の屋根と尖塔とが、さながら紅玉のようにあかあかと美しく輝くのだ。キリカの中心たるこの都は、東に大きな港、西に大街道を抱き、ドルメアやアルスルムをはじめとした他国との重要な交易の拠点となっている。西の大街道はニルダやカダの町を経由しながら広漠たるサジ砂漠に行き当たり、一旦途切れはするが、その先のフェリアの地へと続いている。

 老人と魔術師は、他の人々とともに街の門が開かれるのを夜を明かして待ち、人混みに押し流されるようにしてセタリカへと足を踏み入れた。

 混雑は目抜き通りのバザールまで続いている。布の日除けをかかげた露店がぎゅうぎゅうに立ち並び、声や匂いでふたりを誘う。複雑な香辛料と肉の焼ける匂い、むっとする人いきれ、粉っぽい香の匂い、浮かれた曲調の楽の音。良しきものも悪しきものも渾然として、酔いそうなほどの情報の洪水に、生まれてこのかた小さな町で慎ましく暮らしてきたゼトはただ圧倒されるほかなかった。エルトウのほうを見ると、煩そうに顔を顰めていた。静かな森に一人篭っていた彼には、この喧騒が神経に障るものであるらしい。

 道行くもののほとんどは鮮やかな服の上から白の衣を纏い、女は黒い薄手のヴェールを、男の多くはふちなし帽をかぶっていたため、暗い色の外套に身を包んだゼトとエルトウは人混みの中でやや浮いていた。

「おい、魔術師のじいさん」

 装身具を扱う露店から男が身を乗り出し、声を張り上げた。

「ちょっと見て行きなよ。色々あるぜ」

「わしのことか?」

 ゼトはきょとんとして自分の顔を指差した。

「他に誰がいるってんだい」

 男が歯を見せた。

「しめっぽい外套を着ているし、指輪をしてるじゃないか。あんた、魔術師だろう」

「さよう」

 男の言い様を聞いて、ゼトは一拍置き、重々しく頷いた。

「このわしが偉大なる魔術師……」

「勝手なことをしないでくれ!」

 客引きに耳を貸さず、こちらのことさえ置いていく勢いだったエルトウがゼトの腕をひっ掴み、そこから連れ出した。

「ふざけるのも大概にしろ。指輪を返さないならせめて手は袖に隠しておけ。金の指輪を嵌めているのが魔術師だなんてのは、キリカの人間なら誰でも知っているんだ」

 憤りに満ちた声音で囁く。

「エル、そう怒るな」

「もう一度その名でわたしを呼んでみろ」

 眦をつりあげ、エルトウが凄んだ。

「魔術以外にもあんたを殺す方法は星の数ほどあるんだってことを思い知らせてやるからな」


 そのあとで、二人はめぼしい宿を取り、再び通りへ出た。ゼトは赤地に金の縫い取りの入ったトゥニカと腰で締める布帯、白い覆いつきの長衣を買い、着替えた。ゼトはエルトウにも服を替えるようすすめたが、彼は頑なに黒い長衣を脱がなかった。

「暑くないのか」

「暑くない」

 言っていることは本当らしく、エルトウは汗ひとつかいていない。なにか、ゼトの知らない魔術を使っているのかもしれないと思ったが、尋ねても教えてくれなかった。

 黒い長衣のエルトウよりゼトの指輪のほうがこの町では目立つらしく、そのあともゼトは何度か声を掛けられた。そのたびにエルトウが苦い顔をし、ゼトをそこから引き剥がした。一人の果物売りの女が気になることを言った。

「あんた、例の悪い魔術師じゃあないだろうね」

 その口調は冗談交じりではあったが、よく注意すると、声色には一欠片の真剣さがあった。気に掛かったので、ゼトは袖を引っ張るエルトウの手を振り払い、詳しく尋ねた。

「噂だけどさ、悪い魔術師がこの街に紛れ込んでるらしいのさ。妙なまじないやなんか扱っていて、金次第でなんでもする。色々なところで厄介な犯罪にかかわってるもんで、懸賞金まで掛けられてるとか。それで、ほら、この頃兵士がいつもより多く歩いて回ってるんだ」

 女は肩を竦めた。

「本当に疑ったわけじゃあないけど、魔術師なんかそうそういるものでもないし。兵士に間違って取っ捕まえられないように、気をつけなよ」

 ゼトは礼を言い、瑞々しいオレンジを二つ買うと、エルトウとともにその場を離れた。

「悪いやつもおるんじゃの」

「当たり前だ」

 ゼトからオレンジの一つを受け取りながら、エルトウが鼻を鳴らした。

「大きな街なんか、そんなもんだ。あんたもぼんやりしていると、身ぐるみ剥がれるぞ。〈水晶の森〉に行くどころじゃなくなる」

 二人してオレンジを剥きながら歩いていると、寺院の裏手に差し掛かった。こちらには目抜き通りとは少し趣の違った活気があった。そこらで競りが行われているようだったが、競り台に乗せられているのは首に札を掛けた人間である。ゼトは彼らをひとりひとり興味深く眺めた。去勢された少年、健康そうな若者、最早使い物になるのかどうかも怪しい老人……。エルトウがゼトに話しかけた。

「ここの奴隷はちょっとすごいぞ。なにがすごいって、工夫がすごい」

「工夫?」

「若々しく健康で清潔そうに見せるために、テレビンノキの樹脂で皺を伸ばしたり、マグロの血と胆汁と肝臓から作った脱毛剤で体毛を減らしたり……」

「ほう」

 エルトウが説明した。

「ヒヤシンスの球根を甘い葡萄酒に混ぜたもので少年や少女の性的な発育を遅らせる、なんてのもあるな」

 ゼトは思わず訊ねた。

「なんのために」

「なんのために? 言わせるな」

 エルトウが顔を顰めた。

「色々な趣味のやつがいるってことさ。わたしには理解ができないが。奴隷だろうがものだろうが、商品に魔術を使うのは禁じられているが、ここまで来るとほとんどまじないだな」

 エルトウの言葉を聞きながら、ゼトはふと足を止めた。いかにも貧弱な体つきの少女が、競り台に乗せられている。足の裏が白く塗られているので、どうやらここ二、三日のうちに連れてこられたばかりであるらしい。

「エルトウ」

「なんだ」

 エルトウが此方を見もせずに返事をした。

「あの子どもを買おうと思う」

「そうか」

 そうあっさりと返してから、エルトウはぴたりと立ち止まり、弾かれたようにゼトへと向き直った。

「なんだって?」

「幾らで売るか聞いてきておくれ」

「冗談だろう?」

「わしは冗談は言わん」

 エルトウが頭を掻きむしった。

「じいさんのお守りだけでなく子どものお守りだと? 勘弁してくれ! 第一、わたしは子どもは嫌いなんだ」

「苦手の間違いでは?」

 もつれた髪の間からエルトウの瞳が睨みつける。

「おまえ、結婚はしとらんのか」

「家族など」

 吐き捨てるような声が返ってきた。

「その話は不愉快だ。そんなことはどうでもいい! 何故彼女を買いたい。可哀想だからか?」

「そうじゃない」

 道の途中で迷惑に立ち止まっているので、柄の悪そうな男が二人をののしった。ゼトはエルトウの外套を引っ張ると、店のほうへ近づいた。

「わしが買うと言ったら買うんだ。交渉しておくれ。おまえのほうがいい」

「そんな金がどこにある! 砂漠を渡るための駱駝らくだを買うんだろうが」

 ゼトは溜息を吐き、一人で商人と交渉を始めた。

「おい!」

 エルトウが怒鳴った。

「待て! ああ、ちくしょう、待てったら! わたしがやる!」

 そこで、ゼトはにっこりして礼を言い、いやいや進み出たエルトウが値切りはじめるのを脇で見守ることにしたのだった。

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