いかに批評の不可能性を乗り越えれるか

言語の用法において、かつてオースティンは行為遂行的(パフォーマティブ)発言と事実確認的(コンスタティブ)発言を区別した。
これらは、批評という場においても同じように適用することができるように思う。
つまり、行為遂行的(パフォーマティブ)批評と事実確認的(コンスタティブ)批評という区別をすることは、可能だと思うのだ。
レビューにおいて星をつけるという行為も、ひとつの批評としてみなすのであれば、パフォーマティブな星とコンスタティブな星があると言ってもさしつかえないであろう。
つまり、客観的評価基準において作品を評価する星がコンスタティブな批評ととらえるならば、相互評価として、つまりコミュニケーション的に星をつける行為が行われるときには、それをパブォーマティブな批評ととらえることができる。
だが、哲学者のデリダは、このパフォーマティブとコンスタティブな発言は実際には区別しがたいものであると批判する。

さて、デリダの批判について考える前に、文学の世界において批評というものがどのようにふるまってきたのかを、考えてみたい。
世界はさておきこのわたしたちが暮らす極東の島国においては、批評を担うのは文壇というクローズドなコミュニティの役割であった。
この文壇という特殊な閉鎖領域が存在しなければ、おそらく世界的に類をみない「純文学」というものの存在は存続を許されなかったであろう。
他の芸術、絵画に立体造形、あるいは工芸というジャンルにおいて作品の価値というものは、市場における価値(すなわち価格)に直結しているがゆえに判りやすい。
ゴッホやピカソの作品を市場は天文学的金額によって、価値づけする。
しかし、文芸作品においては、市場価値は作品の価値と無関係のところで決定される。
それは書籍が再販制度というものにもとづいて、市場で流通されているためだ。
市場において多く求められているものも、市場において誰も求めていないものも、同様の価格が設定される。
その結果からか文芸の場においては、市場とは別の独自の価値を審査するための機関が要請された。
結果的に、その役割を担っているのが、文壇というクローズドコミュニティということになる。
これは、必然的に市場価値というものと乖離することになる。
いうなれば、ここで行われているのは、パフォーマティブな批評であり、ウェブフィクションにおける相互評価とそう変わることはない。
その結果、何がおこることになるのか。
出版業界が不況に陥っているといわれるようになって、既に久しい。
ただ、エンターテインメントと呼ばれる作品については、そう売上がおちているとはいえない。
実際、売上が減少しているのは、純文学とよばれる文壇システムによって価値づけられた作品群ということがいえる。
その結果、出版社はエンターテインメント作品によって稼いだ売上を、文壇システムが生み出した純文学作品存続につぎ込み浪費するという状況におちいることになる。
つまり相互評価システムが、ジャンルの衰退を招いているという状況はウェブフィクション特有の現象というよりは、文学というジャンル自体が現在進行形で抱え込んでいる病理なのだと思ったほうがいい。
では、そもそもコンスタティブな批評というものは可能であり、それを実現することによってこの状況から脱することができると思ってもいいのだろうか。
ここで、ベルクソンがいうところの程度の差異と本性の差異を混同することによって生ずる問題を持ち出して語るのは簡単だとは思うが、デリダの批判について考えてみたい。

デリダは、精神分析における転移について語っている。
かつてフロイドは、転移についてユングに問うたことがあるという。
ユングは転移について「精神分析において、それはアルファでありオメガである」と語ったそうだ。
精神分析というコンスタティブであるべき言説の場においても、実際問題としてそこに欲望が入り込むことをひとは避けることができない。
たとえ自分がコンスタティブな批評をしていると思っていても、そこから欲望を除外するのは困難と考えるべきである。
コンスタティブな批評は、おそらく無意識のうちにある数学的な完全に論理的に公理系に真偽を保証された言語を望んでしまうであろう。
ヴィトゲンシュタインはかつて全ての事象を理論化できると考え、哲学の場から引退し田舎で小学校の教師となる。
しかし彼は、教え子の小学生から自分が間違っていたことを、知らされることになった。
そこで提示されたのが、言語ゲームという概念になる。
結局のところ言語というものは、言語外のオブジェクトと恣意的に結びつきながらある閉鎖空間においてルールにもとづき動作するゲームであるということだ。
結局のところ、批評についても同じように考えることが、できるのではないか。
批評はその外部にあるオブジェクトと恣意的にしか結びつき得ないので、それが動作するためにそのルールを保証しうるクローズドのコミュニティを要請する。
批評は、結果的にクローズドのコミュニティでしか、成り立ちえずそれは常にコミュニティ外のものからみれば、恣意的な相互評価でしかないということになる。

では、一体どうすればわたしたちは、批評の不可能性をのりこえることができるのだろうか。
それは結局のところ、愛しかないのではないかと思う。
スピノザは、神とは無限の可能性の表現であると語る。
神とは、すなわち無限の愛である。
そして、クロウリーが語るセレマ主義において愛とは法なのだ。
つまり愛としての法こそが、批評の不可能性から乗り越える道ではないかと思うのだ。

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