第7話

 蒲原が、いつものように窓辺の机に座ったのを確認して、小倉は第二図書室の出入り口に向かう。

 扉を……開けて、閉める。出入りせずに、音だけを立てる。

 そうして何食わぬ顔で、蒲原の許へ歩いた。

「やっ」

「うん。今日はずいぶん遅かったね」

「ちょっとね。待たせちゃった?」

「いいや。僕も日直を済ませてさっき来たところだよ」

 嘘つき、と小倉は、自分を差し置いてそう思った。

「体調はどう? 治った?」

「元気よ。すごくね」

「……今日は何か、いいことがあったの? いつもより眩しいよ」

「何でもない。蒲原くんに会えて嬉しいだけ」

 そう言ってごまかした小倉は、蒲原の隣に座った。

 蒲原の、物凄く近い、隣に。

「み、美姫さん?」

 つい先ほど堂々とした啖呵を切っていたというのに、相変わらず蒲原は、小倉の接近にどぎまぎしてくれる。

 しかし今日……今に限って、からかうつもりはなかった。

「大事な話。聞いて」

「ん?……うん」

 ふたりは椅子の上で向き合う。

 小倉は、しばらくじっと、蒲原を見つめた。

 うねり狂う癖の強い頭髪。ひ弱そうななで肩。しゃんとしろと言いたくなる猫背。

 度の強い黒縁の眼鏡。その奥の、猜疑心の強い憂鬱そうな目。

 見れば見るほど……個性的な人間である。

「私ね……もう、蒲原くんに〈見つけられ〉なくてもいい」

 何故この答えに、今までたどり着けなかったのだろうとさえ思う。

「私が、蒲原くんを〈見つける〉」

 待つ必要などなかったのだ。

「……私が見つけるよ、蒲原くん。きみが私を見つけられなくても、私がきみを見つけるよ。そしてあなたの名前を呼ぶ。大きな声で。大きく手を振って……」

 金色の毛並みを持っていなくとも、とびきり愛嬌のある羊がここにいるぞと、目の悪い羊飼いに抱きつきに行けばよかったのだ。

「きみを見つける私を、好きになってくれない?」

 想いを伝えた小倉に、蒲原は背筋を伸ばした。

「……ありがとう。……うん。嬉しいよ」

「嬉しいとかじゃなくて、答えを聞きたいの」

 小倉が急かすと、蒲原は苦笑した。

「いやね、そういうことなら……土曜日に声をかけなかったのは、まずかったなぁって、思ってたんだ」

「え?」

 一瞬の混乱。

「きっ」

 気付いていたの、と言いかける。

「……なんのこと?」

 寸でのところで、知らない振りをすることができた。

「いや、だって、土曜日に天神にいたでしょ? ジュンク堂に行ってたでしょ?」

「う、うん。いた、けど」

 問題はそこじゃない。

 というか……大問題発生だ。

 小倉は音を立てて椅子から立ち上がった。

「か、蒲原くん、私のこと、〈見つけられる〉のっ!? 見分けられるようになったのっ!?」

「あ、う、うん。僕も土曜日、びっくりしたよ。美姫さんだけが『美姫さんだ』とわかったから……」

「なんで!? なんで声かけてくれなかったの!?」

「いや、だって、僕は本屋ではひとりでいたいし。……美姫さんもひとりでいろいろ本を探していたようだったし。……邪魔しちゃ悪いかなと思って……」

 もじもじもごもごと言い訳され、小倉は無性に腹が立ってきた。

 道化を演じた土曜日と、ずっと寝ていた日曜日を無駄にされたことではない。

 自分がどれだけ……

「……私が、どれだけ……」

 自分の目から涙が流れ落ちるまで、自分が泣いていることに気付かなかった。

 体の横で手を握り締める。肩が震える。目の奥が熱い。

 嘘ではない涙を流したのは、いつ以来だろう。

「……わたし、ずっと……」

「……ごめん、美姫さん」

 蒲原がすっと立ち上がり、石のように硬く握り締められている小倉の手を取った。

 小倉の華奢な両手を、蒲原のごつごつとした手が包んだ。

「本当にごめん。余計な気を遣わずに、あのとき言えばよかったね。『きみがわかるよ』って」

「……ほんとだよ。……黙ってること、ないじゃない」

 蒲原に謝られて、急に冷静になってきた小倉は、頬を伝う涙を一刻も早く拭いたかった。こんな醜態を蒲原に見られたくなかった。

 しかし、蒲原は彼女の手を離さなかった。

「……そう。だから今度は、僕から言わせてほしい」

 一拍の間を置いて、蒲原は言った。

「僕は美姫さんが好きです。これからも僕と一緒にいてください」

 ……その言葉の直後に、小倉の全身から力が抜けた。

 肩が下がり、顔が上がった。

 蒲原と目が合った。

「〈個性を示せ〉……僕の無理難題に、美姫さんは付き合ってくれた。そして美姫さんは見事にこれをやってのけた。自分がほかの誰でもないこと、〈唯一〉であることを証明した」

「……私……言うほど個性なんて、きっとないよ。どこにでもある顔だよ」

 小倉が俯こうとすると、蒲原は握っていた手を引き上げることで、彼女の視線を引き戻した。

「きみが美人だから、おしゃれだから個性があると言いたいわけじゃない。……きみが〈美姫さん〉だとわかったなら、それで十分なんだ」

 ああ、まずいな、と小倉は思った。

 人生最大の危機だった。

 自分が……恋をしてしまう。

「きみがきみだから、僕は好きだ」

 そう言って蒲原は、小倉の手を離した。

「僕と……きみを、恋人だと、思っても、いいかな?」

 ここに来て尻込みさえ感じる蒲原の言葉に、小倉は赤くなった目で、笑ってしまう。

「しょうがないなぁー」

 だが、何も問題はない。

 これから自分が、目の前の男を育てればいい。

 自分が愛せるように。

 そして自分も変えていく。

 彼に愛してもらえるように。


 帰り際、駐輪場にて、ふと思いついた疑問を口にする。

「蒲原くんさ、どうして私のこと、〈美姫さん〉って呼ぶようにしたの?」

「……あー……それはー……」

 どうやら言いたくない理由があるらしい。

 ならば聞かねばならない。

 負けっぱなしは性に合わないのだ。基本的に。

「五秒以内に答えて。5、4……」

「わ、わかったよ」

 別に付き合わなくてもいいのに、真面目な蒲原はちゃんと答えてくれる。

「でも、怒らないでね?……〈おぐら〉っていう響きが、好きじゃないんだ」

「なんで?」

「……〈もぐら〉みたいだから」

 いつか言っていた。

 ミミズの天敵はモグラだと。

 この男はつくづく〈ミミズ男〉だと、小倉は隠しもせずにため息をひとつ。

「そんなしょうもない理由だったのね……ちょっとがっかり」

「ごめんね」

「まぁいいや。……いずれお互いに、必然的に名前で呼び合うかもしれないしね」

「必然的に?」

「苗字が一緒になることもあるでしょう?」

「え?」

 きょとんとした顔の蒲原をみて、小倉はにやりと、底意地の悪い笑みを浮かべた。

「じゃあね。バイバイ」

「ちょっと美姫さん、今なんて言った?」

「また明日ねー!」

 そう言い残して小倉は、自転車で颯爽と走り去っていった。


 五月が終わる。

 夏がすぐそこまで来ていた。




 ミミズ男はヒューマン・ヒューマンを探す ~完~

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ミミズ男はヒューマン・ヒューマンを探す 朽犬 @pocket2

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