僕だけが知らない声
その日、僕は夏美さんのことばかりを考えていて、何をしていても落ち着かなかった。それまではワクワクして、少し苦しいくらい。でも、気付いてしまった僕は、身体が寒くなるようだった。
窓から入る日差しで、クラスのみんなが汗をかく。そんな中、僕一人、震えて冷たい汗を流してる。
授業なんかロクに聞いてられない。ただ早くこんなものは終えてしまって、公園に走って行きたかった。震える体を抱きしめるように、机の上で頭を抱える。
机が揺れて顔をあげると、心配そうな友達の顔があった。
「大丈夫か? 朝からずっと顔色悪いぞ?」
「ほっといてよ。いま、それどころじゃないんだよ」
「……なんか久しぶりだな」
「何が?」
「お前に、ほっといてーなんて言われんのだよ」
「……ごめん」
「別にいいって。何かあったのか?」
「ないよ。大丈夫。きっと、大丈夫」
「ふぅん……まぁ、俺はいいけどさ。ちょっとマズイことになってるっぽいぞ」
「なにが?」
「部活。別にいいとか言うなよ? 先生が、呼び出すとか言ってた」
「なにそれ?」
「先生がさ、先輩たちから、聞きだしたみたいなんだよ」
「それでなんで、僕を呼びだすのさ」
「さぁ? でも、そういうもんなんじゃねぇの? 大人ってみんなそうだし」
「無視しようかな」
「やめとけって。呼び出し無視するとな、親まで呼ばれんだぜ?」
「でも僕は――」
「俺に言うなよ。俺だってちょっとムカついてるんだし。ようやくお前も元気になってきたのになぁ。まぁ、気を付けろってのも変だけど、我慢してやれよ」
なにを我慢しろって言うんだろう。親を呼ばれることじゃないのは、間違いないだろうけど。じゃあ、夏美さんに会いに行けなくなることかな。それは、我慢なんかしたくないんだけど。
授業が終わってすぐだった。
剣道部の先生が教室に入ってきて、手招きしてきた。行きたくない。行きたくないけど、友達の話が本当なら、もっと面倒なことになる。
諦めて先生の所に歩きだす。友達が僕の肩を、叩いてくれた。多分、頑張れって意味なんだと思う。なにを頑張れっていうのだろう。
先生に連れていかれたのは、生徒指導室だった。
狭苦しい部屋には、先輩が二人、不貞腐れたようにそっぽを向いて、座っていた。扉が閉まると同時に先生が先輩たちを怒鳴り付けて、その声の大きさに僕はすっかり怯えてしまった。
それから先はよく覚えていない。本当に僕にとってはどうでもいい話で、先生が先輩たちを怒って、謝らせて、許してやれ、なんて言われて。
それに、そんなことは、もうどうでも良いのに。何度も何度も同じことを繰り返して、しまいには、なぜか僕まで怒られて。もうそこにいるのも嫌になって、ただずっと下を向いていた。昨日感じた夏美さんの背中と、香水の匂いを思い出しながら、ずっと我慢をしていたと思う。
話が終わる間際に、明日から部活に出るよう言われた。出たくないし、やめたいと返してみたけど、ただ話が長引いただけ。だから仕方なく、明日から出ますと嘘をつき、頭を下げた。結局、僕に謝らせたいだけじゃないか。
そんなことをやっていたせいで、外はすでに日が落ち始めていた。
息を切らせて、公園まで走る。足が自分のものではないみたいだった。一生懸命走っているけど、全然前に進まない。
ようやく公園についたときには、すでに真っ暗になっていた。暗くなりはじめてから、そんなに時間はかかっていないはずなのに。
公園のベンチに、麦わら帽子は揺れてなかった。
会えなかった。足元がふわふわするような感じ。夏美さんを待たせ続けていたことが辛くて、泣きそうになりながら家に帰った。
家では母さんに、また喧嘩でもしたのか、なんて聞かれたけど、返事もできなかった。部屋に戻って、一人で身体を抱えた。夏美さんがそうしてくれたように。
眠れない夜はあけたけど、学校になんか行きたくなかった。それでも、僕は竹刀を持って、学校に行く。そうしないと、夏美さんが怒るような気がしたから。
公園に行って謝る事だけ考えていて、昨日のことを忘れてた。
授業が終わると同時に、先生が教室に来る。逃げられやしなかった。用があるとか、体調が悪いとか色々言ってはみた。言い訳するなの一言で、話は終わり。
部室で嫌々防具を出すと、真新しい傷が増えていた。
あり得ないと思ったのは、なぜか先輩と一緒にみんなの前に座らされて、謝るように言われたこと。ただ友達の目だけが、慰めてくれていた。
気合いを入れろとか言われても、そもそもやる気なんて出なかった。しかもそのせいで、遅れてるんだからもっとやれとか言われて。
ようやく解放されたときには、また外は暗くなっていた。今から行っても、もう間に合わない。間に合うはずがない。
足は重いし、身体は痛い。それに寒かった。公園についたときにも、汗一つかいてなかったと思う。やっぱり暗い公園のベンチには、麦わら帽子は見当たらなかった。
だから次の日、僕は部活に行くフリをして、学校から飛び出していた。これまでと同じ時間。とにかく早く会いたくて、陽炎の立つ道を走る。
息を切らせて辿りついたときには、これまでと同じ公園ではなくなっていた。
蝉が煩く鳴いていて、土の道は粘ついている。ベンチに親子が座って遊んでいるし、ほとんど毎日のように見た老夫婦も座ってた。
でも、夏美さんは、そこにいなかった。
いつかのときのように、待っていれば来るだろうか。
来てくれることを期待して、僕はベンチに座る。そして、ただじっと自分の手を見て、待ち続けていた。刺すような日差しに肌は焼かれるようなのに、身体はずっと、寒いまま。苦しさも痛さも、無くならない。
結局、夏美さんは来なかった。
日が落ちた公園のベンチから立ち上がってから、どうやって家に帰ったのか。僕は全く、覚えていない。
家に帰ってから、父さんに怒られたのは覚えてる。学校から連絡がきた、って言っていた。電話をとったのは母さんだろうから、約束はあっさり破られたってこと。
何もかもが嫌でたまらない。部活だって、父さんに言われてやってただけで、やりたくなんかなかった。大して強いわけでもないし、たまたま先輩に勝っただけだというのに、仕置きとか言われる。
僕は初めて、父さんに怒鳴り返していた。先生がそうやってたのと同じように。
何も言い返してはこなかった。ため息をついた父さんに、もう寝ろと言われただけ。そのときにはもう、何をする気もなくなっていた。
眠れるわけなんか無いのに、ベッドにもぐりこんで布団をかぶる。思い出すのは公園で過ごした日のことだけ。一度も声を聞けていない。喉が治ったのなら、声が聞きたい。一言で良いから、夏美さんの声が聞きたかった。
次の日、僕は学校を休めなかった。父さんが部屋まできて、謝ってきたから。もう続けないと決めたらそれでもいいから、もう一回だけ、ちゃんと考えてみてくれ、なんて言っていた。
授業を聞き流して、少し雲の張った窓の外を眺める。遠くに見える病院。その近くにある、森のような公園。少しだけ、滲んで見えた。
いつの間にかに授業は終わっていたらしくて、友達が傍にきていた。
「ひっどい顔してんなぁ。怒られたんだろ」
「ほっといてよ」
「まぁた、そうなっちゃうか。だからちゃんと行けって言ったのにさぁ」
「ほっといて」
「そういやさ、お前、あの美人のねーちゃん、どういう関係なの?」
美人のお姉さんなんて、知っているのは一人だけしかいない。
夏美さんだけ。
「え!?」
「うぉ、なに? 違うの? アネキ?」
「来たの!? ここに!?」
「お前がサボったあとな。麦わら帽子のねーちゃんが、剣道場まで来てさ」
「ほんとに!?」
「嘘ついてどうすんだよ。ほんとだよ。今日は部室行ったら、大騒ぎだぜ、お前。来るなり、ヒロキくんはいますかー? なんて聞いてきてさ」
「聞いてきた!? 喋ったの!?」
「お、おぉ……なんだよ、ちょっと怖ぇぞ」
「ごめん。ちょっと、しばらく、ほっといてもらえる?」
「大丈夫か? 顔、青くなってるけど……怖ぇよ、睨むなよ。んじゃ、あとでな」
睨んだつもりはないけど、息を吸うのも難しくて、構ってられなかった。
夏美さんが僕を探しに、学校まで来たのは分かる。でも、探すために声を出したというのが、信じられなかった。それを聞いたという友達を、許せなかった。
僕は一度も聞いたことがない。なのに友達も、部活のみんなも、夏美さんの声を聞いた。行きたくない。そんなところに行ったら、どうにかなってしまう。
僕は、なんのために、毎日会いに行っていたんだろう。
時間をつぶすためなんかじゃない。話をしてくれれば元気になる、なんて言われたからだ。一緒にいたかっただけじゃない。声を聞きたかった。
周りの人たちにからかわれるのも気にならないほど夢中になって、色んな話をして、遊んで、二人で笑う。なのに僕は、声を聞けていない。
治ってしまったら、もう会えないかもしれない。だけどそれでも、声を聞きたかった。あれだけ悩んで泣いたというのに、僕だけは、夏美さんの声をしらない。
会いに行かなきゃいけない。会いに行って、たしかめないと。
決めてからの時間は、苦しかった。ただ無駄な話がつづくばかりで、何も楽しくない。それどころか、じっとしていることに耐えられなくて、叫びだしそうだった。
ようやく授業が終わると、先生が教室にまで入ってきている。一緒に部室まで来い、なんて言ってきた。冗談じゃない。
そんな暇はなかった。公園に行って、聞いてこなきゃいけない。夏美さんの声を。
先生の手が、痛いほど強く僕の腕を掴んだ。咄嗟に腕を払って、手を引き剥がす。腕から手が離れた瞬間、僕は駆け出していた。
後ろから響く先生の怒鳴り声。
「待て! 斎藤!」
「先生! ちょっといいですか!?」
今度は友達の声。目を向けると、友達が先生に抱きつき、足止めをしてくれている。友達は首をあげて、行け、と仕草をしてきて、僕は頷き駆け出した。
これまでにないくらい、暑かった。公園についてからも、いつものベンチを目指して走る。陽炎の向こうに、揺れる麦わら帽子。今日は他には、誰も来ていない。
心臓の音が大きくて、他には、なにも聞こえない。帽子をかぶった頭がゆっくりあがり、いつも笑顔が見えた。
夏美さんの前まで行ったときには、何を言いたかったのか分からなくなっていた。ただ息が苦しくて、胸が痛くて、夏美さんの顔が滲んで良く見えない。
水筒を握った手が差しだされてきたけど、僕は首を横に振っていた。なんでそうしたのか分からなかった。
僕の頭をなでようとしているのか、手が伸びてきた。
「やめてよ!」
叫んでいた。なんでそう叫んだのかは、分からない。言っちゃいけないってことも、知っている。でも僕の口は、勝手に動いていた。
「嘘ついてたんですか?」
夏美さんの手が、離れていく。
「いつ治ったんですか? 僕と話しているときですか?」
滲んで見える夏美さんは口を開きかけて、そこでやめてしまった。多分これは、言い訳が思いつかなかったから。都合のいい嘘を、思いつかなかったからだ。
もう僕は、自分の口を止めるのを諦めてしまった。
「治っていたなら、なんで、なんで僕には、何もいってくれなかったんですか!?」
どんな顔をしているのかは、見ることができなかった。叫び続けていたからか力が抜けて、僕は膝をついてしまった。胸が痛くて、息が苦しい。
いつの間にか泣いていたみたいで、涙が落ちた。顔をあげられない。見るのが怖い。子供みたいなことを言ってたのも、よく分かってる。それでも僕は、言い訳なんて、見たくなかった。
俯く僕の目の中に、ノートが映る。そこには、少し丸い字で、『ごめんね』、と書かれてた。筆談はしない。楽をしちゃダメ。そう言っていたのに。
ノートに書かれた夏美さんの字は、僕の涙で滲んでいった。
なんで夏美さんは、僕に声をかけてくれないんだろう。たった今、これだけ叫んだのに、なんで僕には、声を聞かせてくれないのだろう。なんで僕には、一言も喋ってくれないんだ。
「なんで僕には、なにも言ってくれないの?」
そんなこと、言いたくなかった。でももう、止められなかった。
「なんで? 僕は、僕は夏美さんのために、毎日、毎日……」
言い続けることもできない。僕の涙はぱたぱた落ちて、ノートを汚す。
ボールペンを握った白い手が、ノートに字を書きはじめた。
逆さまに書かれた文字は、『言いだせなかった』。
それと、『もう来なくていいからね』
足音が遠くなっていく。夏美さんが僕の傍から、離れてく。
蝉が、煩いほどに、鳴いていた。
僕はただ、夏美さんの声を聞きに来ていた、はずだったのに。
その日から、僕は二日続けて学校を休んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます