円谷、同好の士

まこと趣味というものは「趣き」の「味」という言葉が示す通り、人生の甘味ともいうべき享楽の世界である。醍醐味と換言してもよいかもしれない。醍醐とは乳加工製品の中で特上の物を指すとされているが、それを口にしたことのない円谷にもその食後のうっとりとした微睡みは容易に想像せられた。趣味の世界とは中途の道筋はどうであれ、最終的には醍醐味を味わい尽くすための世界でありその帰着点は同じものに違いない、と円谷は確信している。


「こんな状態のものが現存しているだなんて信じられない……ちょっと海部さん、こんなものどこで手に入れられたのですか?」


ま、とある筋からね、と語る目の前のアバターは円谷がFM3内のサークルで懇意にしている懐古趣味仲間である。海部というのは本名であってサークルの中では「梅」と名乗っている。円谷はFM3が管理する懐古趣味サークルに所属していて、その中でもあらゆる方面へ雑食的に手を伸ばす海部と特に気が合った。そのため仮想現実を離れても二人は友人なのであり、2人で話す際には仮想現実内でも本名で呼び合った。ここは仮想現実内の喫茶店である。


海部が2人の目の前に表示させているのはかつて流通していた2000円札のエラー紙幣のホログラムである。エラー紙幣と言っても印刷のズレや印刷番号のミス、傷や掠れなどエラーの様式は様々なのだが、このエラー紙幣は守礼門の裏にまた守礼門が鎮座している、大変わかりやすく、それ故希少価値も高いエラー紙幣なのであった。


「2000円札が発行された当時は1000円代の買い物に使いやすいし、なんて期待して無理矢理使っていたのだけど結局邪魔っけでね、店でも出すと他のお札と間違えられてお釣りが違っちゃったりして混乱したもんだよ」

「でも今こうして見ると緑色が涼やかでいいですね」

「裏面に源氏物語の『鈴虫』が書かれているところもいい。これまでの貨幣とは一味違うぞ、という意気を感じるよ」


これは裏面がないけれども、とカラカラ笑う。海部は還暦を迎えており、円谷にしてみれば親より一回りほど先を生きる老人、というくらいの年齢であって初めて会った時には驚いたものだ。しかし長い人生経験に裏打ちされた知識量と、還暦を超えて仮想現実に飛び込むほど飽かず湧き出る興味の深さ、更に小事に拘らない磊落な性格が非常に快く、今ではこうして互いの蒐集したコレクションを見せ合う友人となっている。


「それにしてもいやぁ、エラー貨幣、エラー紙幣というのはどうしてこうも我々の心をくすぐるんでしょうね。僕も初期傷のついた1000円札なんかだったら持っていますがここまで大味なエラーを見たのは初めてで興奮しています」

「普遍的なお金という物体に施されたこの強烈な異物感が堪らない。初めて見た時に、ほしいという気持ちをあんなに抑えがたく思ったのは随分と久しぶりだったよ。やはり人間たるもの皆一点モノに弱い。特に強烈な個性を放つモノにはな。」


「人間だってそうだろう?皆一点モノだ。だからこそビビッと来る人に出会えた時の感動は大きい」

「相違ないですね、僕も海部さんと出会えてよかったと思います」


嬉しいこと言ってくれるじゃないか、と言う海部の顔は綻んでいて殆ど慈愛の表情と言っても良いほどだった。海部は一人暮らしをしている。どうやら子供はいるらしいがその現在は円谷も知らない。円谷は海部が自分に注ぐ視線を孫に向ける視線と同じように感じていたが、それは勘違いや自惚れではなかろう。対して円谷が海部に向ける視線は同様の趣味を持つ者への親しみと尊敬で構成されていたので、両者の視線は微妙に異なる角度で交わっていたのだが、海部の鷹揚さと円谷の無頓着によって彼らは上手く付き合っていられるのであった。


「それで、今日の目玉と言うのはなんです?口ぶりからして相当大事な物みたいですが」


今日この仮想現実で二人が落ち合ったのは海部から声をかけた結果であって、エラー紙幣を見せるためならいつものように円谷が自転車で海部の屋敷に出向けば良いはずなのである。円谷の家から海部の持つ大きな日本家屋まで30分もかからずに到達できるし、途中で馴染みの骨董屋にも寄ることが出来る。海部はいつも気兼ねなく円谷を呼び出したし、円谷はふらりと海部の家に出向いた。わざわざ仮想現実で見せるというなら家に置いておけないほど重要な物のはずであった。


「うーん、大事といえば大事なんだが……」

「珍しく歯切れが悪いですね、もしかして猥褻なモノですか?」

「そんな元気とうに枯れているよ、というか老人の下半身の話など聞きたくもないだろう」

「そうですね、聞きたくないです」

「尿漏れが気になる時があってね」

「話聞いてます?」


冗談だよと笑う海部はそれでも歯切れ悪く、切り出すタイミングを計っている。コーヒーを口に含み、熱いと言って大仰に舌を冷ましているが、ここは仮想現実であってコーヒーは全て適温に管理されている。まさか養子になれと言われるんじゃなかろうかと危惧した円谷が先を促すと、意を決したように円谷を見つめて思いもよらないことを言った。


「実はね、円谷君に会って欲しい人がいるんだ」


円谷はこうして海部と仮想現実内で意気投合して現実でも会っているが、円谷にしてはこれは大変珍しいことだった。元来人見知りというか、はにかみ屋の気質の強い円谷は同じ趣味を持つ同好の士を見つけるのにも窮し、やっと見つけたのがこのFM3内でのサークルであった。流石にその中に於いては多少友人も出来たが海部ほど踏み込んだ関係になった者はなかった。現実にある友人もほとんどが長い付き合いを経てゆっくり凝固した友人関係なのであって、出会ってからすぐ互いの家を行き来するほど懇意になった加賀見はその例外と言える。


そんな円谷の内気を知っているからこそ海部は切り出しにくそうにしていたのだろう。一瞬言葉に詰まった円谷を見て慌てて海部は付け足した。


「いや勿論無理にとは言わない。出来れば、と言う話でね」

「相手はどんな人なんです?」

「それが私も知らんのだ。こんな話に巻き込んで申し訳ないと思っているが―」


逆説的だが、この一言を聞いて円谷はなぜか自分の興味が膨らむのを感じた。人に対してはシャイであっても謎に対しては人一倍敏感なのであった。


「なんで僕に会いたいんでしょう、同好の士なんでしょうか。もしやサークルの仲間ですか?」

「いや、そういう訳でもないのだ。君は最近MDプレーヤーを手に入れたじゃないか。どうもあれで再生したいものがあるらしい。私も懐かしいよ、あのポケットサイズは革命だった。やはりコンパクト化は日本の十八番だ。」


海部は円谷の思うMDに対する感傷をそのまま述べ、こう続けた。


「やはり君には変に隠し立てせず言ってしまおう。どうもこういうのは苦手だ。本当のところこのエラー2000円札はまだ手に入ってないのだよ」

「なるほど……いや確かに海部さんなら手に入ればすぐに実物を見せてくれるだろうにおかしいなとは思っていました」

「バレていたか。実はこれは僕の友人が持っているものでね、譲ってほしいと頼んだら交換条件としてMDの再生装置を要求されたんだ。そこですぐに円谷くんが浮かんだよ。今は待っていてくれているんだがあと2日で彼が待つと言った期限が切れてしまう。」


「最初に2000円札を見せたのはズルかったな、私がどれだけこれを愛しているか君に語ってしまったし……それでもやっぱり僕はこれが欲しくてさ、君が外で人と出会うのをあまり好まないと知っているけど、それでも頼んでみたって次第なんだ」


円谷はこういう海部の率直さが好きだった。裏にある目的を隠そうともせずに曝け出すのは美しいと思う。反対に目的をチラつかせて交渉の場に臨むのは交渉の常套だが、それを円谷は最も憎んだ。相手に察してもらおうなどと言う虫のいい考えが好かないので、それが円谷を交流の輪から遠ざける一因にもなっていた。多くの人間は半透明の磨りガラスに入れて目的を持参する中、円谷はそのまま、或いは不透明の箱に目的を備えることを好んだ。


「今どきMDプレーヤーを探しているなんて奇特な人もいるもんですね」

「形見の品とか、遺品整理なんかでその需要も増してきているみたいだよ」

「そのご友人はどういう人なんですか、やはりお年を召している方ですか?」

「いやその子もまだ若い子でね、趣味がそれほど共通している訳じゃないんだけれどたまにうちに遊びに来てくれるんだ」


円谷は海部の広範な交際範囲に内心で舌を巻きながら海部の友人なら会ってもよいかと思い始めていた。気が合うかどうかはさておき、それほど変な人間じゃあるまいと思ったからだ。さっそくその旨を伝えようと考えたが、そういえば相手は海部も知らない人だと言っていたことを思い出す。それについて尋ねると


「そのMDの持ち主はその友人の友人らしいんだ」


と答えた。


「つまり海部さんの若い友人の友人が僕のMDプレイヤーで聞きたいMDがある、と言うことですか」

「そういうことになるね、僕も知らない人を友人に紹介するなんて常識外れもいいところだと思うのだけれど……」


そういうと海部は未だくるくると頭上を回る2000円札を見た。余程収集欲が高まっているのだろう。その気持ちが痛いほどわかる円谷は、貴重な年配の友人の頼みを聞かずに居れないような気がして、結局申し出を受けることにした。


「いやあ、本当にありがとう!その友人には話がまとまったら呼ぶようにと言われているんだ。ここに呼んでもいいかな?たぶんその依頼者の子も連れてくるんだと思うよ」

「まぁ一度も会わずに、っていうのも変ですからね、そうしましょう。コーヒーもう一杯頼んでも良いですか?」

「コーヒーと言わずにケーキでもなんでも好きな物を食べていいよ!ささやかなお礼だ」


無遠慮にチーズケーキセットを頼んだ円谷の正面で、海部はその友人に仮想空間内の喫茶店へ来るようメッセージを送っているようだった。それからしばらく最近の蒐集物のお披露目会をしていた二人だったが、円谷は一応の確認を取る。


「海部さんのことなんて呼べばいいですかね、やっぱり梅さんと呼んだ方が?」

「いやぁ、友人は僕の名前を当然に知っているし依頼者も別に構わんだろう。逆に円谷くんの方をアカウント名で呼んだ方がいいのかな?すまんね気を回せずに……」


円谷は失敗したな、と思った。この聞き方ではどうも自分が配慮を求めているように取られても仕方がない。図らずも自分の嫌いな「察してもらう」やり方を踏んでしまったようで微かに苛立った。正直に言うと本名を出さずに協力出来たらと思っていたのだが、ここでは結局海部の気遣いを断ることになった。円谷は意地張りな自分を悔やんだ。


「お、来たみたいだよ」


入口の方を見遣ると、海部の友人らしき男のアバターとその連れ合いのアバターが入ってくるところだった。中性的な容姿をしている。ここでもニコニコしている海部の招きで両者はテーブルに向かってきたので、円谷は席を立って海部の横に掛けた。見知らぬ人物と尻を共にするのは緊張するからだ。海部の友人は慇懃に梅さん御機嫌よう、と挨拶をすると自らは小五郎と名乗って海部の前に腰掛けた。依頼者は細い声で


「矢田です。この度はありがとうございます」


と言って丁寧に頭を下げた。嫋やかで優美な動きであり、女性だったのか、と円谷は胸中で心臓を躍らせた。それから慌てて円谷です、と何のひねりもなく頭を下げた。


「ここでは皆本名ということだね。小五郎くんも海部、でいいからね」

「そう言っていただけると幸いです」


どうやら小五郎というのは実名のようだ。自分も実名であると説明した円谷はこちらをじっと見つめる小五郎の視線に戸惑った。


「矢田さんは私の大学の友人です。ずっとMDプレイヤーを探していたみたいなのでつい海部さんとの交換条件に出してしまったのですが意地悪だったかなと思って少し心掛りだったところで」

「僕が円谷くんと友達で良かったよ!なにせ稼働するMDプレイヤーとなると最早日本に何台あるか分からない」

「本当にありがたいです。私もまさか見つかるなんて……」


再び頭を下げる矢田の一挙手一投足は連続性を帯びて雅楽的というか、日本的な印象を受ける。円谷はそれを仔細に観察したかったが、未だにこちらから目を離さない小五郎を意識するとそれはどうにも叶わなかった。ひょっとすると友達という関係に収まらぬ関係なのかもしれないと円谷は残念に思った。故に多少骨ばった調子で矢田に予定を尋ねた。


「いつでも良いのですが、では明後日では如何でしょう。急すぎますか」

「いえ、僕は暇なので大丈夫です。場所は―」

「それなら私の家で良いだろう。小五郎くんが知っているし彼女を連れてきてあげたらいい」


すると小五郎は用事があるそうで、意外にもそれを断った。ここで断るということはやはりただの友人関係なのかもしれない、円谷はそう思うと少し元気づく自分の単純さを馬鹿らしく思った。


「海部さんの家は孟宗竹に囲まれた日本邸宅って感じで分かりやすいから大丈夫だよ、海部さんもいい人だしその友人なら円谷くんもいい人に違いない」

「円谷くんの人柄については私も保証しよう、還暦過ぎた爺さんの観察眼に狂いはない」

「還暦、まぁそうだったのですね。通りで落ち着き払ってらっしゃると」


そんな会話が交わされ、結局明後日の夕方に海部の家で二人は顔を合わせることに決まったのである。円谷は妙なことになったものだと思いながら海部の家の涼しさを考え、矢田は気に入るだろうかと思案した。

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