聞こえた声は

 食事もとらずに部屋に閉じこもっていた。膝を抱えて、ときたまノートを見返して、また泣いた。なんであんなことを言ってしまったんだろう。悔しかったのかな。

 夏美さんに声が戻ればいいなと思って、毎日過ごしていたから、誰よりも早く聞きたかった。頑張った僕より早く、みんなが夏美さんの声を知っている。

 僕は、それが悔しかったのかもしれない。


 あの日から三日目の朝。

 もう涙は落ちてこなかった。眠ったのか、起きていたのかも分からない。

 部屋のドアが叩かれて、母さんの声がした。


「宏樹ー? 入るわよー?」

「入ってこないでよ」

「二日も何も食べてないし、お腹減ったでしょ?」


 ドアが開き、僕のいうことなんて無視して、母さんがノートを拾った。


「返してよ」

「取り返さないんだから、見てほしいんでしょ?」


 そうなんだろうか。良く分からない

 ノートを開く音がする。


「『もう来なくていいよ』、かぁ」

「見ないでよ」

「行かないの?」

「行ったって、夏美さんはいないよ」

「ちょっと大人っぽくなってきたと思ってたけど、まだまだ子供なのねぇ」

「からかわないでよ。僕のことは、もうほっといて」


 顔をあげると、母さんは僕の頭を、夏美さんのノートで軽く叩いた。


「もう来なくていい、なんて、言葉通りに取ったらダメなの」

「どういうこと?」

「こんなノート置いてったんだから、大学まで探しに来いってことじゃない」

「大学?」


 母さんは大げさにため息をついて、ノートの表紙を僕に見せてくる。母さんが指さすそこには、大学の名前が入ってた。


「ここなら、すぐに行けるじゃない」

「そうなの?」

「地図だしてあげるから、シャワー浴びてきなさい。ちょっと、汗臭いわよ?」

「でも」


「悩んでるフリなんてやめて、思ったことを言いに行けばいいの」

「フリじゃないよ! 僕は本気で――」

「それだけ大きい声が出せるんだから、元気じゃない。それに気付いてなかったでしょう。お腹、鳴ってたわよ?」


 お腹が鳴ってた? 

 擦ってみると、ぐるぐるぐる、と僕のお腹が音を出す。悩んで、悔しくて、泣いていたのに。

 母さんの言うとおり、三日間、ずっと悩んでいるフリをしていたんだろうか。そう思うと、なぜだかおかしく思えて、笑ってしまった。


「さ、急がないと。大学なんて今頃テストだし、休みになったら会えないわよ?」


 余計な事を考えてる場合じゃない。僕はまだ、夏美さんの声を聞いていない。 

 服を着替えて居間に戻ると、母さんが大学までの地図をくれた。


「宏樹、なんで制服なんか着てるの?」

「公園には、いつもこの格好で行ってたから」

「そう。とりあえず、なにか作ろうか?」

「いらない。すぐに行く」

「まぁ、そう言うと思った。はいこれ」


「お金? 僕、持ってるけど……」

「いいから、もってきなさい。色々あるから」

「良く分からないけど、ありがとう。行ってきます」

「はい、いってらっしゃい。夏美さんによろしくね」


 夏美さんのノートを持って家を出る。

 外に出た瞬間に目の前が真っ白になって、めまいがするようだった。この三日間、カーテンも閉めっぱなしだったからも。それに、すごく暑く感じる。でも、走れないほどじゃない。

 僕は母さんに渡された地図を見ながら、駆け出した。


 すぐ行けると母さんは言っていたけど、着いたのはお昼のちょっと前。

 夏美さんの大学は、建物の近くにいっぱい木が植えられていて、ちょっと公園に似てる気がする。


 大きな門を通るとき、門の横にいた警備員さんに話しかけられて、困ってしまった。なんて答えたらいいのか分からなくて。

 でも、見学なら学生さんの邪魔をしないようにね、と言ってくれて、なんとかなった。少し悪い事をしているような気がして、緊張する。

 胸がドキドキするけど、これは多分、もう少しで夏美さんに会えるから。


 大学に入ったのはいいけれど、どこに行けばいいのか分からない。案内板を見ると、母さんの言ってた通りテスト中らしかった。良く見ると、テストをする教室の案内もある。

 僕は夏美さんのノートを開いてみて、他に何か書いていないか探した。最初のページに、『ソーシャルワーク』とタイトルが書いてある。

 もう一度、案内板を見直して、同じような授業の名前が書いてある試験会場までいくことにした。


 似たような建物ばかりで、行き着いたそこが、正しい場所なのかもわからなかった。しかも、ベンチに大学生の人がいるくらいで、ほとんど人もいない。たまらなく不安になって、唾を飲み込む。それに暑さのせいか、風景がすごく白い。


 頭を振ってみても、直らない。それに、すごくクラクラする。

 足元もフワフワしていて、仕方なく、僕はベンチに座った。

 空を見上げると太陽が強く照っていて、身体が熱くて、寒くて、気が遠くなっていく。いま眠るわけにはいかないのに、すごく、眠い。


 遠くでチャイムの音がした。僕の学校とは違う音だけど、テスト中だし、多分これはチャイムなんだと思う。

 目を開けると、周りに一気に人が溢れ出てきた。どこにこんなにいたんだろうというくらい、たくさんの人。これじゃ、目で探していても見つからない。


「夏美さん! 夏美さんいますか!?」


 声を出していた。それしか思いつかなかった。

 周りの人の動きが止まる。辺りを見まわしながら、とにかく力いっぱい、夏美さんの名前を呼んだ。

 足を止める人、近づいてくる人、離れていく人。その隙間の奥に、女の人と並んで歩く、麦わら帽子。

 ノートをかかげて、僕は叫んだ。


「夏美さん!」


 麦わら帽子のつばが上を向いて、僕が毎日見ていた顔が、こちらに向いた。

 僕は走った。上手く力がはいらない。人が邪魔で、まっすぐ走るも難しい。だけど僕は、夏美さんの元まで、走っていった。

 夏美さんは驚いたような顔をして、僕を見ていた。

 隣に居た人が、僕より先に夏美さんに声をかける。


「ナツミ、この子? 前に言ってた、可愛い男の子って」


 夏美さんは、頷いていた。

 息が切れて、なにを言おうとしていたのか思い出せない。謝りたかったのか、声を聞かせてほしいのか。僕は、なにを言おうとしていたんだろう。

 僕は、僕の話をすることにした。


「僕は、夏美さんのことが大好きです」

 周りがざわざしているけど、僕はもう、そんなの恥ずかしくない。

「また、会ってくれますか?」


 いつの間にか泣いていたみたいで、夏美さんの顔がまた滲んで見えた。仕草はしてない。答えが見れない。


「宏樹くん、ごめんね」


 泣いているような、震えた声だった。想像していたよりも少し高くて、それでも字と同じように、少し丸い声だった。

 僕は初めて夏美さんの声を聞けて嬉しかった。でも、すぐに目の前が真っ白になって、そこで気を失ってしまった。

 

 目を開けると、白い天井が見えた。どこだか分からないけど、オレンジ色の毛布が掛けられていた。頭が痛いし、身体が寒い。

 でも右手だけが少し温かい。誰かが握ってくれている。


「気がついた!?」


 さっき聞こえた声がした。夏美さんの声。顔を向けると、泣きそうな目があった。

 急に抱きつかれて、驚いた。少し苦しいけど、温かい。


「ごめんね。ごめんね」


 謝りながら、夏美さんの手が僕の頭を撫でる。恥ずかしいけど、懐かしくて、柔らかくて、優しかった。

 あんまり夏美さんが謝り続けているから、なんだか悪い事をした気分。


「……ごめんなさい。夏美さん」

「宏樹くんは悪くないよ。悪いのは私。ごめんね」

「なんで、嘘をついていたんですか?」


 抱きしめる手の力が、少し強くなる。それに、一瞬だけ夏美さんは震えた。


「言えないなら、いいです。僕はもう、そんなことどうでもいいですから」

「ううん。ごめんね、ちゃんと話すから」


 夏美さんは僕に抱きついたまま、話し始めた。

 喉の病気は元々大したものではなくて、しばらく我慢すれば良かっただけだったらしい。僕と会った日は病院に行った帰りで、友達と会うと声を出そうとしてしまうからだったとか。

 そのときに夏美さんは――せっかく福祉の勉強をしているのだから――声を出せなくなった人の気持ちが分かるかと思って、声を出さないことに決めた。


 たしかに僕にまた来てもいいかと聞かれたけれど、本当に来るとは思わなかったらしい。そして毎日僕と会って話している内に、すごく悪いことをしていると思うようになっていった。会うたびに遊んで、仲良くなって、嘘をつき続けている。

 それで夏美さんも、怖くなったのだと、言っていた。


「言ったら、もう会えなくなるんじゃないかと思ったの。それで、ずっと言えなかった。ごめんね。本当に、ごめんね」


 夏美さんの声は、震えていた。顔は見えないけど、多分泣いてる。

 僕は夏美さんがそうしてくれたように、頭を撫でた。そうして、頬ずりをする。温かい水の感触。やっぱり泣いていた。


「もう、謝らなくていいです。僕、怒ってないです」


 もう一度頬を寄せて、ずっと聞きたかったこを、聞くことにした。


「また、会ってくれますか?」

「いいよ。毎日は無理かもしれないけど、また一緒にお話しよう?」

「良かった。すごく、嬉しいです」

 

 夏美さん身体を離して、それから額と額を合わせて、僕ははじめて、キスをした。

 ……。


「うわぁ!」


 完全な不意打ちに驚いて後ずさり、僕は頭をベッドの柵みたいなのに頭をぶつけた。すごく痛い。ジンジン痛む。それに、顔が熱かった。胸が痛くなるほど、早く打っていた。


 涙をにじませながら顔をあげる。

 目を丸くしている夏美さん。吹きだし、口元を押さえて笑いはじめた。ちょっとだけ、ひどいと思う。僕はすごく驚いて、恥ずかしくて、ドキドキしているのに。

 それに、初めてのキスは、なんて、全然分からなかった。ただ、びっくりしたってだけ。だから僕は、ちょっとひどいと思った。


「夏美さん、ひどいです……」

「ごめんね。びっくりしちゃったね」


 そう言って、また夏美さんは頭を撫でてきた。その手は優しくて、ちょっとひんやりしている。僕は嬉しくて、もう一度お願いすることにした。


「夏美さんの声を、もっと聞きたいです。だから――」

「うん。分かってるよ。私だって、宏樹くんに話したいこと、一杯あるんだ」


 聞きたかった夏美さんの声は、すごく優しくて、可愛い声をしていた。

 

 その日から、また僕は公園で夏美さんと話をするようになった。

 でも僕は、夏美さんにルールを作るように、と言われてしまった。ちゃんと学校に行くことと、部活を続けること。そんなに難しいことじゃない。毎日会えないっていうのは少しさびしいけど、仕方ない。


 夏美さんのお願いだし、聞いてあげないと。

 それに、会える日が分かっている方が、嫌なことでも我慢ができた。それになにより、一生懸命やってると、夏美さんと話したいことが一杯できる。

 公園の道の先に、ベンチが見えてきた。

 今日も夏美さんは、麦わら帽子をかぶって座ってる。


 僕は今日あったことを思い返しながら、夏美さんの声を、聞きに行く。

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