第2話

 一年一組に所属する小倉美姫が、一年二組に所属する蒲原洋二を知ったのは、生物の選択授業でのことだった。

 四月最初の授業で、しかし生物教師は、自己紹介や生物の授業についてなどの説明もそこそこに、とある男子生徒を指名して前に立たせた。

 生物教師曰く、この子は若くして素晴らしい研究と発見を成し遂げた、とのことだった。

 ざわつく教室内で、小倉は、不機嫌そうに立たされている男子生徒について、少しだけ興味が湧いた。少なくとも退屈な授業を聞くよりかは。

 生物教師の語るところによると、彼、カンバラ・ヨウジは、幼いころから〈ある生物〉に興味関心を示し続け、独学で研究と交配を重ねるうちに、優れた品種を開発したとのことだった。

 その生物というのが……ミミズだった。

 ミミズという単語を聞いて、教室内にいる全ての女子が顔をしかめた。そのときは小倉も漏れなく。

 カンバラが交配によって生み出した品種、〈カンバラミミズ〉は、大きさもさることながら、生命力と繁殖力が強く、土壌改良に優れている、とのことだった。ミミズは生態的地位としては最下位に位置するため、カンバラミミズを地球上のどの地域に人為的に導き入れても、生態系に大きな影響を与えることなく、肥料に頼らない土壌改良に貢献してくれる、らしい。

 そのときの生物教師は、益虫としてのミミズの働きも説明していたが、虫が嫌いな小倉はノートに落書きをしながら半分聞き流していた。

 しかし、カンバラ・ヨウジが中学三年生のときに、有名な生物学の賞を取った、という紹介において、彼女の態度は変わった。

 カンバラ・ヨウジ。

 心のメモ帳に記す。

 小倉は帰宅後、すぐに自宅のパソコンで、〈カンバラ・ヨウジ〉についてネット検索した。

 カンバラ・ヨウジ……蒲原洋二は、確かに去年の夏に、とある国内の生物学賞を得ていた。

 きっかけは、蒲原がネットにブログとして上げているミミズの育成日記を、とある研究機関の職員が見つけたことだった。面白半分で蒲原とメッセージのやり取りをしているうちに興味が強くなった職員は、蒲原の自宅を訪問。

 そこで見つけたのが、気の遠くなるほどの時間をかけた交配の結果で誕生した、既存のどの種とも似ていない特殊なミミズだった。

 驚いた職員は、このミミズを使って知り合いの教授に実験を依頼してもいいかと打診。蒲原は快諾。サンプルを提供。

 実験の結果は、数ヵ月後にその大学教授本人から伝えられた。蒲原が作成したミミズは、益虫としての機能がとても高いことが証明された。

 その後、大学の推薦を受けて、蒲原は〈カンバラミミズ1号〉で受賞。賞金二百万円を得る。

 賞金という単語に、ディスプレイを見つめる小倉の目の色が変わったが、それ以降の金の流れは事実ならば涎が出そうなほどだった。

 ここから先はネット掲示板の噂話になるが……蒲原は、〈カンバラミミズ1号〉について、「趣味でやっていることだから、面倒なことに悩みたくない」として、交配方法の特許申請をしなかった。しかし秘匿されたことで却って研究者の興味を誘い、企業や研究所から蒲原に、研究と養殖を目的に「きみのミミズを譲ってくれないか」という依頼が舞い込む。

 欲に目が眩んだか、それとも商売欲の強い者を振り落としたかったのか。安売りをしたくなかったのか、それとも単に自分のミミズが可愛かったからか。

 蒲原は〈カンバラミミズ1号〉に、とんでもない値段を付けた。とある書き込みでは〈一匹につき百万円〉とされている。

 噂の顛末は二通りある。

 ひとつは、「呆れた値段に研究者たちは引き下がった」。

 もうひとつが……「蒲原洋二は何千万円もの大儲けをした」。

 そこまで情報を集めたところで、小倉美姫は決意した。

 蒲原洋二を、最初の恋人にしよう。

 確かめる価値があった。

 少なくとも……受賞時に受け取っている賞金二百万円は、まだ残っているかもしれなかったから。


 翌日、休み時間の一年二組の様子をひっそりと探ると……前日の生物の授業のせいで噂が広まったのだろう。時の人となった蒲原がクラスメートに質問攻めに遭っていた。

 包囲して攻め込んでいたのは男子ばかりだった。ミミズという気色悪い生物だからか、女子は蒲原に関心を持っていないようだった。これは小倉にとっては好都合だった。

 そして更に好都合なことに、蒲原は人付き合いが苦手なようだった。コミュニケーションの拒絶の仕方が人間としては致命的で、しどろもどろでも会話をすれば救いがあるものを、蒲原は〈無視〉という一番やってはいけない方法を一貫して続けていた。

 数日もすると、蒲原洋二は、〈陰気なミミズ男〉という最悪な心証を周囲にばらまいていた。

 小倉はしばらく、蒲原に話しかけるタイミングを待った。その間に同級生と上級生に「付き合ってほしい」と男女交際を申し込まれたが、丁重に断っている。

 自然に過ごして機を伺うこと数日、昼休みに廊下を歩く蒲原を見つけた。

 重度の猫背でぬるぬると歩いていた蒲原。小倉はふと、どこに行くのかな、あとをつけてみよう、と思った。

 距離を置いて尾行して、図書室のある棟に入ったときは「なぁんだ」という感想だったが、図書室に入らずに一階に下りていったときには、少し驚いた。

 本当に、どこに行くのかと、ばれないように階段の踊り場から観察していると、〈第二図書室〉と書かれた部屋に入っていった。

 二週間前の四月下旬。

 小倉が初めて蒲原に話しかけたところから、物語を再開しよう。


 蒲原に続いて、小倉は薄暗い第二図書室の中に静かに入った。

 陽気な春の昼休みだというのに、そこはひんやりとしていて、若干かび臭かった。紙とインクの匂いがするような気がした。

 休み時間のざわめきが、遠い。

 室内のどこかにいるはずの蒲原を探して、小倉は書架の間を歩いた。

 すると、

「ひゃっ」

「うわぁああうっ!」

 唐突に、角から現れた蒲原に遭遇した。お互いに本棚に目移りしていて、ふたりは危うくぶつかりそうになった。

 小倉は小さく体を強張らせる程度で済んだが、蒲原は大声を上げて尻餅をついた。それもそのはず、小倉は蒲原が第二図書室の中にいることを知っていたが、息を潜めていた小倉の存在に気付けなかった蒲原は心の準備ができていなかった。

「ご、ごめんなさい!」

 とはいえ、急な遭遇で小倉もそれなりに驚いていた。

 本心から謝り、蒲原の手から床に落ちた本を拾い上げた。

「ごめんなさい。誰かいるとは思わなくて」

「ああ……いや……うう」

 あたふたと蒲原は、ずれた眼鏡を直したり、胸や頬をさすったりと、忙しない。

「あの……大丈夫?」

「う……うん。……うん。……だい、じょうぶ」

 ようやく立ち上がった蒲原は、息を整えながら、落とした本を小倉から受け取った。

 蒲原は小倉よりも数センチほど身長が高かった。もっとも、猫背を直せばもっと差がつくはずなのだが。

 このとき、小倉は即断した。勢いで畳み掛けてしまえ、と。

 鉄は熱いうちに……ではなく、蒲原の心臓が熱いうちに、吊り橋効果を狙ってしまえ、と。

「きみ……蒲原くん、だよね?」

「う……ん?」

「生物の授業で一緒の」

「ん……」

 蒲原の反応は鈍い。自分は容姿が目立つほうだと自覚している小倉は、少しショックだった。社交性のない蒲原のせいにした。

「私、隣のクラスの小倉っていうんだけど……わからない、よね?」

「……ごめん。知らない。覚えてない」

 小倉はめげない。

「ここでなにしてるの?」

「僕は……僕は、ここで、本を読むために、だけど……?」

「……あ、私? 私は、なんとなく歩いてたら、ここに」

 不自然さははぐらかしてしまうに限る。

「こんな静かな場所があるなんて、知らなかった。蒲原くんは、昼休みはいつもここにいるの?」

「う……ん。うん。そう。……最近、いろいろ、人が、面倒で」

 どうやら蒲原は、会話からして苦手なようだった。

 こちらのペースに巻き込めば、丸め込めるだろうかと、小倉は一瞬だけ思案。

「何か、嫌なことでもあったの?」

 知らない振りをして話を聞きだそうとする小倉に、蒲原は猜疑心の強い目を、眼鏡の奥で細める。

 すぐに小倉はふるふると首を振った。

「ごめんね。いいの。こういうのが面倒だもんね。迷惑だったよね?」

「いや、そんなことは、ないけど」

 不審さをごまかして蒲原の口から否定を引き出させた。

 優しい心につけこんで、もう一押しできるだろうか。

「私、邪魔かな? 邪魔だよね? せっかく本を探しに来てるのに」

「邪魔では、ないけど」

「そう? それなら少し、お話ししてもいい?」

「う、うん」

 予想どおりに、蒲原は押しに弱い人間のようだった。

 昔からそう。奥手をからかうのはいつも楽しい。

 あっちにテーブルがある、とのことだったので、小倉は猫背についていった。

 南側の窓辺の椅子に並んで座った。

「おぐ、小倉さん、だっけ? 話ってなに?」

 そわそわと視線をさまよわせている男を見ていると、自分が優位に立っていることがわかる。

「うん。なんかね、クラスのみんながね、『蒲原くんはすごい』って噂してたから、どんな人なのかなーって、興味があったの」

 蒲原が自分を知らないことを利用しよう。あの生物の授業にいなかったことにして。

「なにか、有名な大会にでも出たの?」

「いや、そうじゃなくて……」

 そこから蒲原は、ぽつぽつと自分語りを始めた。

 国内の生物学の賞を取ったこと。「すごーい」。ミミズを独学で研究していたこと。「そうなんだ」。子供のときからミミズが好きだったこと。「どうして?」。

 小倉が質問と相槌を丁寧に挟んでやると、蒲原はだんだんと饒舌になり、話はどんどん昔へと遡っていった。

「……六歳のとき、僕は『ミミズの入った土の水槽を逆さにしたらどうなるだろう』と思ったんだ。何か発見があるんじゃないかと思った。最初は何も気付かなかったんだけど、条件を変えて繰り返しているうちに……」

 遡るだけならまだしも、蒲原はミミズについての研究と愛をも語りはじめた。

「ミミズの採集は結構神経を使うよ。粘土質の土の隙間に入り込んでいるミミズは、無理に引っ張り出したら千切れてしまう。丁寧に作業しないと……そうそう、ミミズは木の根元にたくさんいるんだ。多分栄養が豊富だからかな。土中の細菌なんかとも関係が……」

 ミミズが話題の蒲原は水を得た魚のようで、表情が生き生きとしていた。本人は気付いていないだろうが、背筋がしゃきっと伸びていた。

「モグラがやっぱり一番の天敵だね。モグラはミミズが好物だから。そうでなくても害獣だから駆除はする。こう……一度入ったら出てこれない〈返し〉のついた罠をモグラの生活する穴に仕掛けて……ん? ああ、わざわざ殺す必要はないんだ。モグラは一日何も食べないと死ぬ生き物だから。罠を土から引き上げるときには死んでいるよ。それでね……」

 ミミズについてこれっぽっちの興味もない小倉にとっては、退屈な時間でしかなかった。あくびが出そうになるのを何度も堪えた。

「シーボルトミミズは大きいもので三十センチくらいの国内最大種なんだ。森の中に住んでいるんだけど、面白いことに、季節によって大きく移動する習性が、」

 廊下の外で、チャイムが鳴った。小倉にとっては「やっとか」という感慨さえある、昼休みの終わりだった。

 その瞬間、我に返ったかのように蒲原は、するすると萎んで猫背に戻り、申し訳なさそうに俯いた。

「……ごめん。……僕ばかり、話して」

「ぜんぜんだよ。面白い話を聞けて楽しかったし」

 100パーセントの嘘を言いつつ、小倉は立ち上がる。

「それに、やっぱり蒲原くんはすごかったんだなぁーって思った。好きなことを話してる蒲原くん、なんだかかっこよかったよ?」

「そっ、そんなことは、ないよ、きっと、ぜんぜん、うん」

 褒められ慣れていないのだろう。おたおたと慌てる蒲原は、見ていて愉快だった。

 一緒に第二図書室を出て、並んで階段を上る。

 教室に戻る生徒たちと廊下で合流する前に、「済ませておこう」と思った。

「蒲原くんは、昼休みはいつも、第二図書室?」

「う、うん。静かだし、誰も来ないし」

「誰も……ねぇ、これから私があの部屋に行くようになっても、蒲原くんは、変わらずに来てくれる?」

「えっ?」

 よほどの驚きだったのか、階段の途中で蒲原は立ち止まった。

 数段先で小倉は振り返り、もじもじと恥らう素振りを見せる。そのように装う。

「その……私ね、あんまり友達、いないの。だから蒲原くんさえよければ、私の話し相手になってほしいな、って……」

 絶対に自分の思いどおりに事は運ぶ。

「ダメ、かな?」

「だ……ダメだなんてことは、ぜんぜん。……僕も、友達なんて、いないし……」

 黒縁の眼鏡の位置を直した蒲原は、珍しく、まっすぐに小倉を見た。

「僕でよければ、こちらこそ」

 いつの間にか頼む立場が逆転していたが、小倉は満面の笑みを浮かべて、用意していた返事を口にする。

「ありがとう。嬉しい」

 これで落ちた……と、そのときは思っていた。

 小倉にはその確信があったというのに。


 それから、学校がある日の昼休みは毎日、第二図書室でふたりは落ち合った。

 先に来て本を読んでいる蒲原の背中に、小倉は毎日声をかける。

「今日は何の本?」

「これは……嫌いな人にはおすすめできないタイプの、虫の本」

 どんな本を読んでいても、小倉が来ると蒲原は読書をやめる。てっきり人がいる前でも読書を続行するタイプだと思っていただけに、小倉には意外だった。

 第二図書室でふたりは、言葉を交わす。

 焦らず急かさず、蒲原のリズムに合わせて。

「蒲原くんは理系に進むの?」

「理系……だね。うん」

「将来は?」

「なんとなく、研究職がいいかな、って。虫とか、微生物とか、細菌とかの」

 放課後も捕まえられるだろうかと、小倉は目論んだ。

「よければ勉強教えてほしいんだけど……」

「ん……ごめん。放課後は、帰ってからいろいろ、忙しいから」

「そっか」

 私よりミミズが大切なのかと、小倉は心中で軽く傷つき憤慨した。しかし堪えた。

 蒲原は鈍感だろうと、わかりやすく踏み込んでもみた。

「蒲原くんって、お休みの日は何してるの?」

「休みは……ミミズの世話とか採集とか実験とか。あとは、読書、かな」

「どんなおうち? 行ってみたいな」

「……んー。あー。……僕の家に来るのは、おすすめしない。たぶん、気味の悪い思いを、させるから」

 一体どんな部屋で寝起きしているのかと一瞬だけ想像して、気持ち悪くなりそうだったのですぐにやめた。自分から言い出したことだが、自宅に誘われなくて良かったと小倉は安堵した。

 それにしても、と小倉は、蒲原と過ごす日数を重ねていくうちに、やきもきしはじめていた。

 蒲原からのリアクションが芳しくなかった。

 たとえば自然を装って肩や手に触れてみると、面白いように蒲原はうろたえてくれるが、決して言い寄ってはこなかった。第二図書室は危険なくらいに人目に付かず誰も来ないというのに、何もしてこなかった。

 いくら奥手でもそろそろ自分を好きになってくれるはずなのに、と目算を外されて小倉は悔しい思いを募らせる。蒲原と交流をしているうちに、話したこともない同級生からの交際の申し出もあったくらいだというのに、目当ての男が好んで話すのはミミズのことばかり。

「蒲原くん」

「なに?」

 このままでは埒が明かない。今のままでは卒業まで〈友達〉のままだ。

「今日の放課後、少しだけここで、私に時間をちょうだい」

「ん? うん。いい、けど」

 小倉のほうは実力行使に踏み切るつもりでいるのに、肝心の蒲原は、まったく何も、その予兆を悟ってくれなかった。


 窓の外から、運動部の掛け声と、吹奏楽部の管楽器の音色が届いてくる。

 ふたりは第二図書室にいて、いつも会話を交わすテーブルの前で、立って向き合っていた。

 学校という場所の、放課後の音楽を聞きつつ、小倉ははっきりと伝える。

 話しているうちに、好きになった、と。

 私と付き合ってほしい、と。

 寝癖で猫背でなで肩で、さらには痩せ型の、冴えない男に向かって。

 ……本来なら蒲原に言わせるはずの言葉を口にしているとき、どうして私から、とさえ小倉は思っていた。自分から言い出したのでは〈これから〉の立場で優位に立ちづらくなる。絶対に言いたくなかったのに。

 小倉はそのように思っていた。

 そのように思っていた小倉は……

「ごめん。付き合えない」

 ……まさか、自分の申し出が断られるなどとは、少しも予想していなかった。

「……え?」

「ごめん。本当にごめん。……気持ちは、とても、とても、とても、嬉しいのだけど」

〈ふった〉ことはあっても〈ふられた〉経験のなかった小倉は、数秒間混乱した。自分との交際を受け容れた蒲原に対してどのような態度で振る舞うかばかりを考えていた。

「わ……私じゃ、ダメ、なの?」

 動揺のあまり、言葉に本音が見え隠れ。

 しかし幸いにも、心底申し訳なさそうにしている蒲原は気付かない。

「小倉さんには、もっと、いい人がいると思うよ」

 蒲原に自分の知らない想いを寄せる人や恋人がいるわけではないらしい。

 自分が言われる立場になると、こんなに傷つく気遣いだったのかと思い知らされる。

「ど、どうして? 私じゃ、どうしてダメなの?」

「……僕には、釣り合わない。こんな、ミミズのことしか話せないような男じゃ……」

 そんなことかと、小倉は少しだけほっとした。

 そんなことは最初からわかりきっている。

「釣り合いだなんて言わないで。お願いしてるのは私だもん」

 ここまで下手に出て、後々挽回できるだろうかと不安になるが、そもそも〈契約〉さえ危ういのだ。なりふり構ってはいられない。

 蒲原は、んー、と言葉を考えつつ、ごわごわしたうねり狂う癖の強い頭髪をがしがしとかき混ぜる。

「ごめん。ちょっと嘘ついた」

「嘘?」

「いや、〈ミミズ男の恋人〉じゃかわいそう、ってのも本当だけど。……核心のことを言うと……小倉さんを傷つけるかな、と思って」

 この男は一体なにを言い出すのかと、小倉はありとあらゆる罵詈雑言を予想した。

 直後に蒲原が口にしたのは、小倉の予想の全ての上を行く、想定外というよりも心外な一言だった。

「小倉さんは、僕にとって、印象に残らないんだ」

 ……九州に、熊は生息しない。

 このときの小倉の受けた衝撃は、通学路の路上で熊に遭遇するほどの驚きで、頭を真っ白に、放心させた。

 印象に残らない。

 これまで何人もの男に交際を求められ、その何十倍もの人間に「かわいい」と言わせた小倉にとっては、「お前には存在価値がない」と言われるのと同義だった。

 言葉を失っている小倉の前で、おろおろと蒲原は、「違う、違うんだ」と言う。

「お、小倉さんは、とっても美人だよ。本当に。お世辞でなく。それに、頭の回転も早いし、気が利くし、明るくて喋っていて楽しいし。……そんな小倉さんに『付き合ってほしい』と言われた僕は、とても幸運なんだということも、わかっている」

 衝撃で立ち直れずにいる小倉は、立ち尽くしたまま第二図書室の床を見ていた。

 目の前から、蒲原の大きなため息が聞こえた。風に乗って誰かを憂鬱にさせるような、ありとあらゆる呪詛を乗せたため息だった。

「…………あんまり言いたくなかったけど……僕は生まれつき、人間として欠陥を抱えている。……〈人の見分けがつかない〉んだ」

「……え?」

 顔を上げると、蒲原は……苦い、苦すぎる表情を浮かべていた。

「僕は、人の個性を、把握できない。……認識できない。記憶できないんだ」

 大袈裟な言い方をするとね、と蒲原は言った。


 蒲原洋二は語る。

「目の前に人がひとりいるとして……目や耳や鼻の形、輪郭、体格、髪型、ほくろなんかの特徴は、なんとなく掴める」

 蒲原洋二は語る。

「目の前に人がふたりいるとして……性別が違ってたらもちろんだけど、たとえ同性でも、ふたりの顔がどのように違うのかは、並べてみたらちゃんとわかっている。……そのつもりではある」

 蒲原洋二は語る。

「目の前に人が三人いる。まだ大丈夫。個体差がわかる」

 蒲原洋二は語る。

「四人、五人、六人、七人……すべて年齢が近くて同じ性別なら、もうダメ。僕には、その人たちの違いがわからなくなる。……僕なりに、克服しようと努力はしているんだけど」

 ここで小倉が割り込んだ。

「それは、誰に対しても?」

 お前の眼鏡は何のために耳と鼻に引っかかっているのか、という疑問は喉許で堪えた。

 蒲原は首を横に振る。

「もちろん特別に長く接している人は違う。家族とかね。……でも、たとえば、体育館に全校生徒が集まったとしたら、僕は絶対に、小倉さんを見つけられない」

 私でも?……と言いそうになったが、奇跡的に、その部分については蒲原が答えてくれた。

「小倉さんは美人だよ。とてもかわいいと思う。……でも、きれいな人ほどよく似る。〈美しさ〉という一点を目指すから。……僕には、テレビに映る女優さんが、羊の群れのように見えるときがある」

 そこまで聞いて、なんとなく蒲原の抱える問題についてわかってきた。

 なるほど。羊も個体によって個性や差があるだろう。しかし何十何百と群れを成したそれの中から「この個体を探せ」と写真を渡されても、無理、もしくは著しく困難だ。

 そして、「付き合えない」と蒲原が言った理由にも、納得できそうだった。

「私は、まだ、……羊の群れの中の、一頭に過ぎない?」

「申し訳ないけど、僕の認識ではね。……気後れするけど、僕とのデートを想像してみてよ」

 ミミズのことしか頭にない男が、自分をどこに連れて行くのだろうと思ったが、蒲原の口から出てきたのは、意外にもありきたりな例えだった。

「たとえば、日曜日の西鉄天神駅の大画面前で待ち合わせをしたとする。あそこはいつも人が多い。おしゃれでかわいい女の人も同じく。……そこに小倉さんは待っていてくれているのに、僕には、〈どれ〉が小倉さんなのかが、わからないんだ」

 誰、ではなく、どれ。

 それは蒲原の抱える認識の欠陥を如実に表す言葉選びだった。

「こんなんじゃ、たとえ悪気がなくても、傷つくだろう? がっかりさせてしまうだろう?」

「……うん。そうかも」

 蒲原洋二という男が、どうして人付き合いが苦手で友達がいないのかが、わかるような気がした。

 そもそも社交性を育てるチャンスがなかったのだ。名前だけが違う同じ顔の人形たちに愛着など、持てるはずがないのだ。

 小倉は一瞬のうちに言葉を組み立て、一歩前に進み出た。

「でも……蒲原くんが、とっても優しいってことも、わかるよ」

 本心だった。発言に意図はあったが。

 蒲原洋二は優しい人間だった。人の見分けが付かないから、相手を傷つけないように、わざと遠ざけていた。

「そう、かな?」

「そうだよ。……それでね」

 本心を正直に述べたのには、後付けの理由がある。

 小倉美姫には、周囲の男のほとんどに好まれ、周囲の女のほとんどに疎まれてきた、捻じ曲がっていても強靭な矜持がある。

 これしきのことで……狙った獲物を諦めるわけがない。本心を語ったのもチャンスを繋ぐためだ。

 一度ふられたことで、却って小倉は発奮していた。彼女は基本的に、男に自分を拒絶する権利はないと思っている。

 負けるものか。

「どうすれば、私……蒲原くんに〈見つけて〉もらえるかな?」

 美しい羊の毛皮を捨てるつもりはないが、群れの中に埋没するつもりも毛頭ない。

 気付かせる必要がある。

 目の悪い羊飼いに、金色の毛並みを持つ羊が群れの中に紛れていることを。

 誰にも渡せない希少な品種があると、知らせなければならない。

「私は、蒲原くんにとっての、特別な人になりたいな」

 小倉からの申し出に、蒲原は腕を組んで、第二図書室の天井を仰いだ。

 その間にも小倉は冷静に分析する。蒲原洋二は押しに弱く、お人好しで、別に恋愛や女子に興味がないわけでもない。ないなら即答で断られているはずだ。

 まだ終わったわけではない。

「……それなら、僕に、教えてほしい」

 組んだ腕を解いた蒲原は、まっすぐに小倉を見つめた。

「きみの個性を、示してほしい」

「……私の……?」

「そう。きみが〈その他大勢の女子〉と何が違うのかを、示してほしい。それも、〈優劣〉ではなく〈唯一〉を。きみが特別であることを示してほしい」

 優劣ではなく唯一を。

 ……無理難題を押し付けられているということに、小倉は気付けた。

 彼女にとってはそうだった。彼女はこれまで優劣でしか他人との差を測ってこなかったから。

 そしてそれが、〈自分から言い出したこと〉というのが、なおさら致命的だった。

「特別な人になりたいのなら、特別な人になってほしい」

 自分は本当に、金色の毛並みを持つ羊なのだろうか。

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