第10話 「その能力の限り、人を愛すということ」
「愛してあげてね」と言われた言葉を覚えている。
「それだけが救いになるのだから」と。
「なあ」
扉の中の男が、静かに言った。
「俺たち、少し離れたほうがいいと思うんだ―――」
「こんなに愛しているのに?」女が涙をこらえながら言う。「わたし、あなたから離れたくない!」
閉じられた扉に追いすがるさまは、見る人の涙をも誘うせつなさがある。
それはまるでシェイクスピアの舞台、さながら愛してやまない互いをもとめるロミオとジュリエットのごとく―――。
が、家の中のロミオはラブストーリーに似つかわしくない顔色でしっかりとノブをおさえつけていた。
ロミジュリぃ? ふざけんなである。
あんなストーカーがジュリエット呼ばわりされたら憤怒のあまりシェイクスピアが墓から蘇りかねない。いっそ玄関ドアにへばりついている女よりゾンビシェイクスピアのほうがいくらかマシというものだ。
現在サトウとトホは、この家の玄関扉一枚を隔てて、入れろ入れないの戦いを繰り広げている。
サトウはもう断固トホを家に入れたくない。絶対に入れたくない。なぜなら現在家中に脱ぎ散らかした衣服が散乱しており、そんな状態の家にトホを入れたら何をどうされるか分からないからだ。そもそも家の中の惨状をそろそろ無視できなくなって洗濯をしようとした時にあの女が襲撃してきたのである。窓から入ろうとしてきたのをハエ叩きで振り払い、裏口からの進入を水をかけて撃退し、なすすべなくなった彼女は玄関ドアにへばりついて「開けろ〜開けろ〜」と妖怪のように訴え続けているのだった。
もちろん、サトウに扉を開く気は無い。
パンツを持ってかれるのは二度と御免だ。ちなみになぜかトホに盗まれていたあのパンツがどういう扱いを受けているかは意図的に考えないようにしている。
トントントン、と扉の向こうの女がやさしくノックしてきた。
「サトウさん? 開けてほしいナ」
サトウは無視する。
トントントン。「そこにいるのは分かっているんですよ、サトウさん」
サトウは無視する。
トントントントン。「サトウさん。今すぐ会いたい」トントントン。
てのひらにうっすらとかいた汗をズボンでぬぐい、サトウは静かに深呼吸する。落ち着け落ち着け。大丈夫だ。パスワードは昨日変えたばかり。しかもサトウの考えうる限り最高難度のものをチョイスした。
破られるはずがない。
トントントントントントン「おかしいなぁ。返事がないなぁ」トントントン。
ウッ。
サトウはちょっと涙目になった。
トントントントントントントントントン「あいたーくてーあーいーたーくてふーるーえーるー」トントントントン「きーみーおーもーうほどー、とぉーーくかぁんじーてーーーー」トントントン
サトウは心の中で罵った。
JASRACにつかまってしまえ。
トントントン「メッチャスッキャネ〜ン」トントントントントン
くそっ。一部の地域の人間しか知らないようなナンバーまで歌いやがる。
トントントントン「エンダァァァァァァァァアアアアアイヤァァァアアアアアアウィーーーーオーーーーウェッ! んゲホォ! ゴホッ! ゲホッゴホゲホッ!」
むせてる……。
「ングッ……ゲホッ……」
ひとしきりむせてから、しん、と外が静かになった。
サトウは息をつめて外の様子を窺う。外からも、こちらを窺う気配がする。
しばらく互いにさぐりあう間が空いて、
「……いーずらーっびゅーあーああー」
無理矢理なかったことにした! すげー適当になかったことにした!
「あー……ハァ……」どうやらジュリエットはやる気を完全に失ったようだった。「サトウさん、何かリクエストとかあります?」モチベーションは落ちていなかったけれども。
サトウは片手に持ったスマホをチラチラ見た。
「そうだな……じゃあ君が代のフルコーラスを40周ループで」
「サトウさんてばそんなに私の歌が聴きたいんですか? 照れちゃいますー!」
「ききたいききたい(棒読み)。ききたいから歌ってくれ、さんはい」
「きーーーみーーーがーーーあーーーよーーーおーーーわーーー!」
チョロい。
扉の外のジュリエットが元気よく君が代を歌っているのを尻目に、サトウは食い入るようにスマホを見つめた。先ほどフジノに救援メールを送ったのだが、返事が返ってこない。
くそぅ。フジノ、なにやってんだよぉ。
「ちーーーよーーーにーーーいい! やーーーちーーーよーーーにーーー!」
タタタタッ! と予測変換をフル活用してメッセージを新規作成し、もう一度救援メールを送るサトウ。
かれができるのはもはやスマホを握り締めて助けを待つことだけ。
トホに恨みのあるフジノならきっと、持てる手段を総動員してサトウを助けてくれることだろう。ストーカーなどすぐ撃退してくれるに決まっている。
その時。
「いーーーわーーーおー『エンダァァァァアアアアアイヤァァァァァァ』
ドアの外の君が代に、ホイットニー(※本家)の絶叫が乱入した。
ピッ。
電子音とともに止む愛の叫び。
……着メロ?
サトウの背筋に一抹のイヤナヨカンが駆け抜ける。
その予感を裏付けるかのように、
「あれ? メールだー」
残酷なまでに無邪気な呟きがサトウの耳に届いた。
いや、まさか、そんな。
ピポピポ。「あ、サトウさんから? 『家の外にストーカーがいるから助けて下さい』? えええ! ストーカー!? どこ!?」
「ぅオオオオオオオオい!!!」
それは間違いなく、ここ数年を通して一番の、サトウ渾身の血の叫びであった。
衝動に負けてガァン! と素手でドアを殴る。「おいてめぇなんでお前がフジノのスマホ持ってんだ!!!」
「やーだ、フジノさんのスマホなんて持ってるわけないじゃないですかー。……あんな性癖の塊みたいな端末触りたくないし」
「今小声ですごい喧嘩売ったな!?」
「わたしサトウさんの持ち物以外収集する趣味ないです! これは通信傍受です♡ 愛の♡」
「愛ってつけたら全部許されると思うなよ! ただの犯罪だ、犯罪!」
「やーん♡ 殺人鬼が言うとただのジョークですね〜!」
くそぉ……! 言い返せねぇ……!
心が折れかけるサトウ。しかし、どうにか自分を励まして立ち直る。
「トホ、」
「今日は自転車で来たのでチャリです!」
「チャリ、」逆らわない。体力の無駄である。「いいか。この扉に背を向けろ」
「向きました!」
「そのまままっすぐ歩け」
「はい!」すたすたすた! と遠ざかった音が、またすぐさますたすたすた! と戻って来る。
ヒタッ、と扉に吸い付く音がして、
「離れたく……ない……♡」
バカかこいつは。
サトウは今すぐ扉を開け放って殴りかかりたい衝動に駆られたが、意図的に理性を働かせてぐっと思いとどまる。
とにかく奴をここから離さなくては。
「チャリ。……いいか。俺は実は今すごく体調が悪い」
サトウはできるだけ弱った声を出した。
外のジュリエットがハッと小さく息をのむ音が聞こえた。
「さっささささささささサトウさん」
「聞け」
「はわわわわわわわ」すごくテンパっているらしい。「はわー」
「聞け」
「はっ、はいぃ!」
「俺の病を治すには特殊な材料が」
「びっびびびビタミンミネラル抗生物質、白血球の数値は各臓器の機能の補助とああっ熱は!? 脈!」
「それは遠い南の島の木にしかなら」
「スキャン! 今すぐ全身スキャン!」
「……あの、だから、遠い南の島の……木に……」
「毎日の食生活の徹底改善と細胞、いえ遺伝子レベルの不確定要素の除去、除去後の正常なDNAは医療用クローンから適合したものを組み込んで」
「……。」
聞いてほしいな……。
「ああああああああサトウさん! サトウさん!! 生きてますか!? 返事してください!! 返事して死なないで! わたしを置いて死なないでぇ!!!」
「い、生きてます」なんとなく罪悪感を覚えるサトウ。「大丈夫です。治りました」
「うそ!? ほんと!?」ドア越しのチャリの声は潤んでいる。「嘘はイヤですよ!? しんどくないですか、吐き気はしませんか、頭は痛くないですか!?」
「すいません、元気ですすいません」
「し、信用できませんっ。安心できませんっ!」
「いや、あの、ゴメン体調悪いとか最初から嘘……」
「入ります!」
!?
イヤ待て入りますってそんなことできるわけがないだってこの家のロックはサトウの知恵の粋をあつめた最高峰の声紋ロックで守られーーー
「いっきまーす! あかまきがみあおまきがみきまきがみ! あかまきがみあおまきがみきまきがみ! あかまき」
「ちょおおおおおおおっと待ったァ!!!!」
サトウは本日2度目の絶叫を体の底から叩き出した。
「お前ェ!! どっどこからパスワード入手しやがった!?」動揺のあまり声が揺れている。
チャリはあっけらかんと、「フジノさんから買いました」
「フジノ!?」
「あの人、他人の個人情報売って生活してますから。出すもん出せばちゃんと売ってくれますよ」ただし、購入の際偽名を使ったことは言わないでおく。
「なっなっなっ」
「パスワードを入手されても、私が言えなきゃ入れないだろうと思ったんですよね、サトウさん」チャリの声にさっきまでの悲痛な響きは微塵もない。世界中の雨雲を消し炭にしそうなほど明るい声で、「ざーんねーんでーしたーー! わたしは早口言葉得意なのですよ。あかまきがみあおまきがみきまきがみ!」
がちゃん、とロックが解除される音が無情に響く。
顔を引きつらせたサトウの前で、扉がゆっくりと開きーーー
「やっと会えましたね」
その隙間から、チャーミングに笑ったうさぎの顔面が、
「I will always love you ♡」
ぱたん、
とウサギをのみこんだ扉が閉まる。
続いて自動ロックが下りる音がなめらかに響いた。
その後のサトウを、誰も知らない。
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