第3話
あっさりと宵の森を抜けた。ここからは古い街道が伸びていて、それはブナの葉脈や血管のように蛇行しながら、ミラとキリカとの国境をつらぬく大街道へと合流する。この小街道も数十年も前には荷馬車が忙しく行き交っていたはずだが、使われなくなって久しいせいか荒れ果てていた。そこかしこに現れる穴ぼこを避け、剥がれた敷石の名残りを杖で小突きながら進む。
歩くにつれ、灌木は疎らになり、周囲は小石のごろごろする乾いた荒れ地となった。ゼトは空気の味の微妙な違いを感じとり、大きく深呼吸をした。隣を歩くエルトウは不機嫌顔で、先程から足を引きずっている。どうやら靴擦れしたものであるらしい。
「やわじゃな」
「人の姿で長い時間歩くのは久々なもんでね。あんたこそ、歳のわりに健脚にも程があるぞ」
「さっきみたいにカラスにでもなって飛んでゆけばよかろう」
「わたし一人なら勿論そうするが」
エルトウが片眉を跳ね上げた。
「翼のある身であんたの歩調に合わせるのはかえってたいへんなんだ」
「ならば別のものに姿を変えればいい。馬はどうだ。それで、荷物を載せてくれたらありがたい。この重みは堪えるでな」
「なんにでもなれるというわけじゃない。大抵の魔術師は一種類か、せいぜい二種類の動物にしか姿を変えないんだ。制限があるからな」
「何故だ」
「危険だからさ。かつて色々な鳥や獣に姿を変えることを得意にしていた男がいた。獅子、鷹、蛇、
エルトウは一本の丈夫そうなクルミの木の下に立ち止まった。今夜はここで眠ることになりそうだ。
「優秀な男だったが、そういう男の心には慢心が忍びこむ。最後には混ぜこぜになったような奇妙な姿から元に戻れず、みじめに死んだ。魔術は繰り返すうちに混じりあうんだ」
「じゃあカラスにしかなれんのか」
あっさりした物言いにエルトウはゼトを睨んだが、最終的には「そうなるな」としぶしぶ認めた。
「なんだ」
「そんなことより、いい加減に指輪を返せ」
「ときどき見返さんと、忘れてしまうのでな」
「さっさと忘れろ」
自分の家から持ってきた雨避けの小天幕をゼトと協力して広げながら、エルトウが唸る。
「あれがないと、調整が難しいんだ。特に専門外の魔法は。薪木に火をつけようとして、あんたまで燃やしかねないぜ」
「気をつけておくれ。これは担保だ」
ゼトは衣嚢から件の指輪を取り出すと、それを自分の小指に——そこにしか嵌りそうになかった——嵌めてしまった。
「魔法が使えないというわけではないのだろう。大切なものだというのは分かるが、だからこそ今は返せんな。わしを〈水晶の森〉に連れていってくれたら返す」
エルトウが溜息を吐き、腰を下ろした。案外手慣れたようすで火を熾す準備を始める。ゼトは隣に座り、嵌めたばかりの指輪をじっと見つめた。
「しかし、これはなんなんだ」
「分からずに返さんだのなんだの言ってるのか。大体、指輪の裏の文字のことを知っていて、どうして……」
魔術師が呆れたように呟く。
「まあいい。キリカ魔術の世界では、一人前の魔術師となるとき師から真名を与えられ、それを自ら指輪へ刻む。この真名は指輪を媒介として、われわれ魔術師を大地へと縛りつける」
エルトウが関節の目立つ手を薪木へと翳し、口の中でなにやら呟くと、一瞬にしてめらめらと燃え上がる炎が現れた。ゼトは目を瞠り、炎と魔術師とを代わりばんこに見比べた。素直な老人のようすに、エルトウは思わずといったふうに破顔し、すぐにまた顔を顰めた。
「わたしの力じゃあない。キリカの魔術師は大地の力を借りるのさ。地の奥深くに流れている力を」
「大地の力?」
「そうだ。キリカ魔術は大いなる言葉によって記される。大いなる言葉とはすなわち真の名だ。それによって、自らと力とを結びつける」
鞄からパンを取り出す魔術師の白い額に、炎の影がちらちらと踊った。ゼトのほうにも時折風に乗ってやわらかな燃えがらが舞っては、頬を黒く汚す。エルトウはパンを千切って口に押し込みながら説明を続けた。
「光信仰——ルースの理によって記されるドルメア魔術とも似ているが、あれとは根本的に違う。地の底にルースの光は届かない。理の存在しない、もっと原始的な大地の力の奔流を、われわれは利用する。魔術師の素質とは、その力をこちらまで引いてこられるかどうかということだ」
そう言ってエルトウが人差し指をぐるりと回すと、炎が一旦空気を取り込むように揺らめき、勢いが増した。
「すごい! わしにもひとつ、教えてはくれんか」
「そうやすやすと教えられるもんか。第一、素質がなければ無理だと言ったろ」
パンをまた一口齧り、それをよく噛んで飲み込んだあとで、緑の魔術師は肩を竦めて言った。
「それに、万能というわけじゃない。わたしがカラスにしか姿を変えられないように……。例えば、われわれ魔術師に金を作ることはできない」
「禁じられておるということか?」
「いいや、輝石や一部の金属は魔術によって加工したり作り出すことが『できない』。そういうものなんだ。作り出すことができないからこそ、金という物質が絶対的な価値の指標になっているのさ」
「じゃあ、何ができる」
「大気を調整して光の像を歪めることや、単純な
そう言うなり、今度はエルトウは老人の上に微細な水滴の群れを呼び出してみせた。それらがきらめきながら旋回するのを見て、ゼトは歓声を上げた。
「水筒いらずじゃな!」
「いいや、こういうことができるのは昨晩雨が降ったばかりだからだ。乾燥した状況であればあるほど、こうしたことは難しくなる」
「ほう……」
「自然の力を助けることもキリカ魔術の得意分野だ。水の流れを誘導する、光を呼び込む、草花に活力を与える——」
「ん、ん、待て」
ゼトは不意にあることに思い至り、エルトウの声を遮った。
「では鳥に姿を変えるのは?」
摩訶不思議だ。エルトウはなんでもないふうに「ああ」と呟き、少し笑った。
「あれは高度なわざで、正確にはめくらましの一種なんだ」
「そう見えているだけで、本当はカラスにはなっておらんということか?」
「いいや、カラスになっている」
ゼトの混乱した表情を見つめ、面白そうにエルトウは目を細めた。
「『そういうことになっている』ということさ。変化術のめくらましは周囲のすべてに作用する。それは環境そのものや、わたし自身も例外じゃないってことだ。だからわたしが変化しているとき、わたしはカラスであってカラスでない」
「意味がわからん」
「だろうな」
エルトウにこれ以上説明する気はないらしかった。パン屑を払い、火の勢いを調整して、外套に包まろうとする。木に凭れ掛かったその背中に向かって、ゼトはふと呼びかけた。
「なあ、エルトウよ」
「なんだ」
面倒くさそうな声が返ってくる。
「死んだものを生き返らせることはできるか。一晩だけでも」
暫くの間、沈黙がふたりの間を埋めた。エルトウはゆっくりと体勢を変え、ゼトのほうを向いた。
「さっき、『金を作り出すことは禁じられているのか』と言ったな」
ゼトは黙ったまま頷いた。
「キリカ魔術に限らず——魔術師の世界で禁忌とされていることは三つ。命を生み出すこと。命を奪うこと。そして死した者を蘇らせること」
エルトウは瞑目し、続けた。
「それは呪いであって、キリカの水脈流れる地の底よりもなお昏き闇の領分。多くの魔術師がそれに挑戦した。しかし……」
そのあとの言葉が続けられることはなかった。その必要はなかった。ゼトの顔を覗き込むエルトウの瞳が、探るような鋭さを帯びた。
「誰か、生き返らせたい者でもいるのか」
「なに、聞いてみただけだ」
「ならいいが」
安堵したように呟き、エルトウは再び向こうを向いた。その後頭部を、ゼトは長い間静かに見つめていた。そして、彼もやがて穏やかな眠りについた。
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