第6話
明けて月曜日。
中間テスト前で全ての部活動が休止されている放課後。
小倉は第二図書室の扉の前に立っていた。
中の様子の伺えない木製の扉の前で、ただ、立ち尽くしていた。
まだまだこれからだ、と鼻息荒く奮起している自分がいる一方で、何をやっても無駄かもしれない、とため息をつく自分もいた。
いつまでも顔を覚えてもらえないのでは、どんな関係も成熟しない。その原因は蒲原にあるのだが、本人でさえどうしようもないため、責められない。
ほかの男を恋人にしたほうが、よほど簡単で、よほど実りがあるかもしれない。
このまま立ち去り、二度と第二図書室を訪れなければ、言葉を交わすことなく別れることができる。蒲原がここに来ない小倉を〈見つけられない〉のだから、それは当然だった。
「………………」
しかし、ひとりきりで第二図書室の机にかけ、自分が来るのを待っている蒲原のことを想像すると、小倉はドアノブに手をかけていた。
せめて自分がどんな思いをしたのかを、知ってもらおうと決めた。
あてつけではなく、蒲原がどのような言葉を返してくれるのか。
今後の身の振り方を決めるのは、その返答を聞いてから判断しよう。
いつにもまして静かな第二図書室は、綿埃が転がる音が聞こえそうだった。
憂鬱な気分でいつもの窓辺の机を目指し……しかし、いつもなら昼休みでも放課後でも、先に来て本を読んで待っているはずの蒲原が、今日に限っていなかった。
「………………」
こんな日もあるだろう。中間テスト前なのだ。勉強しなければならない。蒲原も。自分も。
しかしせめて「明日は会えない」という連絡くらい昨日のうちに寄越せないものかと、小倉はいらいらした。
今までで一日たりとも蒲原が小倉よりも遅く来たことはないが、それでも日直か何かで遅れている可能性もあったので、小倉はしばらく待つことにした。
林立して聳える背の高い本棚を巡り、背表紙のタイトルを見るともなく眺めていく。どれもこれもが古い本ばかりで、小倉は蒲原のようには興味がそそられなかった。
あっという間に隅から隅まで歩いてしまい、往復する間に来なかったら帰ろうと小倉は思った。
すると、ぎぃ、と扉が軋む音が聞こえた。第二図書室の隅にいても音は届いてきた。
やっと来たかと、小倉は歩き出そうとした。
「……どうぞ。ここなら誰も来ない」
ぴたりと、引っ張られたように小倉は足を止め、引っ張られるようにして本棚の陰に隠れた。
がちゃん、と第二図書室の扉が、内側から鍵をかけられる。その音が響く。
静かな室内に響く足音が、ふたり分。
蒲原洋二が、誰かを連れ込んできていた。
まさか別の女子を自分と勘違いしたのかと思ったが、自分を相手に「どうぞ」など言うはずがない。
「……内緒話にはうってつけだ。聞くよ、何でも」
いったい、蒲原は誰を連れてきたのだろう。わざわざ扉に内側から鍵をかけてまで、誰と〈内緒話〉をするつもりなのだろう。
小倉が耳を済ませると……
「ちょっとしたアドバイスのつもりだけど……その前に、質問してもいいか?」
男……それも、聞き覚えのある声だった。
どこで聞いた声だろう。
「いいよ。なに?」
「お前さ、ナントカっていう生物学の賞、もらったんだろ?」
「そうだね」
「賞金二百万」
「ありがたくもらったよ。それが?」
「まだ残ってるのか?」
「手を付けてない。……でも、だから? もしかしてカツアゲ?」
盗み聞きしている小倉からも恐喝のように聞こえたが、男の声は「違う違う」と言う。
「むしろ逆。……お前のその金、狙ってる奴がいるぞ」
「さて、誰かな?」
「小倉美姫だよ」
自分の名前が出てきたところで、ようやく小倉は、男の声が誰かがわかった。こっそりと盗み見たことで確定した。
通学鞄を肩にかけている蒲原の前に立っていたのは、二週間ほど前に、屋上の扉の前で自分に告白してきた男子生徒だ。
名前は……何だっけ?
蒲原のことを馬鹿にできないと小倉が思っている間にも、会話は進んでいた。
「どうして、美姫さんが僕の金を狙っていると思うの?」
「……ずいぶん、仲良くなってるみたいだな。下の名前で呼ぶなんて。ますます危険だよ」
「まどろっこしいね。僕の大切な友達を泥棒扱いする説明を要求する」
蒲原はこんなに喋れる人間ではなかったはずだが、そのときはやけに流暢で、口から出る言葉は滑らかだった。おどおどとした感じが一切ない。
それを相手の男も感じたのか、張り合うように強気な表現を選ぶ。
「説明しなくちゃわからない、なんて、よっぽど騙されてるよ、蒲原。……小倉は、お前の持っている金が目当てで、お前に擦り寄っているんだ」
男の言っていることは、何も間違っていない。確かに自分は、蒲原洋二という男を魅了して、自由にできる金をできるだけ自分に貢がせようとした。
しかし、小倉は衝動的に、「違う!」と叫んで割り込みたくなった。
何故そうしたくなったのかは、小倉にもわからない。
「このまま小倉と付き合ったら、なんやかんやで有り金全部巻き上げられるぞ? ミミズを売って大儲けしてるって噂もあるけど、何にせよ金がなくなったら用済みさ。小倉はすぐにほかの男に乗り換えるよ」
しかし、ふたりの会話に割り込むまいと決めた自分の心は、説明できた。
「あんな美人が急に近付いてくるなんて、変だと思わなかったか?……実は俺も告白したけど、その場でふられたんだぞ?」
これを見極める基準にしようと決めたからだ。ある意味でいい機会だった。
もしも……真実に近いその噂を蒲原が信じたら、彼から手を引こう。
「……親切な助言だと思って、あんな金目当ての女とは、さっさと縁を切れよ。ろくなことないぞ?」
いい頃合だった。
自分をいつまでも〈見つけて〉くれない人との関係など、望んでも……
……しばらくの沈黙に、耐えられなくなった小倉は、もう一度ふたりの声のするほうを盗み見た。
すると、
「……『幸いなことに、僕は本当に人間だ。だが残念なことに、その事実がどう役に立つかはわからない』……」
蒲原が猫背の背中を伸ばして、奇妙なことを呟いていた。
「あ? なんだって?」
「最近読み終えたんだけど……〈機械より人間らしくなれるか?〉という本の、冒頭の一文だよ。何故だかとても印象に残っているんだ」
そう言って蒲原は、通学鞄の中から、一冊の文庫本を取り出した。小倉がプレゼントしたブックカバーがそのときも装着されていた。
「ところで……この本の原題は、とても興味深い英文なんだ……〈The Most Human Human〉」
小倉はその原題を聞いて首を傾げたが、相手の男もそうだったらしい。
「〈ヒューマン・ヒューマン〉?」
「〈最も人間らしい人間〉、という意味らしい。……僕は、この本を読めば、少しは人間らしさが手に入るんじゃないかと期待した。あるいは人間らしい人間に出会えるんじゃないかと夢想した」
話の流れを知っているのは蒲原しかいない。その場にいる人間は、彼の語りに意識を傾ける。
「でも、この一ヶ月の間で、考えが変わった。……変えてくれたのは、美姫さんだ」
それまでふわふわとした口調が、急に険を帯びた。
あからさまな敵意を表現した。
「確かにきみの言うとおりかもしれない。美姫さんは僕の持っているいくらかのお金が目当てで近付いてきているのかもしれない。……しかし、きみの助言とやらには、決定的な論理の飛躍がある」
「……飛躍って、なんのことだよ」
「きみはどうして、金目当ての女が悪い女だと決め付けているんだ?」
蒲原の弁は、当の本人である小倉でさえ、意味がわからなかった。
普通は悪いに決まっている。
「……お前、なに言ってんだ?」
至って当然の疑問だ。今の小倉には助言者の男のほうがまともに思える。
蒲原は淡々と説明した。
「きみの論では〈金目当ての女は相手の男に金がなくなるとすぐ捨てる〉となる。だけどそれは金目当てじゃなくても起こり得ることじゃないか? たとえば、付き合っている男が無職になる。……これは別に、恋人が別れを切り出す理由として、特に不自然な点は見当たらない。たとえば、隠していた借金がばれて結婚が破談になる。……ない話ではないだろう?」
蒲原の話し口調を聞いて、そういえば彼は理系だったなと小倉は思っていた。いちいち真面目ったらしくて回りくどい。
「結婚相手の条件に年収がいくらだとか、そういう希望を考える女性はごまんといるだろう」
「話しがなげーよ。何が言いたいんだ」
「もう結論だよ。……つまり、金目当ての女性は、必ずしも〈悪い〉わけではない。よってきみが美姫さんを〈悪い〉と決め付ける理由がなくなるので、僕はきみにこう言う。……『余計なお世話だ』」
おとなしい印象の蒲原が、強い口調でそんなことを言ったので、小倉は大層驚いた。
だが、相手の男はもっと驚いたのだろう。
「お前……人が親切で、忠告してやってるのに……!」
「ここからは僕の邪推だけど、きみはまだ美姫さんを諦めきれていないんだろう? 僕……〈ミミズ男〉にふられてショックを受ける美姫さんを、慰める振りをして近付きたいんだ。どうかな?」
「なっ……!」
図星を指されたのか、男は言葉に詰まった。
「今度は僕から親切な助言をしよう。美姫さんが〈金目当ての女〉だとしたら、すでに交際を断られているきみには、まったく可能性がないはずだ。諦めたほうがいい」
「お前……ほんの偶然で金が入ったくらいで、偉そうに……!」
「偶然じゃない。十年だ。僕は十年をかけた研究でお金を得たんだ。棚からぼた餅が転げ落ちてくるのを待つだけで、取ろうとする努力さえしない人にとやかく言われる筋合いはない。〈金目当ての女〉がほしいのなら、金を稼げばいいだけじゃないか」
もはや暴論に近い蒲原の弁舌に、隠れて聞いていた小倉は、いつの間にか声を殺して笑ってしまっていた。
相手の男は、そこで、ふん、と鼻を鳴らした。
「お前さ、自分の陰気な顔、鏡で見たことあるのかよ?」
「眼鏡を新調する度に絶望しているよ」
「そりゃ何よりだ。……そんな陰気な顔が本気で好かれるわけねーけど、まぁ、お幸せに? 勘違いしてるけど俺は目が覚めてる。あんな女いらねーよ」
「〈すっぱいぶどう〉だね」
「お前だって、あの女の本性は知らないだろうが」
「いいや、知っているね」
蒲原はきっぱりと言い切った。
小倉はどきりとする。
「僕は彼女について、きみの知らないことをたくさん知っている。……美しい昆虫の写真に目を輝かせたこと、髪をかきあげてため息をごまかす仕草、ナイフのように研ぎ上げられたきれいな爪、僕のつまらない話をちゃんと聞いてくれる真摯さ。……きみにはそれを知る機会がないだろう?」
「……知ってるからなんだってんだよ」
「その程度に特別ってことさ。……僕にとっての彼女も。彼女にとっての僕も」
小倉は、息を潜めて、じっと聞いていた。
「僕にはもう、〈
蒲原の言葉を、ただ、じっと、聞いていた。
意味わかんねーよ、と捨て台詞を吐いて、口論相手の男は、第二図書室を出て行った。
あとには小倉と蒲原だけが残された。
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