第1話

 昨日のうちに挨拶を済ませておいた粉屋の主人には散々忠告されたが、結局ゼトは宵の森を抜けていくことにした。

 ——宵の森には悪い魔法使いが住む。

 いつからか、町ではそう噂されるようになった。というのも、あるときを境に、森へ入っていったものがことごとく道を見失い、けっして向こう側に抜けることが出来なくなったからである。手練れの狩人であっても、何度も同じ道を通ってきた商人であっても同じことだった。慎重に印をつけながら進んでも、いつの間にか方角が分からなくなって、何故か元の場所に戻ってきてしまうのだ。それは森の向こう側でも同様らしく、流通を担う商人らは広い宵の森をぐるりと迂回して行き来しなくてはならなくなった。



「やめときなよ」

 恐ろしげに肩を竦めながら、件の粉屋の主人が言っていたのを、ゼトは思い出した。

「魔法使いだ。魔法使いが住み着いて、気まぐれに人を惑わせて楽しんでいるのさ」

「魔法使いがいたとして、どうしてそんなことをする」

「そりゃあ、暇だからさ。魔法使いってやつは長いこと生きているから、退屈してるんだ。それに、人間嫌いだ」

「わしは長いこと生きとるが、退屈しとらんし、人間は好きだ」

「ゼトじいさんが特別なんだよ。おれなんか、この歳でもうとっくに退屈してる」

 店の奥からおかみさんの声がして、主人は振り返り、返事をした。主人が向き直ったとき、ゼトはもう歩き出していた。主人は身を乗り出した。

「おうい、本当に行くのかい。やめときなよ。もう歳なんだからさ」

「歳だからさ!」

 ゼトは振り向き、叫び返した。

 そうだ、歳だからだ。ゼトは思う。もう自分は果たすべき義務を終えた。六十年もの時間を、町のため真面目に働いて過ごした。町人としてのゼトの人生は終わった。最後に、やらなくてはならないことをやるのだ。ずっと決めていたことだった。



 宵の森を抜けていくのは、老人の足ではこの森を迂回していくことが難しいからだ。この町では馬を手に入れることができなかったので、国境を越え、キリカの西北に位置するケサランの町に辿り着くまでは徒歩で行かなくてはならない。それに、旅人が森を抜けることができた例もある。そのほとんどが歩いて森を抜けようとした者たちで、連れを持たず、一人で足を踏み入れていた。

 森に分け入っていくと、ゼトはすぐに懐かしい心地になった。幼い頃は、よくこの宵の森で遊んだものだった。銀に光るアカシアの葉、夏には房状にたくさんの実をつけるリュウガンの木。種の大きいリュウガンの実の果肉は、かなり癖のある味がするのだ。好きでもないくせに、実がなっているのを見つけるたびに両手いっぱいに捥いでは、衣嚢を膨らませて帰ったことをゼトは思い出した。あれはどうしたのだろう。そうだ、確か、みんな母が乾燥させて薬にした——。

 すべては記憶の通りだった。いいや、とゼトは考える。人が立ち入らなくなって、この森はより鬱蒼としたようにも思えた。春というこの季節のためではない。灌木や下草も勢いよく生い茂り、生き生きとして見える。そのせいかは分からなかったが、かつて人びとが通っていたはずの道はすっかり消えかけてしまっていた。それでも、かすかに残る踏み分けられた痕——それはけものみちかもしれなかったが——を辿り、ゼトは歩いた。

 そうしているうちに、老人はすぐに異常に気付いた。明らかに見覚えのある木にぶつかったからだ。幹のねじれたアカシアの大木である。この形は、見間違いようもない。ゼトは首を傾げ、背後を振り返った。確かに、まっすぐ歩いてきたはずなのだ。試しに今来たばかりの道を戻ってもみた。そうすると、ねじれたアカシアにはぶつからず、あっという間に自分が足を踏み入れたばかりの森の入り口が見えてくる。帰るぶんには平気なのだ。しかしひとたび前に進もうとすれば、どんな風に歩いても、やはり結局はこのねじれた木のところへ戻ってきてしまうのだった。

「参った」

 ねじれた木の根元に腰を下ろし、ゼトは呟いた。

「やはり駄目だったか」

 どうやら、町の人びとの言う悪い魔法使いとやらの術中にまんまと嵌まってしまったらしい、とゼトは思った。しかし体力ばかりを無駄に消費して、このまま帰ってしまうのも癪である。森を迂回して、行商人の幌馬車に乗せてもらうにしても、次いつ訪れるものやら分からない。どうしたものかと考えを巡らせていると、ふと頭上に生きものの気配を感じた。見上げると、一羽のカラスが羽繕いをしていた。なんだカラスか、と一旦は視線を下ろしたゼトだったが、この鳥のことがなんだかやけに気にかかる。妙な違和感が、煙水晶のさざれ石のように胸の底でざらざらと音を立てるのだ。

 ゼトは再び頭上を盗み見た。見てみれば、随分大きなカラスである。この位置からは正確な大きさは判然としないが、イヌワシほどもあるのではなかろうか。羽毛には艶がないが、翼を広げたらさぞ迫力のあることであろう。ふとカラスが羽繕いをやめたので、ゼトは慌ててまた下を向いた。変に気を惹いて、突き回されてはかなわぬ。とはいえ——この突然湧き上がってきた説明のつかない興味は、すぐに抑えておくのが難しいほどに膨れ上がってしまった。ゼトは思い立って再び立ち上がり、急いで前進した。茂みを掻き分け掻き分け進む。十五分ほど歩いたところで、やはりあのアカシアが姿を現す。カラスもやはり、枝の一振りに羽を休めていた。違和感はますます強まっていた。ねじれたアカシアが、この奇妙に閉ざされた空間の中心なのだと思っていた。しかし、そうでなかったら?

 ゼトは再びアカシアの木陰に歩み寄ると、「おお、疲れた」と大声を上げてその場にしゃがみこんだ。そして、さりげなく石を拾った。拳ほどの石である。少し大きすぎるかとも思ったが、カラスもあの大きさである。やはりこのくらいがちょうどいい。ゼトはしばらくしゃがみこんだまま、このカラスが襲いかかってきた場合、自分が大怪我をせずに帰れるかどうかについて考えた。そして、カラスがこちらに気を払っていないのを確かめながら、素知らぬふりで立ち上がった。

「これでは、日が暮れてしまう。諦めて、帰るとするか」

 聞こえよがしにそう言うと、カラスが僅かに反応した。しかし、警戒はしていない。

 老人の心に緊張の波が押し寄せたが、彼はすぐに気をとりなおした。もとより、ままよという気分で旅に出たのだ。ゼトは石の礫をしっかり握り直すと、いきなりそれを頭上に向け勢いよく投げつけた。

 果たして、礫はカラスに命中した。不意をつかれたカラスが短い悲鳴を上げ、ばさばさと翼をばたつかせながら落ちてくる。枝が何本かへし折れ、木の葉がはげしく舞った。無理をした肩は悲鳴を上げたが、どうやらうまくいったらしい。よし、と拳を握る間もなく、ゼトの目の前でカラスの輪郭が歪み、膨張し、ねじれ、人の形になった。土の上に仰向けに叩きつけられた男の頭を、ゼトは思い切り杖で打ち据えた。男は今度は人間の声色で呻き声を上げ、そのままぐったりと伸びてしまった。

 あっという間の出来事だった。

 わしもまだまだ捨てたもんじゃないな、などと考えながら、肩をさすりさすり、ゼトは男の顔を覗き込んだ。警戒しつつしげしげと眺める。

 魔法使いといえば老人をイメージするものだから、この男が存外若かったのは意外だったが、おそらく魔術の類で老いを止めているのだろう。顔が蒼白なのは、おそらく気を失っているせいばかりではない。ゼトの住むミラの象牙色の肌とも、キリカの淡い銅色の肌とも違うこの色は、多分、ドルメアのほうの血を引いているのだ。目の下にはくっきりした隈があり、体躯は瘦せて手足は蜘蛛のように細長い。癖のある髪はもつれて木の葉が何枚か引っかかっていた。額には血が滲んでいる(これはどうもゼトの石だか杖だかで打たれたせいであるらしい。それでも罪悪感はそれほど湧いてこなかった)。

 杖でちょいちょいと突つき、今度は服装を調べてみる。前開きの長衣に一般的な飾りの垂れ袖、肩と頭を覆う覆いつきのマントルといった出で立ちで、まあ普通といっていい。気になるとすれば、人差し指に嵌めている飾り気のない指輪である。抜き取って見てみると、どうやら本物の金。色々な角度から見てみると、裏になにやら文字が刻まれていた。老人の脳裏に記憶の光がぴかりと閃いた。これは、もしや……。

 そのとき、男の瞼が震え、ぱっと開き、ゼトは反射的に指環を衣嚢へ滑り込ませた。案外鋭い印象の紫の瞳がゼトの視線と衝突する。次の瞬間、男は横ざまに転がって間一髪、杖の一撃を避けた。

「おまえが悪い魔法使いだな」

 ゼトは唸った。

「成敗してくれる」

 もう一度叩いてやろうと杖を振り上げた老人の姿に、男は目を白黒させながら慌てて口を聞いた。

「待て、乱暴はやめろ」

「言い訳無用」

「いったいなんなんだ! 突然人に石を投げつけて杖で殴りつけるなど。正気の沙汰じゃあないぜ」

「悪い魔法使いは退治せんとな」

「誰が悪い魔法使いだ」

 男が立ち上がろうと藻掻くのを突然やめたので、ゼトは警戒した。睨み合いになる。やがて、男は目を逸らし、むっすりと言った。

「なぜ分かった」

「なぜとは?」

 ゼトの返事を聞いて、男は不可解な表情をした。

「あんた、わたしと同じ魔術師じゃあないのか」

「違う」

「じゃあどうして」

「年寄りの勘ぞ」

「そんな馬鹿なことが……いいや、もういい」

 男は溜息を吐いた。

「通してやるから、この森から出ていってくれよ。できる限り早く」

「そういうわけにいくか」

 久々にゼトの老いた体の中に燃え上がるものがあった。ゼトはその名前を知っていた。正義感である。

「おまえを見つけた以上、このまま放っておくわけにはいかん。ここが通れなくて、もう何十年も町の人間は迷惑しとるんだぞ」

「ここで大事な研究をしているんだ。よからぬ者に入ってきてもらっては困るし、よからぬ者でなくとも邪魔だ」

「あとから来ておいて身勝手な。よそでやれ、よそで」

「条件がいいんだ。風も、光も、気温もちょうどいい」

「だからこの森を独占するのか?」

「迂回していけばいいだろうに。わたしの知ったことじゃあないな」

 魔術師の男は肩を竦めた。

「とにかく、ここはもうわたしの縄張りなのさ。あんたには力ずくでも出て行ってもらおう」

「力ずく?」

 ゼトは凄んでみせた。

「おお、やってみろ」

「言われなくとも」

 男は右手をこちらへ向けようとして——凍りついたように動きを止めた。彼の視線は自身の指へと釘付けになっていた。彼の頭の中でぐるぐると様々な考えが駆け巡っているのがゼトにもわかった。

「探しておるのはこれかね」

 老人はのんびりと衣嚢に手を突っ込み、指輪を取り出してみせた。

 刹那、男が鋭い声でなにやら叫び、ゼトは見えない力でぐいと勢いよく引き寄せられるのを感じた。四肢を千切らんばかりの突風にもぎ取られぬようしっかり杖と指輪とを握りしめ、一か八かゼトも叫び返した。指輪の内側に刻まれていた、魔術師の名を。

 その瞬間、見えない引力はがくりと勢いを失った。魔術師は唸り声を上げ、歯を食いしばって呪文を重ねたが、ゼトが名前をもう一度呟くと、それはやがて赤子に袖を引かれるほどの力にまで弱まってしまった。

 自分の魔術がすっかり意味を成さなくなったのを見て、男は青褪めた。よろめきながら後退し、アカシアの木にぶつかる。しまいには、絶望しきった表情を浮かべたまま、頭を抱えて蹲ってしまった。

「もうおしまいだ。こんな初歩的な過ちを犯すとは。見習いでもこんな失敗はするものか」

 魔術師は掠れた声で呻いた。

「真名を知られるとは!」

 その狼狽えようにゼトはなんだか気の毒になってしまって、杖を下ろした。逆上して飛びかかってくるようなら、また殴り倒してやろうと思っていたのだが。

「そんなに落ち込むでない」

 老人はやさしく言った。

「そうたいしたことではなかろう」

「たいしたことなんだ! とんだ恥さらしだ」

 魔術師は顔を上げゼトを睨めつけたが、すぐに溜息を吐いて、体から力を抜いた。やけっぱちのように手を広げる。

「殺せ」

「殺せだと? そんなことができるか」

「ならば、わたしをどうする気だ。なにか魂胆でもあるのか? 言っておくが、魔術師だからといってわたしに利用価値なんかないぞ」

 ふと、ゼトの中にひとつの思いつきが浮上した。

「わしの旅に同行しておくれ」

「なに?」

「わしも衰えておるのでな。実を言うと目的の地にひとりで辿り着ける自信がない」

「な、なに?」

 魔術師が阿呆のように繰り返した。

「なんだって?」

「道連れがいるといいと思っておったんだ。その間この森も通れるようになるし、まさに一石二鳥というもの。これは我ながら、冴えた考え。どうだ、一緒に来んか」

「ま、待ってくれ。なにを言ってる。道連れ?」

「来るのか来ないのか、はっきりせんか」

 叱りつけるように畳み掛けると、魔術師は気圧されたように静かになった。しばらく魔術師の男はぽかんと口を開けていたが、やがて小さな声で「エルトウ」と呟いた。

「わたしのことはエルトウと」

「エルトウ?」

「古いアルスルムの言葉で、カラスを指し示す言葉だ。魔術師はみんな名乗るための特別な名をひとつずつ持ってるのさ」

 エルトウは立ち上がりながら言った。服から土くれを払い落としている。まだ顔は青褪めていたが、真名を知られた最初の衝撃からは幾分立ち直ったかのように見えた。見た目よりは切り替えの早い質であるらしい。

「しかし、あんたは……随分な変わり者だな。どこへ向かうんだ。離れた町の孫にでも会いに行くのかい?」

「おお、行き先を言うのを忘れておった」

 ゼトはにっかりと笑った。

「砂漠だ」

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