世界が変わる

 学校ではあいかわらず、友達が話しかけてきた。やっぱり部活の話。いい加減にしてほしい。でもそう言ってしまったら、多分、もう話しかけてきてくれない。それは少し嫌だから、結局いつもと同じやりとりを繰り返す。


「な? 一回くらい出てくれよ。先生しつこいんだって」

「嫌だってば。僕は他にやることあるし」

「あの面白い話ってやつ? 芸人にでもなんの?」

「そういうわけじゃないよ」

「でもあれ、身内話だから、知ってるヤツしか笑えねぇよ?」

「だから違うってば。っていうか、毎日僕に話しかけてて、何が楽しいの?」

「ひっでぇ」


 ひどいって言葉に驚いて、友達を見た。傷つけたかもって思ったから。

 でも彼は、笑ってくれていた。


「何がっていうとあれだけどさ。お前、ちょっと変わってるから、面白いよ」

「僕が? 僕のどこが変わってて、なにが面白いの?」

「なに? やっぱ芸人狙ってるとか?」

「だから」

「冗談だって。よくわかんねぇけど、面白いよ。そういうもんなんじゃないの? 俺はわりかし、お前のこと面白いって思うし」

 やっぱりどう答えていいのか分からない。

 とりあえず「そういうもんかな」、なんて答えておいた。


 公園では、蝉が鳴きはじめていた。日に日に外は暑くなってる。ここに歩いてくるだけで、汗でシャツが張り付いてしまう。そこで僕はようやく気付いた。

 昨日の夜に母さんが言ってたのは、嘘だ。香水の匂いがついていたのは本当かもしれない。だけど、少なくとも部活と汗の臭いなんて、この暑いなかじゃ関係ない。つまり母さんは、夏美さんについてはともかく、部活については適当に言っただけだ。


 ため息が出た。聞いてくれればよかったのに、なんて思って。

 聞かれたところで、多分答えやしないけど。

 ……もしかしたら、この話はちょっと面白いかもしれない。失敗談だけど、これは僕の話だ。少し恥ずかしいけど、試してみるのはアリかもしれない。

 

 いつものように、麦わら帽子が見えてきた。

 なんて話しかけるかドキドキしながら考えてると、麦わら帽子が上を向く。

 まだ遠いのに、こっちに小さく、手を振ってる。もう、悩むのはやめ。


「お待たせ、しました」


 気付いたときには走り出してて、着いたころには息が切れてた。

 夏美さんは笑いながら、隣の席を叩いてる。座るとすぐに鞄からペットボトルみたいな赤色の水筒を取り出し、僕に差し出した。


 何も考えずに受け取っちゃったけど、これ、飲んでいいのかな。

 少し不安になって夏美さんを見ると、ニコニコしながらぐいっと飲む仕草。

 蓋を開けて、夏美さんの水筒に口をつける。冷たくて美味しい。


 頭にまた夏美さんの手が伸びてる。でもまぁ、お茶をもらっちゃったし、撫でさせてあげよう。くしゃくしゃするのは、やめてほしいけど。

 さすがに全部飲んじゃうのはマズイかな。あんまり飲むと後で辛くなりそうだし。


 僕は夏美さんに水筒を返した。

 受け取った夏美さんも、水筒に口をつける。隣で見てると喉が動いて、ちょっと面白い。それに、すごく美味しそう。僕もあんな顔して飲んでたのだろうか。だとしたら、頭をなでたくなるのも、ちょっとだけ分かる気がする。子供っぽく見えるし。

 見てるのに気付いたのか、夏美さんは水筒の蓋を閉める。そして、いきなり抱きついてきた。なんで。


「あ、あの、夏美さん!?」


 驚く僕を無視するように、頭をぐりぐりされた。暑い。暑いけど、それより今は僕の話をしないと。今日はここに来るまで、僕の話をすると決めてきたから。


「あの、夏美さん。これだと、話しにくいんですけど……」

 ぐりぐりと頭に感触、多分、夏美さんが首を横に振ったんだと思う。

「……このまま話さなくちゃダメですか?」


 ぐりぐり。さっきと違う感触。多分今度は、首を縦に振っている。つまり、僕はこのまま話さなくちゃいけないらしい。普通に話すときでも恥ずかしいのに、グレープフルーツの香りもするし、なんだかクラクラしてくる。


 そんなことを思ってたら、今度は頬を引っ張られた。きっと早く話せと言ってる。だから、抱きしめてくる夏美さんの柔らかな感触に負けないように、剣道のときと同じように、精神集中。もっとドキドキしてきた。でも、このままだとずっと抱きつかれたまま。


「あの、今日は、僕の話をしようと思って……」


 首にまわされてた腕に力が入って、引き寄せられる。頭も撫でられてる。どういう意味なのか分からないけど、僕は諦めて、昨日の起きたことを話しはじめた。

 最初はできる限り面白くなるように、なんて考えていた。でもそれは、途中でやめてしまった。どう考えてみても、僕には面白い話じゃないから。

 僕にとっては、カッコ悪いだけの話だから、不安だった。


「えっと、どうでした?」


 話してる間ずっとくっついていた夏美さんは、ぷるぷる震えてた。笑ってくれているのかも。

 なんとか顔が見てみたくて、ちょっと無理して上を向く。


 近い!


 すぐに離れようとしてはみたけど、首に巻かれた腕がそうさせてくれない。別に力で負けるってわけじゃない。単に腕を振りほどくのはどうなのかなっていうのと、ちょっと落ち着く気がしたりしただけ。力の強さで、負けてるはずない。

 夏美さんは僕の左手を取って、開こうとしてきた。良く分からないけど、とりあえずされるがままに、手を開く。


 巻いた腕を緩めた夏美さんは、丸を作って僕の手に並べた。

「五十点ですか?」

 チョキの形をした白い手が出てきて、僕の作った五に並ぶ。

「七十点?」

 ぐりぐりされた。


 七十点。昨日と比べればずっといいけど、どのへんが面白かったんだろう。


「なにが面白かったんですか?」


 やっと離れてくれた。ずっとくっついていたから、ちょっと涼しくなった気がする。それになんだか、さっきよりドキドキする。


 こっちを向いた夏美さんは、僕を指さし、話すの仕草。

「僕の話? でも、普通の話しか――」

 すかさず丸を作ってた。ちょうど普通のあたりで。

「僕の普通の話が、面白いんですか」

 うんうん頷く夏美さんに、また撫でられた。やっぱり、良く分からない。


 でも、面白い話じゃなくていいなら、話すのも楽だ。

 それから帰るまで、僕はずっと普通の話をしてた。ただのなんてこない話のはずなのに、夏美さんは笑ってくれていた。ちょっと困ったのは、何点か聞いたら、×を作られたこと。もう点数はつけてもらえないらしい。


 でも僕は、なぜか昨日よりずっと、ウキウキしながら帰り道を歩いてた。

 そのせいで、昨日よりずっと、母さんにからかわれたけど。


 その日から、僕が夏美さんと過ごす午後は、ちょっと変わった。

 面白いとか面白くないとか、そんなことを考えずに話せるのはすごく楽で、ずっと楽しい。

 前は眠そうに聞いてた夏美さんも、いろいろ質問してきた。もちろん仕草で。おかげで僕も話しやすくて、時間が経つのが早くなる。


 土曜日も日曜日も、公園に通う。最初はいないんじゃないかと不安になったりもした。でも、いつもの時間に、夏美さんは待っててくれている。

 初めて部活をサボった日は、隣に座るだけでも、勇気が必要だった。今は、夏美さんの隣に座って、なんでもない話をするのが楽しい。時間がきて、帰り道を歩くと、明日は何を話そうか、なんて考えてしまう。


 学校でする友達との話も、ちょっと変わった。

 前は部活に出るよう言われて、ほっといてって返すだけ。今はちょっとだけ違う。

 部活に出るように言われたら、なんで出ないといけないのかって、聞くようにした。別に言い返そうってわけじゃなくて、そうすると話がしやすくなるから。


「なんでってお前……出た方が良くないか?」

「だから、なんで? 先生に怒られるからとか?」

「そういうわけじゃねぇって。そうじゃなくて、なんだろ」

「僕に出てほしいとか」

「出てほしいって、まぁ、そりゃ、まぁ……」

「さびしいの?」


「キモいこと言うなよ! それじゃ俺、友達いねぇみたいじゃん!」

「僕は部活に出ても友達なんていないし」

「は!? 俺は!?」

「友達」

「……どっちだよ! 意味分かんねぇ。やっぱ変わってるよ、お前」


 乱暴に返してはくるけど、友達は、大体は笑ってくれていた。

 それが僕の日常になっていく。

 学校が終われば公園に行って、夏美さんと話して。家に帰ると大抵は母さんにからかわれるけど、それも煩わしいとは思わなくなっていく。そしてまた学校に行って。


 僕の日常は、ちょっと変わった。

 部活に行かないのだけは変わらなかったけど、うざったい夏は、楽しい夏になっていた。多分、これまでで一番楽しい夏。

 前はただ暑いだけだと思ってた。でも今は、違う。


「今日も暑いですね」


 そう言える。

 夏美さんは頷いて、額の汗を拭う仕草をする。つまり、ほんとに暑いね、ってこと。それまでの僕なら、どうでもいいって思ったと思う。でも今は、その仕草を見たくなってる。


 だから僕は公園に通った。

 何日も続けて会っているのに、話の種は尽きない。それどころか、増えてしまうくらいだった。夏美さんは仕草でしか話せないから、まるでクイズをやってるみたい。


 たまに周りの子供に真似をされたりして、僕はちょっと恥ずかしかった。そんなときでも、夏美さんは気にしてなくて、子供と一緒に同じポーズを取ったりしてた。

 なんだか取られたような気がして悔しくて、僕も負けないように真似をした。

 夏美さんは笑ってくれていたし、毎日、午後は一緒に過ごしてた。


 そうして、僕が夏美さんの声のことを、忘れそうになりかけていた頃だった。

 夏も盛りに入り始めて、ただでさえ暑いのに、風もなくて湿気っぽい日。公園のベンチに、夏美さんの麦わら帽子が、見当たらなかった。


 僕は息をのみ込んだ。

 何とか足を動かして、いつものベンチに座る。隣を見ても、いない。それどころか、いつも見かけた老夫婦も、親子も誰もいなかった。


 そこに座って地面を見てると、すべてが夢だったように思えてくる。そもそも夏美さんは、病院に近いからここに来ていただけ。

 気付くと、急に寒気がしてきた。僕は、なにを期待して、夏美さんと会っていたのだろうか。僕は、なにがしたくて、ここに来ていたのだろうか。


 部活をサボっただけ。サボって、怒られるのが怖くて、バレないように時間をつぶしたかっただけ。でも僕はもう、母さんにはバレてる。怒られてもいない。友達だって、もう部活に来いって言わなくなってる。

 だからもう。


「来なくていいってこと?」


 その言葉は、自然と僕の口から、溢れ出ていた。

 夏美さんも同じだと思う。出会ったときは、ただの偶然。どっちも、元々別の理由で、ここに来ていた。だから理由がなくなれば、ここに来る意味なんてない。


 でも、僕は、変わってしまった。

 僕の理由は、もう、部活をサボった時間潰しじゃない。ただ夏美さんに会いたくて、話がしたくて、ここに来るようになってる。

 夏美さんはどうだったんだろう。

 笑ってくれていたけど、声が出せるようになったら、僕に会う理由は無いのかもしれない。夏美さんにとっては、ただの時間潰しのままだった、かもしれない。

 

 そう思ったとき、僕は泣きそうになっていた。

 下を向いて、膝の上で手を握り締める。身体が重くなって、息もしづらい。空は暗いままだし、握りしめた手よりも、胸の方が痛かった。

 そのまま祈るように待ち続けて、僕の視界が滲み始めたときだった。


 前から、走る足音が聞こえてきた。

 足音はそのまま近づいて、僕の前で止まった。荒い息も聞こえる。でも、顔をあげられない。だから、足元に見える、革のサンダルを見つめてた。


 僕の頭に、手が触れる。ちょっとひんやりしてる、優しい手だ。手はそのまま僕の頭を撫でてくれていた。

 上を向いたら涙がこぼれそうで、顔をあげられない。一人で勝手に悩んで、泣いてて、恥ずかしすぎる。まるで子供みたいで、撫でられてても、文句も言えない。


 僕を撫でていた手は、顔をなぞるように降りてくる。そして頬をつまんだ。麦わら帽子のつばが、ぱさりと音を立てて、僕の頭に当たった。覗きこんでくる夏美さんの顔は、涙で滲んで、よく見えなかった。

 突然、抱きしめられた。すごく強く、でも優しく。気付くと僕も、夏美さんの背中に、手をまわしてた。走ってきたからか、夏美さんの息は荒く、熱かった。


「もう、来ないのかと思ってました」


 背中を擦ってくれていた手が止まり、夏美さんが離れてく。

 僕は離れてほしくなくって、腕に力を込めた。

 いつもと違って、頬ずりもされた。温かくて、いつものグレープフルーツの香り。


 肩にかけていたトートバッグに、手話の本が入っているのが見える。このままだと良いなと思い、僕は震えた。

 いつ会えなくなってもおかしくないことに、気付いてしまったから。それが怖くて、力いっぱい、夏美さんを抱きしめた。

 

 そして僕の恐怖は、この日を最後に、現実のものとなってしまった。

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