第3話

 小倉美姫から蒲原洋二への愛の告白が不発に終わってから数日後。

 とある夜。

 自宅の自室でパジャマ姿の小倉は、窓辺の学習机の椅子に腰掛け、鏡を覗き込んでいた。前髪をヘアバンドで後ろにまとめ、左手の指で皮膚を押さえつつ、右手に持った毛抜きで眉毛を抜いていく。

 耳の穴にはイヤホンが引っかかっていたが、目的は音楽鑑賞ではなかった。

「ばーか」

 鏡の中の自分を罵倒したのではなく、イヤホンマイクの通話相手への冗談だ。

「そんなことできるわけないじゃない。私にだって常識とか恥じらいとかあるんだから」

 話しつつ、小倉は眉毛を整えていく。

 眉はあまり完璧に整えすぎてはいけない。隙のある……隙のありそうな、親しみやすい女を演出しなければならない。小倉の身分は制服の決まっている進学校の学生だ。他者と差をつけるとしたら眉とか髪とか、些細なアクセサリーとか生活指導の教師にばれない程度の化粧くらいだ。

 無論、同性から舐められてもいけない。微妙な匙加減が必要だ。

 そんな努力を往々にして男が知らないということは、ときどき腹立ちもする。

「向こうから〈そういうこと〉してきたなら話は早かったけど、……うん、真面目。蒲原くんは真面目よ」

 眉毛の左右を見比べているうちに、小倉は、あははと笑う。

「それが毎日できるなら簡単に見つけてもらえると思う。文句なく個性的よ。……毎日肩にオウム乗せて登校したり?『私の名前は小倉美姫です』って看板持ってたり? そんなことを毎日できるならね」

 定期的な眉の手入れに及第点を与えた小倉は、鏡と毛抜きを片付け、今度は小さなやすりを取り出す。

「……あー、違うの。蒲原くんが言うところの〈個性〉っていうのは、そういうことじゃないらしいの」

 右手に持ったやすりを左手の指先に当て、優しく動かして爪を削る。

「もちろん言ったけどね。私の誕生日とか、身長とか……そうそう。スリーサイズも。……え? もちろん自己ベストのよ。当たり前でしょ?」

 けらけらと笑う小倉の表情に、学校での虚飾は一切なかった。

「でもね、蒲原くんに言わせれば、そういう数字は個性じゃないんだって」

 そのときの蒲原はこう言った。

 きみの生年月日も身長も体重もスリーサイズも、全て円周率の数列上にある。

「蒲原くんにとっては、人が何月何日に生まれてようが、その程度のものなんでしょ。〈唯一〉ではないってこと」

 めんどくさい、という呟きは、やすりによる爪の手入れについてではない。

「え?」

 電話の向こうからの問いかけに、小倉は手を止めて耳を澄ます。

 そうして、しばらく、考える。

「……まだ、諦めは、しない。とりあえず。……うん。『大儲けした』って噂を頭から信じるわけじゃないけど、それでもいくらかは……はぁ?」

 小倉は眉を顰めた。

「別に私……まぁ、否定しないよ。お金も大好き。じゃんじゃん貢いでほしい。……でも、親の金を自慢するような男なんて、みっともないじゃない。そこそこに金持ちの息子はうちの学校にもいるけどさ」

 むきになって反論した小倉は、更に表情を険しくする。

「そんなわけない。別に面食いじゃないけど、本気で好きになったわけ……」

 はぁ、とため息をついて、再び爪にやすりを当てる。

「……将来性よ。お金以外ならね」

 やすりを持ち替えて、今度は右手の爪に。

「蒲原くんは将来、必ず〈何か〉になる人だと思う。〈何か〉を成し遂げる人だと思う。……それが理由。捕まえておいて損はないはずよ。コネクションとしてもね」

 ふと、机の上の電波時計に目をやる。十分すぎるほどに夜が更けていた。

「いやよ。あんたには絶対に紹介しない。……もちろん負けないけど? 邪魔されたら迷惑だもん。あんたはあんたで頑張れば?」

 やすりを片付けて、そろそろ寝るから、とスマートフォンを持って学習机から立ち上がる。

「じゃね。おやすみー」

 通話を切り、部屋の照明を落とし、ベッドに入る。

 その夜小倉は、蒲原と街に出かける夢を見た。

 ……待ち合わせた場所で、自分に〈気付いた〉蒲原が、手を振りながらこちらにやってきて……


 好きだ、と言っても、幸いなことに蒲原の、小倉に対する態度は変わらなかった。

 むしろ交際の申し出を断ってしまった負い目からか、蒲原のほうから小倉に近付こうとしているようにさえ思えた。〈見つける〉ことさえできれば、むしろ蒲原のほうが小倉と恋仲になりたいようだった。「克服しようと努力している」という発言も言い訳ではないらしい。

 学校のある日の昼休みは、小倉と蒲原は第二図書室で話をした。

「その本、〈機械より人間らしくなれるか?〉……だっけ? 面白い?」

「とても面白い本だよ、美姫さん。〈イライザ〉に関する記述が特に興味深い」

「イライザ?」

「ジョセフ・ワイゼンバウムという人が1965年に開発した、世界初の〈会話するコンピュータプログラム〉のことだって」

「なんだかSFみたい。でも、五十年以上も前に、そんな物が開発されてたの?」

「そうらしい。〈彼女〉の職業は〈セラピスト〉だった」

「えっと、つまり、〈イライザ〉は人の悩みに答えてくれるの?」

「会話からキーワードを拾い上げてテンプレートな返事をするだけらしい。それでも、治療としての効果はそれなりにあったんだって」

「んー?……セラピストは、コンピュータでもいいってこと?」

「論点はそこにある。作者の主張は、『機械にできることは機械にやらせろ。人は人にしかできないことをやれ』って感じかな」

「……興味深いね」

 長く蒲原と話してきたからか、彼の口調がうつってしまう。

「読み終わったら貸そうか?」

「ありがとう。何かほかに、おすすめの本はある?」

 共通の話題作りと蒲原洋二という男を知るための質問だった。

 すると、そうそう、と蒲原は手を叩いた。

「小倉さんにおすすめしたい本を、今日持ってきてたんだ」

「え? どこに?」

 昼休みの蒲原は、文庫本以外手ぶらだった。

「教室。大きい本だから鞄の中で……それに、もしかしたら、生理的に無理、って断られるかもしれないから、見せる前に一言聞こうかと……」

「……もしかして、虫の本?」

 十年ミミズを研究してきた酔狂な男だ。コンピュータプログラムに関する本を読んでいることのほうが珍しい。

 蒲原は苦笑する。

「嫌いな人にもおすすめできる虫の本なんだけどね。芸術書に近い」

 どうやら小倉が人並みに虫嫌いであることは、蒲原に看破されている。

「うーん……読む」

「ほんとに? 無理なら別に……」

「せっかく蒲原くんがおすすめしてくれたんだから、読ませて」

 本は噛み付かないし毒も持たない。それが結論だった。

 第一、蒲原を理解しようと思ったら、虫は避けて通れない。

 放課後に再び第二図書室に集まると、蒲原は通学鞄の中から、横長い、絵本ほどの大きさの本を取り出した。

「〈葉虫ハムシ〉ってタイトルの写真集なんだけど……」

 その表紙を見たときに、思わず、

「わぁ」

 小倉は感動していた。

 表紙を飾っていたのは、複眼の網目がわかるほどに鮮明に大きく拡大された、一匹の美しい昆虫だった。

「すごい」

「グンジョウオオコブハムシっていうらしいよ」

 虫の写真を見て本心から感動するなど、生まれて初めてだった。

 その昆虫はまるで、山脈を擁するエメラルドで構成された惑星のようだった。きらめきが、光沢が、絶妙なグラデーションが、美しかった。

「本当に……きれいね。蒲原くんがおすすめしたくなる気持ちもわかる」

「でしょう?」

 ふたりは肩をくっつけて、一冊の昆虫の写真集を眺めはじめた。

 ……地獄に住んでいそうなハリネズミトゲハムシ。虹色のアトアオパプアハムシ。輝くキンイロネクイハムシ。雪を降り積もらせたかのようなリンゴコフキハムシ。緑と紫が妖しいオオニジハムシ。金と黒と濃紺、ゴージャスなハッカハムシ。海水を閉じ込めた琥珀のようなキベリハムシ。左右非対称な模様を背負うフゾロイホソヒラタハムシ。悪魔の翼のような翅を持つツシマヘリビロトゲハムシ。名前のとおり陣笠にしか見えないキモンジンガサハムシ……

 美しい虫、おどろおどろしい虫、それぞれ様々に個性的で、気付けば裏表紙の写真まで眺めていた。

「この虫、かわいいね」

「そうだね」

 裏表紙を締めくくったのは、ベニワモンカメノコハムシ。まるでボールペンでいたずら書きをされたかのように、ひとつの赤い丸が模様となっていた。

「美姫さんが気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」

「虫って本当に苦手なんだけど……」

 ふと、自分が何ひとつ嘘を言っていないことに気づき、小倉は自分のことながら驚いてしまう。

「……でも、とっても、すごかった。いろんな虫がいるんだね」

「そう。虫は本当に面白い。何故って、どうしてそんな形態になったのか、進化として選んだのか、解明されていない種類が多いから」

 蒲原はそう言って、本の表紙を撫で、柔らかい優しい表情を浮かべていた。

「……この本を見ていると、僕は神様に質問したくなる。『どうしてこの小さな虫たちに、こんなにユニークなデザインを与えたのですか?』って」

〈進化〉と〈神〉を同時に語る珍しい男に対し、小倉は別のことを考えていた。

 虫に比べれば、地上に七十億と跋扈する人間は、無個性といっても過言ではない。いや、同一の種なのだから、差などなくて当たり前かもしれない。肌や髪や瞳の色が違うだけで、人はヒトなのだから。

 ……蒲原洋二は、小倉美姫にこう言った。

 個性を示せ、と。

 果たして自分に個性などあるのだろうかと、十五歳の少女は考えた。


 昼休みに校庭でサッカーボールを蹴飛ばしている生徒は、雨が降っても「じゃあ図書室に行こうぜ」とは、ならない。中学生だろうが高校生だろうが、図書室に行かない人間は三年間行かない。

 だから蒲原洋二もその日、雨が降っているから第二図書室にいるわけではない。話を聞く限り、休みの日には山に畑にと、ミミズを求めて外に行くようだが、学校のある日は晴れていても「外で運動しよう」と思わない。

 そして小倉美姫は、蒲原洋二がいるから第二図書室にいる。

 朝方から勢いを増した雨は、さらさらと風に押されて、斜めに降り注いでいる。

 昼休みの第二図書室はいつにも増して薄暗い。

「蒲原くんは……私といて、楽しい?」

「………………退屈な人間で、申し訳ない」

 どうしてすぐに卑屈に受け取るのだと、小倉は慌ててしまう。

「私はここにいたいから、ここにいるの。蒲原くんに〈見つけて〉ほしいから」

「……僕は、楽しいよ。美姫さんと話すのは、楽しい時間だ」

「それでも……それだけじゃ、ダメ? 私とは付き合えない?」

 うーん、と蒲原は腕を組む。

「……僕が今、美姫さんのことをどのように認識しているかというと、〈僕のほかに第二図書室に来る女子〉という一点だけなんだ」

「つまり……私以外の女の子が昼休みにここに来たら、蒲原くんはその子を私だと勘違いしちゃうってこと?」

 遣る瀬なくて憤りさえ覚える。かなりの時間を一緒に過ごしているというのに。

 肩にオウムでも乗せればいいのか。名前を書いた看板を担げばいいのか。髪の毛を緑にでも染めればいいのか。歩きながら唄えばいいのか。

 そんな奇特な習性が、個性と呼べるものなのか。

「よっぽど違えば見分けがつくし、話せばすぐにわかるんだけどね」

 苦笑する蒲原を見て、その陰鬱な雨の日は、何故か無性に腹が立った。

 隠しもせずにため息をついて、小倉は窓の外に視線をやる。

「……蒲原くんって、本当は、人の顔を覚える気がないだけじゃないの? 真剣に人と向き合おうとしてないんじゃ……」

 口から出てしまった言葉は、もう戻ってこない。

 はっとした小倉が、窓際の同じ机の隣を見ると、苦笑を消した蒲原が、石のような無表情で、窓の外を走り落ちる雨粒を凝視していた。

「ご、ごめんなさい、私っ、」

「いや、いいんだ。そのとおりなんだから。人とうまく喋れないのを、人の顔を覚えられないと言い訳にしているだけなんだから」

「私、そんなつもりで言ったわけじゃ……」

「じゃあどんなつもりで言ったの? やっぱり美姫さんは僕に失望したんだろう? だから初めに言ったんだ。『がっかりさせてしまう』って」

 その言葉に、小倉も頭に血が上った。

 ごちゃごちゃとうるさいな、このミミズ男は。

 誰が今まで心配してやったと思っている。

 私がいなければ一日中会話らしい会話さえできないくせに。

 堪忍袋の緒が切れかけた小倉は……

「………………」

 ……しかし、ぎりぎりのところで、罵詈雑言を飲み込んだ。今度は失言を回避した。

 こんなところで感情任せに爆発しては、これまでの関係を壊してしまう。

 怒鳴り散らしたり泣き喚いたりするのは子供のすること。

 子供は子供。女ではない。

 男を落とすには……女にならなくてはならない。

 おだて、育て、言いくるめて、操って利用して、従わせる。

 それが私の……

「……辛かったんだね。蒲原くんも」

 小倉はうなだれて、隠すようにして鼻を啜る振りをする。

「ごめんね。……不安だったのは、私だけだと思ってたから……」

 火に油を注いではならないし、火と火がぶつかれば大きな炎になるだけだ。

 一旦、クールダウンが必要だった。

「本当に、ごめんね。……ど、どうしたら、蒲原くんに覚えてもらえるだろうって、ずっとずっと、考えてて」

 そう言って小倉は、蒲原に背を向けて、嗚咽を漏らす。涙を流す。

「わ、私のほうこそ、自分のことしか、考えてなかった。……蒲原くんの気持ちなんて……ぜんぜん……」

 そろそろかな、と小倉が構えていると、肩に手が置かれた。

「み……美姫さん、泣かないで。……美姫さんは何も悪くないから」

 蒲原からの慰めに、当然だ、と思う一方で、それは違う、と思う自分もいる。

 自分は心から泣いてなどいないし……程度はともかく〈悪い女〉だと自覚している。

 小倉はハンカチで目元を拭い、蒲原に顔を向ける。息を整える振りをする。視線は合わせない。恥らう素振りを見せる。

「ごめんなさい。急に泣いたりして」

「僕のほうこそ、ごめん。感情的になっちゃった」

 それきりふたりは黙り込んだ。

 気まずい沈黙を、しかし小倉はあえて数分間、そのままにしていた。

 その〈気まずさ〉を乗り越えたという実績が必要だった。雨降って地固まるとも言う。この展開を利用すべきだった。

 沈黙を突破するきっかけは、できれば……と小倉が思っていたときだった。

「僕は……もう少し、頑張ってみるよ。もっと注意深く、美姫さんを見るよ。見分けられるように」

 いい子ね、と小倉は心中で呟く。それでこそ男の子だと。

「無理しないで。もっとゆっくり時間をかけようよ。私たちきっと、焦りすぎてたんだよ」

 どさくさに紛れて責任を〈私たち〉に押し付けることができた。何にせよ〈共有〉は絆を深めるものだ。

「そう、かな」

「そうだよ。たぶんね」

 安心させるための笑顔を作り、小倉は蒲原に右手を伸ばした。

「これからも……仲良くしてくれる?」

「う……うん。もちろん。もちろんだよ」

 ほんの少しだけ蒲原は躊躇したが、差し出された右手を、ぎゅっと掴んだ。

「……蒲原くんって、けっこう、男らしい手をしてるんだね」

「そ、そう?……美姫さんは、きれいな手だよね」

「嬉しい」

 勝ったとは言えない。まだまだスタートラインにさえ立てていないのだから当然だ。

 しかし蒲原と握手を交わしたとき、ふたりの手の中に、明らかに結実した何かが握りこまれていたのを、小倉は確信していた。

 自分が勝つまで続ける。

 これは、そういうゲームなのだから。

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