ミミズ男はヒューマン・ヒューマンを探す
朽犬
第1話
ミミズ男はヒューマン・ヒューマンを探す
人が集団を成せば、人は更に細かな集団を組織する。
自発的に、自衛のために。
四時限目の終了を告げるチャイムが鳴って数分、一年三組に所属している生徒たちは、あらかじめ申し合わせたかのように机を突き合わせて弁当箱を広げ、あるいは食堂を目的地に肩を並べて教室を出る。
何も特別なことはないですよ。
これが普通ですよ。
無論、十五歳の彼ら彼女らが誰にともなくそう呟くわけはないのだが、彼らが集団を成す目的の、ほんのかすかなところは〈演出〉だろう。自分には気の合う仲間がいる。自分には十分な社交性がある。それは演出だけではなく実際に素晴らしい事実ではあるだろうが、まだ入学して一ヶ月ほどなのに、一緒に食事を摂ることが、すでに退屈な習慣になりつつあるグループもいる。
ほかはともかく、この教室、三人で集まって小さな弁当箱を広げている女子生徒たちはそうだった。無意識的に昼食が〈調査〉と〈実績作り〉と化していた。
部活、進路、芸能人のスキャンダル、週末の予定……そうだ、三人で買い物に行こうよ、などという当たり障りのない会話を通してお互いの人となりを探っていき、〈自分たちはこの程度まで仲良くなった〉という確認を意識せずに行っていた。
小さな弁当箱を片付け、週末の約束をまとめていたときだった。
ひとりの女子が、廊下を歩くひとりの詰襟の男子生徒を見つけた。
発見者の女子は、笑む口元を隠しながら、ほかのふたりに、「見て見て」と促した。
廊下を歩く、細身で猫背の、一本一本が芸術的なまでに寝癖のついた髪を持つ男子に対して、三人はくすくすと笑いを共有した。
誰からともなく、「来るよ来るよ」と、期待の声。
その直後に、小走りで弾むように、寝癖の男子生徒の来た方向から、ひとりのセーラー服の女子生徒がやってきた。
風が梳けば香りそうな艶やかな黒髪、雨も避けそうな白い肌、潤んだ黒目がちな瞳、服の上からでもわかる滑らかでかつくっきりとした曲線を描く体。
廊下ですれ違った男子生徒のひとりは、歩を止めて彼女を振り返る。
笑っては人を魅了し、泣いては人を殺しそうな美少女が、寝癖男を追いかけていた。
その美少女が現れるや、比べれば平凡な三人の女子たちは、頭を屈めてくすくすと笑っていた。
あんな男の何がいいの。振り向いてもらえないからむきになってるのよ。どっちもかわいそうね。
女子たちは口々にそんなことを言い合っていた。
しかし、教室の中で、ひとりの背の高い男子が急に立ち上がり、廊下を通り過ぎていった可憐な少女を追って教室を出て行くと、それを見ていた女子たちの表情が変わった。
今度は憮然とした表情で、お互いに慰めるように、ぶりっこだの、ビッチだのと、話し相手を〈引かせない〉程度の罵詈雑言を用いて、美少女を形容した。
ちゃんと聞いた。
「ありがとう。気持ちは嬉しい」
聞き届けた。
「でも、ごめんなさい」
その上で小倉美姫は、背中にかかる長い髪を前に垂らして、頭を下げた。
屋上へと続く、施錠された扉の前。
人の立ち入らない階段のどん詰まりにて、頭を下げる小倉の前には、高校一年生にしては背の高いほうの男子生徒が、納得のいかなそうな表情を浮かべて立っていた。
「……どうしても、ダメ? 友達からでも……」
食い下がる男子に、小倉は顔を上げた。
入学してから四度目の、〈愛の告白〉という名の子供の遊びに付き合わされた彼女は、〈申し訳ない顔〉が得意になりつつあった。
「期待させると、いけないから。……本当にごめんなさい」
こんなほこりっぽい吹き溜まりを、想いを告げる場所に選ばれたことが、小倉にとっては甚だ不愉快だった。行かなくてはならない場所もある。しかし、正面にいる男が、不承不承にも頷くのを辛抱して待った。
「それじゃ」
サービスの笑顔を置いて、小倉は階段を降りようとした。
「……そんなに、あの〈ミミズ男〉が好きなのか?」
彼女の後頭部に質問が降ってきた。
無視しようかと思った。あらぬ噂を立てられても困る。しかし〈いけすかない女〉という印象を広められても困るので、悲しそうな表情で振り向き、見上げた。期せずして上目遣いになる。
「ミミズ男って……そんなひどいことは、言わないでほしいな」
「……でも、俺よりもあいつのほうがいいってことだろう? 彼氏にするのなら」
この男は自分の顔面をどの程度に値踏みしているのだろうと、返答を考えながら小倉は、心中で嘲笑った。
「魅力や長所は人それぞれだと思うでしょう?」
「う……いや、俺のほうから聞きたい」
何でもいいから早く終わらないだろうかと、小倉はため息を堪えて髪をかきあげた。
「何を?」
「あいつの魅力って、何なんだ? どうしてそこまでこだわるんだ?」
「それは、……うまく言えないなぁ」
しおらしく、恥じらう素振りを見せる。
「言葉にできないけど、どうしても、」
「金だろ?」
小倉の言葉を遮った男に、美少女は少しも動じない。
何のことかわからない、といった様子で、首を傾げる。
「どういうこと? わかるように言って」
「……噂になってるよ。『小倉美姫は金が欲しくてミミズ男に擦り寄ってる』って」
もうそこまで噂になっているのかと知った小倉は、しかし、この事実をマイナスに捉えていない。むしろ着々と外堀が埋められつつあるなと感じていた。
無論、それを教えた目の前の男については、感謝はおろか赦しもしないが。
暗がりの中でもわかる程度に、小倉は両目を潤ませた。
「きみも……そう思ってるの?」
「い、いや……俺は……」
「わ、私が、お金目当てに……」
そう言って小倉は、わざと見せ付けるように、片目からぽろりと涙をこぼした。
すぐに顔を伏せた小倉に、うろたえた男は近付こうとした。しかし少女はすぐに身を翻し、ごめんなさいと言い置いて、足早に階段を降りていった。
一番近い女子トイレの中に駆けこんだ小倉は、誰もいないことを確認し、鏡の前に立つ。
そして、ぐいと手の甲で涙を拭った。すでに涙腺は緊急の供給を止めていたため、涙は表面張力で眼球に留まるだけとなった。
「…………そんなんだからモテないのよ」
ため息と共に独り言を吐き出す彼女は、目元が腫れてないかを鏡で確認。
自分の涙が交渉の切り札となることはわかっていたが、多用すると効果の薄れと共に変な噂を招くだろうかと懸念する。
ふと、思い出す。
小倉美姫は金が欲しくてミミズ男に擦り寄ってる。
「……正解よ」
鏡の前で俯いて、大きく息を吐き出す。
そうしてから顔を上げると、鏡の中にいたのは、一分の隙もない〈校内一の美少女〉だった。
誰かが見ている。誰かに見られている。
その緊張感を極限にまで張り詰めて、小倉美姫は女子トイレを出て行った。
福岡県雁喰塚市にある、県立照葉館高校。
市内では歴史ある進学校で、中学生が「将来は大学に」と考えれば、近場に限れば大抵はこの高校が第一志望になる。雁喰塚市は福岡県ではあるが佐賀にも熊本にも近い中途半端な田舎で、私立よりかは県立のほうが偏差値は高い。
その高校の図書室は、長方形の中央をくりぬいたような形状の校舎とは、渡り廊下を越えて別棟の二階にある。昼休みに利用する生徒はそこそこ。放課後には自主学習する生徒がちらほら。
そんな図書室の……入り口の隣の階段を降りた、視聴覚室の隣の、〈第二図書室〉
中の様子を伺えない扉。
錆び付いて回りにくいドアノブ。
押し開くと軋む音。
薄暗い室内。
ひんやりとした空気。
天井に届きそうな書架。
静寂、静寂、静寂、かすかに、物音。
その部屋だからこそ耳に届く些細な音。
保管のためでしかない書架の林をすり抜ける。
南側の窓際、〈設置〉というよりかは〈放置〉されている、畳一枚ほどの大きさの机。
その部屋で唯一日光の差し込む一隅で、ひとりの男子が本を読んでいた。
「……」
その背中を、小倉美姫は、歩きながら眺める。
矯正に時間のかかりそうな猫背。柔らかななで肩。
荒波のように全てがうねり狂う黒々とした頭髪は、その茂みの中にウズラが卵を隠している、と言われれば信じそうになる。
近付く足音に気付いたのか、男が振り向いた。
度の強い黒縁の眼鏡のせいで輪郭が歪んでいる。その目元は、何かあったのかと問いたくなるほどに物憂げだった。眉間の深い皺は一生取れないだろう。
陰鬱で、なおかつ不機嫌そうな表情が日常の彼に、にこりと微笑む。
「隣、いい? 蒲原くん」
「……どうぞ、美姫さん」
このときこの男、蒲原洋二に関して、小倉にとって意外なことがふたつ起こった。それは、彼女を下の名前で呼んだことと、彼女に対して隣の椅子を引いてみせるという紳士的な行動を取ったこと。
その程度には仲良くなれたのだろうかと思いつつ、小倉は静かに椅子に座る。
「今日は、何の本読んでるの? また昆虫の本?」
「……いや、今日は、違うよ」
蒲原は読んでいた本を閉じて、滑らせるように隣の小倉の前に差し出した。
小倉は分厚い文庫本を手に取り、タイトルを眺める。
「〈機械より人間らしくなれるか?〉……どんな本?」
「………………この世には、人間のように話すコンピュータプログラムがある。……そのコンピュータプログラムよりも人間らしく振る舞うには、どうすればいいか。……そこから、〈人間とは何か〉という大昔からの疑問に踏み込んだ、ノンフィクションだよ」
ぼそぼそとぽつぽつと話す蒲原の説明は、騒がしい教室の中では聞き取れなかっただろう。だからこそ静かな第二教室は、彼と話すにはうってつけの場所だった。
ふたりきりになれるという意味でも。
面白そうね、と小倉は頷く。彼女は蒲原の横顔を見ているが、彼は窓の外を見ていた。
「でも……珍しいね。蒲原くんが、生き物に関する本、じゃないのを読むなんて」
小倉が文庫本を返すと、蒲原はそのまま本を脇にやった。
「本屋で見かけて……興味が湧いたんだ」
「ごめんなさい。読書の邪魔をしちゃったでしょう?」
蒲原の顔を覗き込もうとする小倉に、猫背の少年は首を振る。
「いいよ。……無茶を言ってるのは、僕のほうだから。……いくらでも付き合うよ」
色素の薄い唇がわずかに歪み、それが彼の微笑みとわかって小倉は、笑い返す。
「ありがと。……ところで、やっぱり私のこと、まだ、〈見つけられない〉?」
問いかけに、ようやく蒲原は、まっすぐに小倉の顔を見つめた。
「……そうだね。……僕はまだ、美姫さんを、〈見つけられない〉と思う」
そう語る蒲原は、噛み締めるように憂鬱そうだった。
……五月。
小倉美姫が蒲原洋二に初めて話しかけて、二週間。
彼女が彼に愛の告白をしてから、一週間。
蒲原洋二は……未だ、〈小倉美姫〉と〈ほかの女子〉を、判別できない。
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