円谷と矢田

円谷の家から海部の日本邸宅までは、大まかに言うと緩やかな登りになっていて殆ど一直線である。自転車に乗って家を出てから20分ほどして漸く道を折れると、遠い正面に海部の家を見据えた。道沿いに生育する孟宗竹林は理想的な生育で夏の夕日を遮り、間引きされた竹は整然と積み上げられている。


表に自転車を止めた円谷が呼び鈴を鳴らすと、海部は隣にあるガレージから顔を出した。どうやら何か古道具の手入れをしていたようで手には紙やすりを握っていた。いつもはそれに興味を持つ円谷であったが今日は緊張しているのか、朝から何をするにも上の空であった。海部もそれを分かっているようでにやにやとしながら、


「矢田さんならまだ来ていないから中に入って待とう。いやぁどんな子なのか楽しみだねぇ」


と言った。見透かされたようで恥ずかしく思ったが、冷やかされても腹は立たなかった。海部の言葉はいつも含むものがなく正直なのであった。円谷を15畳ほどあるいつもの応接間に通し、海部は暑いからアイスコーヒーがいいね、と言って台所へ向かう。応接間には海部の様々なコレクションが飾られていた。今でも使えるレコードプレーヤーの隣の棚には海部のコレクションの中でも円谷が一際気に入っている和文タイプライターが鎮座している。そのぎっしりと詰まった文字列を見るだけでうっとりとした。


キミは本当にそのタイプライターが好きだな、と言いつつ応接室に入ってきた海部は両手にお盆を持ち、背中には何故かリュックを背負っていた。訝しげにそちらを見た円谷に視線で着席を促し、アラベスク模様のコースターと共にアイスコーヒーを机の上に置いた。


「今日は場所をお借りしてしまって申し訳ないです」

「元はと言えば僕のお願い事だから気にしなくていいよ、むしろ感謝すべきは僕の方だ!何せこんなによいものを手に入れたんだからね」


そう言って海部は背負っていた鞄から大きなファイルを取り出すと円谷の前に差し出した。開いたページを確認すると守礼門が目に入った。そして透明なポケットにファイリングされたそれを捲ると、裏面にも守礼門が建立されており、源氏物語は影も形もなかった。


「小五郎さんが?」

「そう、昨日持ってきてくれてね。頭の回転も速いし、行動も早い。それが彼のいいところでね」


そういうと海部はファイルを手元に引き寄せ、エラー紙幣を飽かず眺めた。海部が頻りにファイルのポケットを捲る音と感嘆する声だけが部屋に充満し、円谷は時計を確認すると約束の時間まで残り幾許もなかった。まさか依頼者が遅れてくるなんてことはあるまい、と円谷は信じたかったが同時に何らかの手違いで今日の話が流れてほしいとも思った。どこか落ち着かない円谷に海部は気付いたようだった。


「うちの前の道路は一直線だし迷うことは無いと思うけど、ちょっと表を見て来てくれるかな?」


と言ってまたにやにやとし始めた。年を取ると自分が色恋しなくなる分、若い人の色恋沙汰を見るのが楽しみでねぇ、と言う海部にまだ女の人と決まったわけでは、とズレた回答をした円谷は、自分の回答から多少期待が立ち上っていることを自覚し、顔を紅潮させた。更にからかわれない内に言葉通り表に出よう、そう考えて席を立った円谷と同時に、部屋の持ち主も立ちあがって掛けるべきレコードを逡巡し始めた。


玄関の三和土に置いてある自分のサンダルをつっかけると、磨りガラスになっている玄関の引き戸に女性の人影が映じていた。どうすべきか分からぬままそこに立っていると当然のように呼び鈴が鳴って円谷の心臓は跳ねた。サンダルを引っかけたままの姿で突っ立っていたがどうやら海部は応対を自分に任せるようだと気付き、しぶしぶ三和土を歩いて引き戸に手を掛けると、その人影は少し後退した。


思い切ってがらりと開けた引き戸の音にまた退くようにしたその女性は、夏らしいオフホワイトのロングスカートの下に踵の低めなミュールを履き、肩の落ちたサマーニットを被っていた。そしてこれもまた細い声で、本日お招きいただいた矢田と申します。ご主人様はご在宅でしょうか。と言った。どうやら家人と勘違いされているらしい、と思うも円谷はどうも混乱してしまって、ええおりますどうぞお上がり下さい。というのが精いっぱいだった。


矢田を従えて廊下を歩く円谷は、引き戸を開けた時に捕えた矢田の潤んだ様な瞳を反芻していた。と同時に自分の頭が上気するのを感じ、一度洗面したいと思った。応接室の前に立つと恭しく矢田を招き入れた。ぺこりと御辞儀して中へ入った矢田を見送ると円谷は一度便所に行こうと画策した。応接室では海部と矢田が挨拶を交わす様子が聞こえる。円谷はゆっくり扉を閉めようとした。


「で、どこへ行くんだ円谷くん」

「え?」

「説明してなかったのか……」


半ば呆れながら海部はあれが円谷くんだよ、と言った。こうなってしまえば逃げる訳にもいかず円谷は平身低頭しながら応接室に入った。レコードプレーヤーからは海部の好きなブラームスが流れている。矢田は目を丸くした。


「すいませんてっきりお家の方かと……初めまして矢田です。今日は無理なお願いを聞いて戴けて嬉しく思っています、よろしくお願いします」

「いえこちらこそ説明もせずに申し訳ない。円谷です」

「まぁまぁ挨拶はその辺にしてさ、二人とも掛けてよ」


と言って椅子を引き、矢田に席を勧めた。アイスコーヒーで良いかなという海部は、いえほんとにお構いなく。と言った矢田の言葉が聞こえたのかどうか分からないほど、還暦過ぎとは思えない俊敏さで部屋を出て行った。去り際に円谷にウィンクした時、加賀見みたいだなこの人、と思った。


仕方なく矢田の正面に腰掛けた円谷は何を話したものかと迷ったが、相手も同じように悩んでいるらしい。そもそも互いのことを全く知らずに出会った、友達の友達の友達である。他人にもほどがある。とりあえず本題から喋ろうと思い、それで聞きたいMDというのは、と言うと矢田は安心したような顔を見せ、手に提げていた鞄からMDを取り出して口を開いた。


「祖母の物なんですが、最近頻りにあの曲が聞きたい、この曲が聞きたいと言うんです。なので言った曲を聞かせてあげたんですがこれじゃないと言って聞かなくて……困ったなと思っていた時に母が昔祖母の語っていたMDというものの存在を思い出したんです。物持ちの良い祖母のことだからまだ持っているだろうと思って探してみたら、祖母の言う曲と全て一致する手書きのリストが入ったMDを見つけて……」

「なるほど、でも妙ですね。曲自体は同じなんでしょう?」

「はい。間違いありません。恐らくはリマスターされた影響で違うものに聞こえているのかと」


嘗てCDやレコードで流通した曲は、今や殆どリマスタリングされ、デジタル化して保存されている。ノイズが減ることで聞きやすくなった半面、オリジナルの良さが消されているという意見もある。


「当時の音楽を当時の音で、か。それはなかなかの難題だ」

「そうなんです。探してみてもプレーヤーの方が見つからなくて」

「そういうことならお貸ししましょう、このMDプレーヤーもたまには音を出したいでしょうしね」


そういうと円谷は横の椅子に置いた鞄から銀色のMDプレーヤーを取り出して机の上に置いた。丁寧にイヤホンまでついている。あっさりと許可した円谷に多少驚いた様子で矢田は言う。


「良いんですか?祖母が出向くということにしようかと考えていたのですが」

「構いませんよ、この暑い中じゃ出てくるのも大変でしょう」

「恐れ入ります。高価な物でしょうし一応こういうものを用意させてもらいました。よろしければご署名ください」


そういって取り出したのは借用書であった。この貸借を気軽に捉えていたのはどうやら円谷の方だったようでこんなものまで、と多少面食らったが一応目を通し始めた。円谷はこういった込み入った書類が大の苦手なのですぐにでも署名してしまいたかったが、適当な男だと思われるのを恐れて一つ一つ確認するように読んだ。壊れた場合などの補償などが書かれているようだったが、どうにも頭に入ってこなかった。目の端で安心したように座っている矢田を見て、その黒目の大きさに驚嘆した。


それに署名すると、2人はとりあえず打ち解けたようになって漸く自己紹介の続きを始めた。矢田は円谷と同い年で、今は隣の市で事務員をしていると言った。その頃になってやっと海部がアイスコーヒーを持って戻ってきた。もう話は済んじゃったの?と恍ける海部はまた円谷に向かってウインクを飛ばした。若いような若くないような、と円谷は苦笑した。


それからは三人で何の気ない世間話を交わしていたが、気付けば辺りは暗くなっていた。夏とはいえ夕方から集まればこうなるのは自明の理である。会話の中心は海部で、どちらにも通ずる話や自分の経験談を語って場を盛り上げる会話術は流石の年の功と円谷は感心した。途中で小五郎の話題にもなり、どうやら矢田は高校時代から付き合いであるらしく、同じく小五郎を知る海部と、屈託がない、という意見で一致した。いつか円谷くんも会うことがあると思うよ、という海部の一言を最後に会は解散することになった。


またおいでー、という海部に深々と御辞儀しつつ辞去した矢田は、先に自転車を取りに行って家の前で待つ円谷と肩を並べて歩き始めた。送ってあげなね、という海部の厳命に従って矢田を駅まで送っていくことになった円谷は、自転車を取りに行く間に捻りだした話題を早速繰り出した。互いの口調は先よりだいぶ柔らかくなっていた。


「お祖母さんとは一緒に暮らしているの?」

「そう、私と両親とおばあちゃんの4人暮らし。狭い家だからたまに窮屈だけど。海部さんの家大きかったねー」

「あれだけ大きいと管理も大変そうだ」

「円谷くんは一人暮らし?」

「ここ7年くらいずっと一人だ」

「ふーん、いいなぁ。私は一人暮らししたことなくって」


矢田が窮屈だと言ったのには両親からの制約もあってのことなのだろうと円谷は察した。同時に好機であるとも感じ、話題に一歩踏み込む。


「なら遊びに行くのにも一苦労だ」

「そうだね、大学の時はそれが嫌だったこともあってさ。でも今はそんな外で遊んだりしないし」


恋人がいるか、聞くならここだろうと思った。しかしここでいきなりそんなことを聞いて何か下心があるように思われてはやりにくい、なにせまだMDプレーヤーを返してもらう時がある。口ぶりからして恋人はいないだろうと思われたし、今はそれでいいと思い、円谷は曖昧に返事を濁した。


駅に着くと矢田は再三お礼を言って駅舎の階段を上って行った。返す時にはまた連絡するからね、という矢田の言葉を思い出しながら家までの下り坂を自転車と共に楽しんだ。早く連絡が来るといい。そう思ってから3日、思ったより早く連絡はやってきた。しかもその連絡は電話である。


着信時、円谷はスーパーで晩御飯の買い出しをしていたが、相手を見ると心臓が拍動を一拍すっ飛ばしたように閊えた。


円谷です、といつもより高めのトーンで喋る自分を気味悪く思いながら電話を受けると、相手は予想外に混乱していた。以前の細い声に変わりはなかったが声色に焦燥が滲み出ていた。どうしたのかと思った円谷は、どう考えてもMDプレーヤーのことに違いないと直覚し、予感を振り払うように早口で、どうしたの、と尋ねた。


矢田は本当にごめんなさい、と言ってから一口に、MDプレーヤーを壊してしまった、と伝え、もう一度ごめんなさいと言って長く沈黙した。電話口からは段々とすすり泣く声が聞こえ始め、明日お会いできますか?という嗚咽交じりの声が円谷の耳に届いた。


円谷は慰めの言葉を探そうと思ったが、何というべきか分からなかった。どちらかと言えば慰められるべきは自分だと気付いたのは矢田の問いにはいと答えて、電話を切った後のことであった。

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