氷結

浦賀玄米

都市伝説の始まり

 必要最小限の家具しかないがカップ麺などのゴミが散らかっている6畳1間の小さな部屋の住人、戸科秀としな ひでは朝起きるとシリアルで簡単な朝食を済ませ、洗顔など朝の日課をして、会社に向かおうと家を出た。そして歩きながらイヤホンをし、スマホを取り出す。イヤホンはそのスマホにつながっていた。いつものようにイヤホンで音楽を聞きつつ、スマホを操作してソーシャルゲームをしながら駅に向かう。その姿は彼が周囲への関心を持ち合わせていないことを物語っていた。

 彼は自分至上主義者である。周りで何が起こっていようとどうでもいい、自分さえよければそれでいい、そんな人物である。一言で言うなれば冷血。人間らしい気遣いなど、今の彼からは微塵みじんも感じない。

 人間らしさの欠如した戸科はもはや機械だった。毎日毎日同じようにスマホをポチポチしながら、毎回同じ道を通って通勤する。たまには他の道を通ろうか、などという気まぐれはこれっぽっちもなかった。

 スマホをイジるのは通勤の間だけではない。彼は寝る時と風呂に入る時以外は仕事中や食事中でさえスマホでゲームをしたり、ネットサーフィンをしたりしていた。いつもスマホを操作しているので電池の消耗しょうもうも早く、彼のカバンにはいつも携帯充電器が入っていた。

 仕事といえば窓際で電話対応をするだけであり、もしも神様が彼の1日を観察したのなら、あまりの退屈さにあわれむだろう。もっとも神様なんていないので彼は何の変化や起伏もない哀れで退屈な人生を送っているのだろうが。




 戸科の自宅から駅までは歩きスマホをしても15分程度の距離だった。いつものように住宅街を歩き、隅っこに小さな花の咲いているこじんまりとした公園の横を通り、駅前のそれほど広くないありふれた普通の道を通るという道順で駅に向かっている。

 公園の横を過ぎて駅前の道に出ようとしていたところ、おばあさんが声をかけてきた。彼女は一言一言噛み締めるようにゆっくりと喋った。

「…すいません。孫の家に向かおうとしているのですが、土地勘がなく、道に迷ってしまいました。春日原4丁目は、どちらに行けば良いのでしょうか?」

 戸科はそれを無視した。イヤホンで音楽を聞いていておばあさんの声などほとんど聞こえなかったし、スマホの画面から目をらそうともしなかった。戸科にとっておばあさんなどいないも同然だった。

 道をたずねようとしたが無視されて、おばあさんは悲しみと少しの恨みがこもった目で彼の背中を見つめていた。




 仕事が終わると戸科は誰ともコミュニケーションを取りたくないと言わんばかりにそそくさと帰宅した。帰宅すると電気をつけてカバンを床に放り、電気ケトルに水を入れて湯を沸かす。お湯が沸くとカップ麺にお湯を注いで夕食の準備を進める。待ち時間はもちろんスマホで時間を潰していた。そしていただきますも言わずにスマホ片手に器用に食事をする。食事中ですら、彼はスマホを手放さなかった。彼にとって食事は最早単なる作業でしかなかった。

 彼がラーメンをすする音以外の音がしないその部屋は寂しさがあふれていた。彼以外に何らかの動作をしているものと言えば、ベッドの棚に置いた古いデジタル時計か、あるいは部屋の片隅に止まった小バエぐらいしかなかった。


 次の日、いつものように朝の仕度を済ませ、戸科は家を出る。いつものようにスマホを操作しながら歩いていると、道端で何かを蹴飛ばした。それはダンボール箱で、中には生まれたばかりであろう子猫が数匹入れられている。

 ダンボール箱を蹴飛ばした張本人をうるんだ純粋な目で子猫が見つめていたが彼はやはり無視をした。中の子猫を戸科は軽くチラ見した程度ですぐにスマホに目を戻し、ダンボール箱を避けるように歩き出す。捨てられた子猫がかわいそうだと彼が思うことは一瞬たりともなかった。

 その後も彼はスマホから目を離すこともなく、隅で小さな花が枯れている公園の横を過ぎると、道端でおばあさんが自転車でコケて怪我をして痛そうにしていたが、そんなおばあさんのことなど戸科の眼中にはなく、何事もなかったかのようにそのままスマホを操作しながら歩き去る。

 スマホしか見ていない彼のことを、自分をないものとした彼のことを、おばあさんが恨みのこもった冷たい目で見ているなど彼には知るよしもなかった。




 さらに次の日、戸科はしっかりとプログラミングされた精密に動くロボットのようにいつもの時間に起きてはいつものように出勤した。もちろん、スマホを操作しながら歩いている。本当に彼はロボットとしては優秀である。一応は人間であり、生物の端くれではあるが。

 先日、捨て猫の入ったダンボール箱を蹴飛ばしたことなど彼はきれいさっぱり忘れて、その横を通り過ぎる。彼が去った後、ダンボール箱の中身をカラスがつついていた。




 太陽が東から顔を出す時間になった。例によって戸科は歩きスマホをしながら家を出る。するとマンションの前の道路におばあさんが倒れていた。今度ばかりはさすがに戸科もそれに気づいたが、この期に及んでもなお、彼は例の如くスルーした。

 俺が通報しなくても誰かが通報してくれる、そんな面倒なことに自分から巻き込まれに行って会社を遅刻しようものなら、社内でも役立たずと評判の俺を解雇するいいきっかけを会社に与えてしまうだけだ。そうなったら俺は職を失い、途方に暮れるだろう。そう思い、彼はおばあさんを見なかったことにしたのだった。


 その夜、自宅マンションの前のおばあさんが倒れていた場所をさも当然のように通り、自分の部屋へ向かった。おばあさんのことを心配することも、見て見ぬフリをした罪悪感もなかった。

 かぎを入れシリンダーを回してドアを開ける。シリンダーを回す時、いつもより軽い感触だったことすら彼は気づかなかった。

 部屋に入ると脳が考えるまでもなく脊髄せきずい反射のように後ろ手に施錠せじょうする。部屋の中はいつもより幾分いくぶんかひんやりしていた。だが、それも彼にとっては気のせいのうちに入る些細ささいなことで気にも留めなかった。

 いつもそうしているようにカバンを床へ雑に放り投げると、コンビニ弁当をテーブルに置き、ネクタイを外す。そうしてスマホ片手に食事をする。食事中にスマホの充電がなくなっていることに気づくと、のそのそと充電ケーブルを取り出して充電を開始した。そして食事が終われば、風呂に入って床に入る直前まで、今日はやけにスマホのアプリエラーが多いなと思いつつスマホを触っていた。


 そろそろ寝ようかとベッドに向かい、棚から時計がベッドの上に落ちているのに気がついた。時計を拾い上げて時刻を見ると、4時19分を表示したまま止まっていたので、壊れたと思い戸科は時計をゴミ袋に投げ入れた。

 その時計は彼が中学生になるときに両親がプレゼントしたものだったので壊れてもおかしくはなかったが、スマホさえあれば時間の確認やアラームといった基本的な時計としての機能は十分だったので、それはただの置物に過ぎなかった。それにその時計に思い入れがあったわけでもないので、捨てることに躊躇ちゅうちょはなかった。

 そして、何事もなかったかのように眠りに就くのだった。




 戸科は悪夢を見ていた。

 寒い。冷凍庫に放り込まれたような鋭い冷気が体を包む。

 誰かの足音が自分の周りを回っている。ひとりか、あるいはそれ以上なのか、何人いるのかわからない。だが、確実に何かいることを確かなものにする、ズッ、ズッ、という引きずるような足音が自分の周りを回りながら少しづつ近づいてくる。

 真っ暗闇の中で浮いたように存在するスマホの画面が放つ心もとない明かりだけが、その闇の中で唯一頼れるものだった。あれさえあれば!きっとなんとかなる。この暗黒を、この寒さをなんとかできるかもしれない、そう思って手を伸ばそうとするが体が氷漬けにされたように動かない。無理に動かそうとするとパリパリという音がして体が裂けそうな激痛が走る。痛い!イタい!イ゛タい゛ィッ!

 なおもズッ、ズッ、ズッ、と、足音が近づいてくる。冷や汗すらも凍りつく感覚がする。そして、頼みの綱であったスマホの画面がふっ…と消灯し、戸科は何も見えなくなった。

 ――。

 ―――。

 どれくらい時間が経ったのかわからない。胸が苦しい。……誰か、助けてくれ。

「……誰も、助けようとしなかった、お前を…助けてくれる人がいる、とでも思っているのかい?」

 言葉のひとつひとつが重く、冷たいしわがれた声が右耳の耳元でささやいた。冷たく、重く、鋭い空気が顔の右側にかかる。



 ハッ、として目が覚める。

「その目と命、お前には必要ないだろう!?」

 一気にそう放つと老婆が振り下ろす尖った何かが、戸科の両目に突き刺さった。








「被害者は20代男性、死亡推定時刻は午前4時20分頃だと思われます」

 戸科 秀はその後遺体で発見された。家賃の支払いがないため、確認に来た管理人が彼の遺体を発見したのだ。

 両目が鋭利なもので貫かれていたことから異常性を認め、殺人事件として捜査されることとなった。現在は捜査会議が行われている。

 マスコミも残忍な殺人事件として報道していたが、目が刺されているということ以外報道されないまま、事件は証拠不十分により迷宮入りすることとなった。

 だが、警察がマスコミに隠していた事実がある。戸科の遺体は目を鋭利な凶器で刺され、その傷が脳まで達したことが直接の死因ではあるが、その遺体は全身が重度の凍傷状態にあったのだ。さらにドアの鍵がかかっていたので、特異な密室殺人だと捜査関係者はうわさし、熱血な刑事が色々調べようとしたが、熱血をもっても氷結した事件はとけなかった。








 その事件から数年後。

「ねぇ、氷ババアとか氷結ババアって知ってる?」

 ゴシップ好きな女子高生が友人に話す。

「えーなにそれ?」

「昨日ネットで見たんだけどー、なんかさ、冷たいものが好きなババアなんだって。夏の夕方にひとりで人気ひとけのない道を歩いてたらぁ、『アツい!お前の持ってる冷気をくれぇっ!』って言って冷たいものを要求するんだって。アイスでも水筒の氷でもなんでもいいから冷たいものを渡すと満足してどっか行くけど、渡さなかったら氷柱つららで目を刺されるんだって」

「へぇー」

「冷たいものじゃなくてを渡しても撃退できるって書いてあった」

「んー、カイロとか?」

「たぶん」

「カイロで撃退されるババアとかなにそれウケるんだけどっ」

「確かに!ヤバくない?」

 そう言ってゲラゲラと笑う彼女達は、撃退に必要な「あったかいもの」が本当は何であるか考えることもなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

氷結 浦賀玄米 @genmai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ