第2話

「砂漠!」

 歩きながら、エルトウが何度目かの呻き声を上げ、天を仰いだ。

「サジ砂漠か? 冗談だろう」

「それも砂漠の真ん中に用があってな」

「遠すぎる」

「キリカの国境まではすぐだぞ」

「そこからが遠いと言ってる!」

 エルトウは激して怒鳴ると、溜息をひとつ吐き、「一旦家に帰らせろ」と呟いた。

「家に?」

「わたしにも準備ってもんがある」

「逃げるなよ」

「そうできるならそうしたいもんだが」

 そこでゼトが木の根に蹴躓いて転びそうになったので、エルトウはわずかに歩調を緩めた。彼の歩幅は大きく早足なので、ゼトは出来うる限りせかせかと歩いている。

「だいたいどうして砂漠へ」

「〈水晶の森〉に行きとうてな」

「〈水晶の森〉?」

 魔術師の眉間にますます皺が寄った。

「あんた、ふざけてるのか? そんなものは存在しない。あれは夢物語だ」

「信じるかどうかはともかく、砂漠までわしを連れていってくれたらそれで構わんよ」

「そういうわけにもいかないだろうに。ないと分かったら、またわたしがそこから連れ帰るのだろ? まったく無駄だ。ちょっとやる気を出した年寄りというやつはこれだからいやだ」

 エルトウがぶつくさ言うのを、ゼトは涼しい顔で受け流した。


 〈水晶の森〉の話は、キリカの者なら子どもから大人まで知っている物語のひとつだ。広大な砂漠の真ん中にぽつねんと佇む、まぼろしの森。そこには世にもうつくしい水晶でできた木々が生い茂り、星の光の水が旅人の渇きを癒すという。そしてその水晶の欠片は万病の薬となり、盲人に光を、聾者には音を与えるのだそうだ。かつて砂漠でたったひとり道を失い、三十日間にわたり彷徨い歩いた旅人が〈水晶の森〉に辿り着き、それを記録に残した。単なる蜃気楼か、旅人の見たまぼろしであろう、というのが納得のいく解釈であるが、一方で多くの人々がその存在を心の底で信じてもいる。なにしろ、〈水晶の森〉を目にしたというのは彼ひとりではない。何十年かに一度、砂塵に霞む地平の向こうに、その燦めく姿を確かに見たと言い張るものが現れるのだ——。


 やがて二人は一軒の山小屋の前に辿り着いた。このこぢんまりとした粗末な家が魔術師エルトウの棲家であるらしかった。家に入る前に、エルトウはふと立ち止まり、ゼトに尋ねた。

「そも、どういう経路で行くつもりだ。考えてるのか?」

「ケサランからドトを経由して、セタリカの都に行くつもりだ」

 ゼトは答えた。

「砂漠に入るのには準備が要ることはわしにも分かる。セタリカほどの都なら、情報も物資も集めやすかろうて。そこでラクダを買って、キャラバンにまぜてもらうさ」

「金は?」

「長い人生、真面目に働いてきたからの」

「ふむ」

 エルトウは機嫌悪げに鼻を鳴らすと、「あんたは入るな」と言って扉を開けて小屋の中へ入った。ゼトは当然のごとく、彼に続いて足を踏み入れた。

「ほお、これが魔法使いの家」

「入るなと言ったろうが!」

 ゼトが感心しながら呟くと、目の縁を赤くしたエルトウが唾を飛ばして怒鳴った。なんとなく察していたが、激しやすい質らしい。

「もう入ってしまったでな」

 奇妙な部屋だった。まず、壁のほとんどが葡萄に似た植物の蔦で覆われ、なにやら伸び放題の太い根に侵食された床の上には所狭しと鉢植えが並べられていた。棚や机の上も例外でなく、多種多様な水生植物、乾燥させた植物の葉や根、瓶詰めの種や苗などがぎっしりと陳列されている。天井からは見事なサイカチの金襴緞子きんらんどんす。植物の種類はまったくめちゃくちゃで、中にはこの辺りではまずお目にかかれない鮮やかな色彩の熱帯の植物や湿地を好む珍しい花々、名前も知らない不気味な姿の——虫を捕らえて養分とするような——草花もあった。個性豊かな植物たちに共通しているのは一様に青々として健康そうだということで、そうして見るとなんだかどの植物もしあわせそうに見えた。

「なんと……」

「わたしは緑の魔術師でね」

 エルトウが面倒くさそうに説明した。

「植物の研究をしている」

「これ全部、おまえさんが管理しとるのかね。魔法の力で」

「まあそうだが、宵の森は特別だ。分布のこれだけ多様な植物を同時に扱えるような場所は、なかなかない。植物同士の相互作用について調べているんだ。地味な緑の魔術は軽視されがちだが、実際には……」

「すごい!」

 ゼトが叫びを上げ、エルトウは驚いたように口を閉ざした。

「見事なもんじゃの。そうか、つまり、以前より森が生き生きしておったのもおまえのお蔭か。流石魔法使い」

「そ、そうかね」

「ほお、キリカランがこんなに花を咲かせとる! 初めて見たぞ」

 妙な顔をしたエルトウは居心地悪げに背を向けたが、ゼトが近くの鉢植えに手を伸ばした途端「部屋のものに触るな」と喚いた。この男、後ろにも目がついているらしい。

「そうぎゃあぎゃあ騒がんでもよかろう。けち」

「研究の成果をごちゃごちゃにされては困るんだ。何年掛けたと思ってる! 二十年だぜ」

 魔法使いにとっては大した時間でもないだろうに、と考えてから、ふとゼトは「おまえ、幾つだね」と尋ねた。

「キリカの魔法使いは長寿と聞いた」

「さっきから気になっていたが、魔法使いではなく魔術師だ」

「答えよ、魔術師」

 杖の握りを突きつけると、エルトウは溜息を吐き、答えた。

「あんたよりは……いや……どうかな。あんたこそ幾つだ」

「なんだ、そんなものか。てっきり数百年は生きておるものかと」

 拍子抜けしてそう呟くと、魔術師が革の鞄を引っ張り出しながら言い返した。

「キリカの魔術師と言えど、そんなふうにして生き永らえているのはほんの一握りだ。魔術の素養の欠片もない者が偉そうに物を言うな」

「おまえも年寄りに石で撃ち落とされて、弱みを握られる程度の魔術師だということを忘れるでないぞ」

 エルトウがぐっと言葉に詰まった。なにか言い返したそうにして、結局彼は歯の隙間から唸り声を上げるに留めた。その間も手だけは休みなく動き、鞄になにやら蝋燭と植物の種を詰めている。

「そのうちに寝首をかいてやる」

「やりたければやれ」

 ゼトは飄々と言った。

「だが、年寄りの最後の望みくらい手伝ってくれても罰は当たらんだろう」

「ふん」

 それから暫くは、魔術師は荷造りをするのに専念しはじめたため、ゼトは手持ち無沙汰に植物を見て回っていた。

「のう」

「今度はなんだ」

 エルトウが苛立ったように返事をした。

「駄目になってしまうのか」

「なに?」

「お前がここを離れたら、これはみんな枯れてしまうのか」

 ゼトがぽつりと言った。エルトウは作業の手を止め、ゼトのほうを見た。老人は爽やかな香りのする茉莉花マツリカの花に指で触れ、そこに鼻先を寄せていた。

「そうだと言ったら、指輪を返して、わたしを放っといてくれるのか?」

 老人はマツリカを見つめたまま返事をしなかった。魔術師は暫くの間辛抱強く返事を待ったが、いくら待っても応えは返ってこないと気づいたらしく、何度目かの深い溜息を吐いた。

「枯れない。この状態を維持するだけなら別につきっきりでなくともいいんだ、その程度の力量はある。緑の魔術師を甘く見ないでくれ」

 存外軽い調子で言い放つと、エルトウは指を突きつけた。

「大体、あんたにこのまま立ち去られてしまうとわたしも安心して眠れないんでね。あんたが旅の途中でおっ死ぬのを見てから、ゆっくり研究の続きに戻るさ」

「目的地に着くまでは死ねんわ」

「先に永遠の命を手に入れる方法を探したほうがいいかもしれないがね」

 エルトウは皮肉っぽく呟いた。老人は勿論それを無視した。

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